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2007年11月 「神の御子キリスト」 牧師 横野朝彦
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コロサイ1・15―20
本日は、教会歴で降誕前第9の主日です。聖書日課には「創造」のタイトルがついています。主イエスを待ち望むときというのが、待降節だけではなくて、さらにそれ以前から旧約聖書の昔から、神さまがわたしたちの救いを約束してくださっている。救いの約束を与えてくださっている。そのことをあらわすのがこのとき、降誕前節なのです。そのため以前はこれは契約節と呼んでいたのです。そしてこの契約節の最初の週には、神さまの創造を覚えます。
わたしたちは神さまを見ることができません。神さまのことをいくら言葉で表現をしても、それはわたしたちの知識や経験の枠内での言葉を用いるほかありません。ですから、漫画で描かれるように、神さまのことを、雲の上にいて、白髪で髭をはやし、杖を持ち、白い服を着たおじいさんだと表現したとしても、それを笑うことはできません。なぜなら、神さまが地上に住む人間よりもはるかに越えた世界におられることを雲の上と表現し、深い知恵に満ちた様子を老人として描き、またその清いさまを白い服で表現しているのでしょうから、それはむしろ的確に描いていると言うことができるのではないでしょうか。
今日の聖書日課、お読みいただいたコロサイの信徒への手紙のほかに、実は創世記1章も指定されているところです。創世記1章1−5節と24−31節が指示をされています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」このようにして6日間に渡って天地が造られ、動植物が造られ、わたしたち人間が造られるわけでありますけれど、このことも言うまでもないことでありますが、誰かがこのときに目撃をしてこれを記したわけではありません。これはやはり目に見えない神さまのことを、わたしたちの精一杯の言葉で言い表わした信仰告白というべきであろうと思います。そしてこのなかでわたしたちは、なにがこのことによって教えられているのかを考えるときに、たくさんのことが言えると思いますが、ひとつにはわたしたちが被造物であること、神さまによって造られたものであることです。そしてもうひとつ大切なこと、それは、「神は光を見て良しとされた」という言葉だと思います。これは、最初の日にそのように書かれているだけではありません。ほかのときにも、「神はこれを見て良しとされた」と、天地創造のすべてにおいて記されているところです。
神さまがわたしたちを造られたという、信仰告白において言われていることのひとつ、それは、神さまはわたしたちにとってどのような方なのか、それはわたしたちに「良し」と言ってくださる方、わたしたちに肯定を与えてくださる方、わたしたちがたとえどんな人間であっても、どんなものであっても、神さまは「あなたは良いのだ」と言ってくださる方だということ、これがこの箇所のメッセージだとわたしは理解しています。
さて、木曜日の祈祷会で、使徒言行録を共に読んでおり、先日三位一体という言葉、考え方について話題となりました。三位一体という言葉自体は聖書のなかに書かれているわけではなく、聖書の教えを神学的に表現したものです。神さまは唯一の存在です。しかし聖書を読むと神さまは、父なる神、子なるキリスト、そして聖霊という3つの顔といいましょうか、3つの存在様式を持っていることがわかります。それをやはり、わたしたちの精一杯の言葉で言い表わしたのが三位一体だと言うことができます。神さまをわたしたちは目で見ることはできません。しかし主イエス・キリストの生涯、十字架、復活によって、わたしたちは神さまの救い、神さまの深い愛を知ることができるのだと、聖書は証をしています。主イエスがこの世に来られ、人々に手を差し伸べられ、病める人を癒し、苦しむ人を慰め、重荷を負う人の重荷を共に担われたとき、人々は思いました。このかたはいったいどなたなのだろう、預言者だろうか、それともバプテスマのヨハネが生まれ変わったのだろうかと。あるとき、主イエスは弟子たちに尋ねられます。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか。」この問いに対して弟子たちは言います。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」そこで主イエスがもう一度尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です。」
舟に乗る弟子たちに逆風が吹いてきて危険が迫ったとき、そこへ主イエスが現われ、波を静められたとマタイによる福音書14章にあります。そのとき舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言って主イエスを拝んだと記されています。あるいはまた、主イエスの十字架を目撃したローマの軍隊の百人隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と告白したと、マルコによる福音書15章に書かれています。このように、主イエスに出会った人は、「あなたはメシア、生ける神の子です」と告白し、「本当に、あなたは神の子です」と告白し、また、「本当にこの人は神の子です」と言い表わしたのです。このかたにこそ、神さまの深い愛が表されていると感じ、また神さまの救いがここに表わされていると感じたのです。
ヨハネによる福音書1章に、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と書かれています。神さまの姿をわたしたちは見ることができません。神さまはこういうかただ、ああいうかただと、言葉で表現することはできません。しかし、主イエスの生涯、十字架、復活を目撃し、出会った人たちは、ここにこそ神さまの愛と救いが表されていると気づいたのです。神さまがどのような方なのかはわからない、神さまを見たことはない、けれども、イエスさま、このかたこそ神の子ではないか、イエスさまの大きな愛に自分は生かされている、ここに神さまの救いがある、そう信じて、このかたこそ、神の御子キリストであると信仰の告白をしていったのです。
今日はコロサイの信徒への手紙を読んでいただきましたが、その2章9節に、「キリストの内には、満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」いると告白されています。このかたこそ神の御子キリストであると、コロサイの信徒への手紙は証をしています。
主イエス・キリストは、神の御子としてわたしたちのもとに来てくださいました。わたしたちに神さまの愛を示してくださいました。人間の罪や弱さを明らかにし、そこからの救いを示してくださいました。わたしたちは自分という人間さえよく分かってはいません。自分の愚かさを知ることなかなかできない、自分中心の存在です。そのようなわたしたちに、主イエスは人間の罪深さをもあらわにされました。律法主義やファリサイ主義と呼ばれるもののなかに、傲慢と自己義認があることをあらわにされ、人を差別する心のあることをあらわにされました。
そしてまた、主イエス・キリストは、この世において捨てられた人々、その重荷を担われ、病める人を癒されました。見失われた羊を探し求めてくださいました。罪人とされている人々と共に歩まれ、「あなたの罪は赦された」と、罪からの解放を宣言されました。そして何よりも、ご自分は上に立つ生き方ではなく、しもべとして仕える生き方であることを、身をもって示され、十字架への道を歩まれたのでした。
繰り返し申しますが、わたしたちは、神さまを見ることができず、わかることなどできません。しかし、主イエスの愛にふれることによって、神さまを知ることができたのです。これを「啓示」と言います。主イエスはこのわたしを愛してくださっている、主イエスの十字架はわたしのためであると、人々は心から感じ、信仰を告白し、ここに神の愛と救いを見いだしていきました。
そしてまた、主イエス・キリストの愛と救いを体験した人たちは、同時に、主イエスがわたしたちを愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うべきことに気づいていきました。主イエスの愛を知り、主イエスにこそ神の愛が表れていると知った人たちは、極めて具体的に、互いに愛し合うことによって神さまが共にいてくださることをも知ったのです。
神さまという存在を観念的に考えたり、空想に近い形で想像したりするのではなく、きわめて具体的に、互いに愛し合う生き方へと変えられていきました。ヨハネの第一の手紙4章12節に、「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」と記されています。このことがキリスト教にとって本当に大事な点であるとわたしは思います。
エフェソの信徒への手紙2章に、キリストはわたしたちの平和であると告白されています。十字架につかれることによって、わたしたちの間にある敵意を滅ぼしてくださったと記されています。わたしたちの社会は、憎しみの連鎖を持ち続け、憎悪に憎悪を重ねています。しかし、武力によって敵を支配しようとしても、それはけっして成功することはありません。ただ、キリストがご自分の十字架によって憎しみの連鎖を断ち切られた、そこにのみ平和への道があります。そこにこそ、和解、仲直りへの道があります。それは人と人との間の和解です。
そして同時に、聖書は神と人との間の和解についても語っています。人間は罪深く、神さまの御心から遠く生きている、そのような人間が神さまに赦していただける道はあるのか、昔から人々は、神さまに赦していただくために多くの努力をしてきました。そのひとつは、正しくあるために懸命に努力する道でした。律法を守り、間違いを犯さないように、厳しく人間を管理する道でした。でも、そのような生き方は人間を窮屈にし、ますます罪を増し加えるだけだったのです。神さまに赦していただくもうひとつの方法は、神殿で犠牲の供え物をすることでした。たくさんの供え物をすれば神さまに認めていただけると人々は考えていました。マタイによる福音書6章にありますが、当時、多くのささげものをしたときに、神殿でラッパが吹き鳴らされるという習慣があったようです。でも、貧しい人たちはいつまでたってもそのようなことをすることはできません。
そのようななかで、神さまはわたしたちに赦しの道を与えてくださいました。それは、人間の自己努力によるのではなく、神さまの側から一方的に赦しの手を差し伸べてくださる道でした。言い換えれば、神さまの側から一方的に「あなたは良いのだ」と言ってくださる道でした。ヨハネ第一の手紙4章に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と述べられています。これこそ、神さまの側からわたしたちに与えられた和解の道、和解の福音でした。
本日はコロサイの信徒への手紙1章から読んでいただきました。今日の箇所にも和解について述べられています。19―20節、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。」このように、主イエス・キリストによってわたしたちに神さまの和解の手が差し伸べられたことは、聖書全体が証をしているところであり、キリスト教の福音の中心と言うことができます。今日の箇所の続き、21―22節にも述べられています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました。」以上、コロサイの信徒への手紙が、キリストによる和解について書いていることは、読むと理解できるところです。
しかし、今日読んでいただいた箇所には、ほかのことも書かれています。それは15節以下にあるように、「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」という表現です。今日の箇所は日本キリスト教団の聖書日課に従って選びました。正直なところ、この箇所を選んでお話をするにあたり、何を語ればよいのか、ずいぶんと苦しみました。
16節にも、「天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました」と書かれています。これも、言葉としてはわかります。でも、なんだかよく分からないと思われるのが普通ではないでしょうか。主イエス・キリストの生涯、その愛と救いはわかる。しかし主イエスが万物を造られたとはどういうことなのか、と思われるのが、むしろ普通だと思うのです。
聖書日課によると、今日の箇所には「創造」というタイトルがつけられています。そして聖書日課には、コロサイのこの箇所だけではなく、創世記1章も同時に指定されています。そしてさらにもう一箇所、ヨハネによる福音書1章も今日の箇所に指定されています。「初めに言があった。言は神と共にあった。」神の御子であるキリストが世の初めからおられたという信仰理解がここにあらわされています。
でも、今日の箇所はいったい何が言われようとしているのでしょうか。新共同訳聖書は、今日の箇所の前、9節からを段落として、「御子キリストによる創造と和解」という見出しをつけています。これは今日の箇所で語られていることをよく表現している見出しだと思います。結論的にいえば、人間が罪を犯し、神さまの御心から遠く離れ、また人と人とが互いに傷つけあっている状態において、神さまがくださった和解、赦しの御手を、教会は、これこそ新しい創造であると理解したのです。パウロは第二コリント5章で言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
福音書を読むと、キリストと出会った人たちが新しい道を歩みはじめていることがわかります。ザアカイの話を思い出してください。彼は多くの人から多くの金を取り立て、手下を使って悪をおこなっていたと考えられます。人々は彼を嫌い、徴税人ということで差別の対象としていました。しかしそのような彼のもとに主イエスが来てくださいました。「ザアカイ、下りてきなさい」と呼びかけられ、そして彼の家に今日は泊まろうと言ってくださる。聖書はそのことを、「今日救いがこの家に訪れた」と記しています。わたしはこのことを、創世記1章の言葉で言うならば、ザアカイに対して神さまの「良し」が与えられた出来事であると思います。つまり、神さまの和解、赦しの御手、それこそ新しい創造であるということです。
主イエスにこそ神の愛が現れ、神の救いが現れていると信じ、ここにこそ人と人との和解、そればかりか、罪を犯し神から離れていた人間への神さまの側からの和解の道があると信じ、ここに新しい創造を見た。それがコロサイの信徒への手紙1章がわたしたちに語りかけているところです。
旧約聖書の昔から、神さまは救いを約束してくださっていた。神さまと人々との間に救いの約束がされていた。それゆえこれを契約節と呼び、神の創造を覚えるときとされています。契約節の最初の日、このとき、ただ天地創造の昔を振り返るだけではありません。御子イエス・キリストに出会うことによって、自らの罪を知り、そこから真に解放され、新しく創造されたものでありたいと願います。わたしたちも新しく生かされてまいりたいものです。
(2007年10月28日 礼拝説教)
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