マタイ2・1-12
この秋、ある地方都市といいましょうか、山裾の町に行く機会が与えられました。そしてそのとき、わたしは久しぶりに夜空に輝く満天の星を見ました。それは見事なものでした。しかしそのとき、わたしは少々戸惑いました。オリオン座はすぐにわかったのですが、ほかの星座がわからなかったのです。わたしはそんなによくは知らないけれども、少なくとも有名な星座の形と名前は、いくつかわかるつもりでいました。ところがどうもわからないのです。それは、ひとつには、わたしが久しぶりに星を見たこと、そしてもうひとつは、わたしにとって、見える星の数が多すぎるからでした。
高村光太郎さんの詩集「智恵子抄」に、「智恵子は東京には空がないといふ」という、よく知られた言葉ではじまる「あどけない話」という題の詩があります。この詩をわたしが初めて聞いたのはいつだったでしょうか。おそらく中学生くらいのとき、学校の国語の時間ではなかったかと思います。そしてそのころのわたしは、いくら東京でも空は見えるだろう、僕なら、同じように空を見ても、こんな風には思えないと感じたように記憶しています。智恵子さんは福島の出身であり、福島の空が、彼女にとっての空だったということもあるでしょうし、また彼女は絵を描く人でしたから、その感性からして、東京には空がないと思えたのでしょう。しかし考えてみれば、この詩が書かれたのは、昭和の初めか、あるいは早くても大正の終わりころ。いくらビルが多くても、今とは比べ物になりません。またビルといってもせいぜい5階建て、6階建てくらいではなかったでしょうか。東京全体でいえば、まだまだ背の低い木造の家屋が多かったのだろうと思います。そのような時代に、「空がない」と言うことができた感性はとてもすごいことだと思います。
そして実際のところ、空があっても、わたしは日頃見上げることなど、ほとんどありません。わたしにしてみれば、昼間の空を見上げるとすれば、せいぜい、雨が降るかなと、天候を気にしながら見上げる程度です。また夜、教会の集会が終わって、外に出たときに、ビルの谷間に見える月を見たり、2つか3つ見えるだけの星を見たりしますが、それで空を見たことになるのかどうか、あやしいものです。空を見ているつもりでいても、本当のところはぜんぜん見ていないのです。そしてたまに見たとしても、星座を見分けることさえできませんし、満天の星を見ても、すごい、たくさんだというくらいしか、表現する力がありません。
主イエス・キリストがお生まれになったとき、「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」と聖書に記されています。その当時、町の灯かりがどんなに明るかったとしても、せいぜい灯心に火をつけた程度か、薪を燃やす程度の乏しい明かりだったことでしょう。その日も満点の星が輝いていたに違いありません。そしてそのような満点の星のなかで、ひときわ輝いた星があるとすれば、それはどんな輝きだったのでしょうか。日頃星を見慣れていないわたしに、見つけることができたでしょうか。
今日、街の明かりが夜通し光り輝き、またクリスマスのイルミネーションがあちらこちらで輝いています。金子みすゞさんは、昼間の星について歌って、「見えないけれど、あるんだよ」と言いました。でも、今日のわたしたちは、夜の星さえ、同じように歌わなければならない、そんな状態です。今仮に救い主誕生の知らせの星が輝いたとしても、気づかないのではないかと思わされます。いやそれ以前に、空を見上げることさえせず、何も気づかないで時を過ごしているだけなのかも知れません。
今わたしは、空の星を見るということでお話をしました。これと同じことが、聞くということについても言うことができます。随分前にあるかたが言っておられました。繁華街のまんなかでコオロギが鳴いていた、でも誰もコオロギが鳴いているのに気づかない、きっとここで、お金を落としたら、チャリンという音に気づくだろうに、と。確かにそうだろうと思います。お金の音に気づいても、虫の鳴き声に気づかない、そんな生活をわたし自身がしていると思います。教会の前には、背の高い木がたくさんあります。ですから私には名前も分からない小鳥がたくさん飛んできます。そしてときどき小鳥の声が聞こえます。この町中にあって小鳥の声を聞くことのできるのは幸せだと思います。でも、仕事が忙しかったり、心があわただしい、余裕のない状態だと、小鳥の声に耳を傾けることもありません。そんなことは忘れてしまっています。小鳥の声や、道端に咲く花は、心あわただしくしているときには気付かないのです。私たちのこの社会は、立ち止まって静かに聞くということがなかなか出来ません。毎日があわただしく、心振り返る余裕がないように思えます。
今日お読みいただいた聖書の箇所は、救い主イエス・キリストがお生まれになったときの出来事が書かれています。東の国の占星術の学者たちは、ひときわ輝く星の光を見て、救い主がお生まれになることを知ります。そして彼らは旅に出ます。救い主を求めての巡礼の旅です。しかし、彼らは最初に間違いを犯します。それは救い主というからには、エルサレムの都、王さまの宮殿にお生まれになると勘違いをしたのです。彼らはそこで、道を正されます。聖書の言葉を調べた結果、救い主がお生まれになるのは、小さな村ベツレヘムであることを知ります。そして旅の行く先を正したとき、星が再び現れて、幼子のいる家の上で輝いたのでした。
救い主の誕生が二つの方法で知らされていることがわかります。ひとつは、輝く星によってでした。星によって何かを知る、星占いというのは、今日のわたしたちには非科学的に思えます。でも、ここでは美しい物語として素直に受け止めたいと思います。そしてもうひとつは聖書の御言葉によってです。預言者は、救い主がベツレヘムの村に生まれることを告げていました。これは、旧約聖書のミカ書5章に書かれているところです。またイザヤ書にも、「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」と預言されているとおりです。他にも、多くの箇所をあげることができます。
今日のわたしたちは、救い主の到来を何によって知ることができるでしょうか。わたしたちは、どのように救い主と出会うことができるでしょうか。まずはっきりしていることは、星を見えなくするほどの明るさのなかでは、気づくことがないということです。そしてまた、救い主は王さまの宮殿にはおられない、この世の力、この世のきらびやかさ、目に見える繁栄とか、高いお金を積んで手にいれるもののなかには、救い主はおられないということです。
闇のなか、言い換えれば、人生のさまざまな困難や悲しみのなかで、天を仰ぎ、神さまを見上げるとき、そして、心静かにして聖書の御言葉に聞くとき、救い主はわたしたちの心のなかに入ってきてくださるのだと思います。
わたしは今、聖書に記されているいくつかの話を思い起こします。ヨハネ8章で、世間から罪を犯したと指差される女性が出てきます。人々が彼女を石打の刑にしようとしたとき、主イエスは言われました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉を聞いて、人々は立ち去ります。そして最後に主イエスは言われるのです。「わたしもあなたを罪に定めない。」この物語は、主イエスの深い人間理解と、愛を表わすものだとわたしは思います。そしてこの女性は、主イエスの愛を心に感じることによって、新しい命の道へと歩みを始めたのでした。
もうひとつ、ペトロが主イエスを知らないと、3度も言った話を思い起こします。主イエスが逮捕されたとき、一人の女性がペトロを指差して言います。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロはわが身に危険が及んだことを知り、あわてて言うのです。「そんな人は知らない。」主イエスはペトロの裏切りを予め告げておられました。ペトロは、自分が裏切ったことに気づいたとき、大声をあげて泣きます。こんな裏切るような自分を、主イエスは、全て承知の上で弟子にしてくださったのだと。
今あげたふたつの例は、ふたつとも、人間の罪深さと、主イエスがその人を罪あるままに、人間存在として認め、愛してくださっていることを示しています。そして、罪あるままに愛されていると気づいたとき、ヨハネ8章の女性も、弟子のひとりペトロも、新しい命の道に歩み始めたのでした。このことを別の言い方をすれば、人間は、罪や弱さという闇のなかにあるときにこそ、主イエスという愛の光を見出すことが出来るのではないでしょうか。もちろん、闇をそのまま肯定するのではありません。闇のなかでもがき、苦しんでいるときにこそ、光を見出すチャンスが与えられているということです。
高村光太郎さんの「智恵子抄」の話をしました。高村光太郎は、晩年、岩手県の山奥に住んでいたときに、こんな詩を書いています。「人を信ずることは人を救ふ。かなり不良性のあったわたくしを 智恵子は頭から信じてかかった。いきなり内懐に飛び込まれて わたくしは自分の不良性を失った。わたし自身も知らない何ものかが こんな自分の中にあることを知らされて わたくしはたじろいだ。少しめんくらって立ちなほり、智恵子のまじめな純粋な 息もつかない肉薄に 或日はつと気がついた。わたくしの眼から珍しい涙がながれ、わたくしはあらためて智恵子に向った。智恵子はにこやかにわたくしを迎へ、その清浄な甘い香りでわたくしを包んだ。わたくしの猛獣性をさへ物ともしない この天の族なる一女性の不可思議な力に 無頼のわたくしは初めて自己の位置を知った。」
これは智恵子が亡くなった後の詩ですが、例えようのないほど甘い恋歌です。しかし、よく読むと、ここには人間にとっての救いとでも言うべきものが、深く歌われていることに気づきます。高村さんは、自分のことを、「かなり不良性のあったわたくし」と言っています。不良、悪、罪、どうにもならない存在であった人間が、他者から愛され、頭から信じてかかられることによって、その不良性を失ったと言うのです。そして、天に属するこの他者によって、自分を知った、と。
今のこの社会は、あまりにも偽りの飾り、偽りの光が多く、夜の闇さえわからなくなっています。そしてそれゆえに、まことの光、愛の光に気づかなくなっているのではないでしょうか。主イエス・キリストは、わたしたちを愛しておられます。わたしたちが、どのような人間であっても、赦しを与え、愛を与え、頭から信じてかかってくださっています。天を仰ぎ、神さまを見上げ、また聖書の御言葉に聞く者になりたいと願います。救いの知らせを、しっかりと聞き取り、受け止めたいと願います。
(2007年12月24日 キャンドルサーヴィス・クリスマスメッセージ)
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