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2006年9月 「愛がなければ」 牧師 横野朝彦
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第一コリント12・27―13・13
わたしたちが自分の力によって生きているのではなく、多くの他者の力によって生かされてきたことは、改めてわたしが申すまでもないことですし、これまでにも何度もお話をしてきたところです。そもそもいのちは、人間が自分の力によって作ったものではありません。天地の造り主である神さまによってわたしたちのいのちは与えられ、わたしたちは生かされています。また、他者の力よって生かされてきたという場合、まずわたしの親とか、家族とか、近しい友人たちを思い浮かべます。近しい人たちによって、具体的に助けられ、生かされてきたのは確かです。でも、それだけではないはずです。わたしにとって今すぐに名前を思い出せない人であっても、わたしの人生になんらかのかかわりがあり、わたしはそのような多くの人によって生かされてきたのだと思います。
食べるということを考えてみても、農作物を作ってくださった農家のかた、それを運んでくださったかた、それを売っておられるかたと、たくさんの労働があって、わたしたちのもとにやってくるのですが、今ではそれが、近くの畑で作られたのではなく、アジアの国々で取れたもの、そればかりか、地球の裏側で取れたものを、知らずに食していることがしばしばです。しかも、いっぽうに飽食の国があり、いっぽうに飢えがあります。それを思うと、わたしたちは、自分ひとりの力で食べ、生きているのでないのでして、そればかりか、たくさんの問題があることに気づかされます。日本の有名なメーカーの電気製品を手に取って、裏側を見ると、Made in ChinaとかMade in Philippinesと書かれています。日本のメーカーでも、日本製ではないのです。わたしたちの生活は今や世界中の人たちと相互依存をして、しかもそこに多くの問題をはらんでいます。
先週9月2日、聖路加国際病院の細谷亮太先生が番町教会で「『いのち』について思うこと」と題してお話をしてくださいました。お話のなかで細谷先生は、人が生まれてくるのは、受胎したうちの3割でしかないと言われました。初期のうちに、知らずに流産をするなどによって、生まれてこないほうが多いというのです。また細谷先生はご自分のお子さんが自転車に乗っていて交通事故にあったけれども、たいした怪我をせずに助かったこと、同僚のかたのお子さんがまったく同じ状況で事故にあい、亡くなられたことを話されました。
そしてまた、生まれてくる子のうちで、ある一定の割合で、ダウン症などの障害を負う子たちがいることも話されました。そして、細谷先生は、わたしたちはみんながそういう運命を共有しているのだから、亡くなる人も含め、それを自分の問題であると引き受けていくこと、障害を持っている人を自分の仲間だと思うことが大切であると語られました。このあたりの話が、わたしには一番強く印象に残りました。
一昔前まで、日本の社会では、障害を負う人たちが町に出ることさえ大変でした。ゆがめられた因果応報の思想によって、何か悪いことをしたからああなったのだという考えがありました。そしてわたしたちの社会には、そのような考え方が、今も根深いところで残っているようです。それに対し、細谷先生が語られたことは、とても大事なことだと思います。
わたしたちが今生きていること、生かされていることは、なんと不思議なことでしょうか。ある人が障害を負い、わたしは負っていないとすればそれはなぜなのでしょうか。ある人がいのちを失い、わたしが生きているのはなぜなのでしょうか。災害や事故によって生き残った人が、自分がなぜ生き残ったのか、それは死んだ人の分まで生きるようにいのちを与えられたということではないか、そんなことを語られるのを、わたしは何度も聞きました。生きているというのは当たり前のことではなく、多くの人によって生かされている、それは今生きている人によって生かされているだけではなく、そればかりか、いのちを亡くした人たちによっても、今の自分があるのです。
そのように考えていると、わたしに聖書の言葉が強く迫ってきました。それは、第一テサロニケ5章10節です。「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。」聖書はこのように、キリストの死によってわたしたちが生かされていると述べています。
キリスト教は、このことを福音の核心としてかかげています。第一ヨハネ3章16節に、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」と教えられています。また、第一ヨハネ4章9節に、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです」と書かれています。神は独り子を遣わし、十字架によって愛をあらわしてくださった。それによってわたしたちは生かされているのだと聖書は証言しています。
このような愛によって、わたしたちは生かされているのです。家族によって生かされているとか、友だちがいるからとか、それも事実ですが、それだけではなく、わたしが気づかないでいる人をも含め、そして障害を負う人や病気の人や、いのちを失った人たちをも含めて、わたしたちはその方たちによって生かされているのです。そして聖書は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださったキリストの愛によって生かされていると証言をしています。
さて、今朝お読みいただいたのは、「愛の賛歌」と呼ばれる、新約聖書のなかでも特に有名と言ってもよい箇所です。どのような良い業も、どんなに素晴らしい言葉も、そして知識も、信仰さえも、愛がなければ無に等しいと、愛のすばらしさを歌ったこの箇所は、結婚式においてしばしば読まれます。また、わたしは「今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」という言葉や、「愛は決して滅びない」という言葉を取り上げて、葬儀や記念会においてもしばしばこの箇所を朗読してきました。味わい深く、心になにか大切なものが残る素晴らしい言葉だと思います。
「礼拝と音楽」という雑誌に、その日に読まれる聖書の箇所についての簡単な解説が載せられています。今日の箇所9月10日の項目を見ますと、小さなエピソードが紹介されていました。女優の桃井かおりさんがドラマに出演をして、第一コリント13章を朗読するシーンがあったそうです。そのとき桃井さんは、涙で言葉がつまり、「こんなすばらしい言葉をどうして平静に読めるというの!」と言われたのだそうです。それを思うとき、わたしたちはこの言葉をどのような思いで読んでいるだろうかと考えさせられます。誰にとっても、初めて読んだときには感動的な言葉だったことでしょう。でも、教会に集う者たちにとって、いつのまにか耳慣れた言葉になってしまっていないでしょうか。桃井さんが涙で言葉をつまらせたような思いをもって、御言葉を味わいたいものです。
12章の終わりの部分に、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と書かれています。このことからわかることは、13章の「愛の賛歌」は、12章に書かれていることにつながっているということです。12章では、わたしたちがキリストの体であり、一人ひとりはその部分であると教えられていました。人間に目の働き、耳の働き、足の働き、手の働きがあるように、わたしたちも教会にあって、ある人は目の働きをし、ある人は耳の働きをします。それらはどれが必要で、どれが不要ということではありません。なかには、これはあまり役に立たないという部分もあることでしょう。しかし12章22節に「体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです」とあるように、ここでは体のなかの強い部分が他を支配するのではなく、弱いものが大切にされるべきこと、弱い部分こそが実は全体にとって必要なのだと語られています。
そして、この教えを受けて、12章の終わりに「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と教えられ、13章の「愛の賛歌」へと続いていくのです。冒頭で述べられている印象的な言葉、「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」ここで言われていることもまた12章で言われていることと無関係ではありません。
コリントの信徒に宛てた手紙は、コリントの教会の内部における分派争いに対して、使徒パウロが諌めようとして書かれたものです。ある人はアポロにつく、ある人はケファ、つまりペトロにつく、ある人はパウロにつくと、内部がばらばらだったのです。つまり、12章で言う、目が手に向かって「お前はいらない」と言ったり、頭が足に向かって「お前たちはいらない」と言う状況です。そして13章で言われていることも、実は同じことなのです。つまり、ある人々は異言と呼ばれる言葉を語ったり、ある人々は預言を語ったり、またある人々はあらゆる神秘とあらゆる知識に通じている、なかには全財産を施すほどの人もいる、自分の命をささげてもよいというような人もいる、にもかかわらず、それらが自分勝手な主張をし、とてもまとまった体とは言えない状況があったのです。
そこでパウロは、1−4節において、たとえ異言を語ろうとも、たとえ預言を語ろうとも、またどんなに知識があっても、そればかりか、どんなに信仰深くても、そこに愛がなければ何にもならないと言っているのです。
少し飛ばして、8節以下を見ておきます。「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。」 ある人々は自分たちは預言をすることができると誇り、ある人々は自分たちは異言を語ることができると誇っている、しかし、預言も異言も、知識も、それらは廃れるものに過ぎないではないか、滅びることがないのは愛だけだと、パウロはこのように語ります。11節は分かりにくい表現でありますが、ひとことで言えば、預言や異言を誇っている人たちの幼児性を皮肉った言葉です。
以上のように、この箇所はコリントの教会に見られる党派争いを背景に持ちつつ、愛こそが大切であり、愛こそが滅びないと述べられています。そして以上の言葉の間である4―7節に、愛とはどのようなものかが歌うように語られています。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」
これを読むと、なんとも居心地が悪くなります。わたしたちは他者とのかかわりのなかで、なんと忍耐の足らないことでしょうか。なんと情けの薄いものでしょうか。また、ねたんだり、自慢をしたり、高ぶることの多いものでしょうか。4節から7節にかけて述べられていることを、ちょうど裏返して言うならば、わたし自身の日常の心の動き、他者への接し方がそのまま書かれているように思えます。まったく、わたしの日常は、自慢したり、高ぶったり、礼を失したりと、ここに書かれていることの正反対だからです。
ではどうなのでしょうか。4節から7節に書かれていることは、ただ単なる理想なのでしょうか。実行できないことをただ美しく述べているだけなのでしょうか。そうではありません。ここで覚えておきたいことがあります。それは、この「愛の賛歌」で用いられている「愛」という単語は、すべてギリシャ語のアガペー、これは人間的な愛を指す単語ではなく、神さまの愛をあらわす単語だということです。ギリシャ語において、フィリアが兄弟への愛、エロスが美しいものへの愛をあらわし、アガペーは自己犠牲的な神の愛をあらわしています。そして最初にわたしがお話したことから言うならば、アガペーとは、わたしたちのためにいのちを捨ててくださったキリストの愛、神の愛ということなのです。
ですから、かなり極端な意訳ではありますが、敷衍して訳すならば、「キリストの十字架の死によって示された神の愛は忍耐強い。神の愛は情け深い。神の愛はねたまない。神の愛は自慢せず、神の愛は高ぶらない」と表現することができます。また、預言も廃れ、知識も廃れる、しかしキリストの十字架の死によってあらわされた神の愛は決して滅びないと、このように言うことができます。そしてわたしたちは、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えてくださる神の愛に生かされて、わたしたちもまた、他者に対して愛をあらわしていくことができるのです。
このように言っても、いやそんなことはわからない、現実の社会はあいかわらず高ぶり、礼を失し、自分の利益ばかりを求め、いただち、恨みをいだいているではないかと、このように思われることでしょう。しかしパウロはそのことについて、わたしたちが今見ているのは、青銅を磨いて作った鏡のようなもので、おぼろにすぎない、けれども神さまは必ず本当のことを悟らせてくださる、神さまと顔と顔を合わせてみるそのとき、わたしたちは神の愛こそが永遠であることをはっきりと知ることになるだろう、12節で言われているのは以上のようなことです。
どうして平静に読めるかというほどの素晴らしい言葉に、必要以上の解説を加えてきたのかも知れません。わたし自身このように解説をしながら思うことがあります。それは、おいしい料理はそのまま味わうべきであって、解説は必要ないことです。ですから、「愛の賛歌」についてこのように解説することは、味わい深いその味を壊しているのかも知れません。それでも、今日わたしがこのように解説をして、申し上げたいことは、この「愛の賛歌」が決して愛について観念的に考えて生まれたものではなく、きわめて具体的に、わたしたちの社会や教会や、人間関係の難しさのなかで、語られたものだということです。
具体的に人と人とが生きるところで、さまざまな摩擦があり、意見の違いがあり、衝突があります。またそのような衝突ではなくても、人にはそれぞれ違いがあります。ある人は健康に生き、いっぽうある人は病を得ています。またある人は障害を負い、またある人は健常者として生活をしています。ところがそれらの違いに対してわたしたちは無知であり、互いを思いやること少なく、そればかりか、それらの違いが、時に人間の価値の違いであるかのように扱われることがあります。そのきわめて具体的な人間社会、そして人々が集う教会の具体的な姿に対して、パウロは、神の愛こそが情け深く、神の愛こそが自分の利益を求めず、神の愛こそが決して滅びないのだと語ったのです。そして、どんなに素晴らしい人間の言葉も、あらゆる知識も、信仰さえも、愛がなければ無に等しいと語ったのです。
細谷先生は、生まれてこなかったいのちも、亡くなったいのちも、病気や障害を負ういのちも、そこには何の違いもないことを話され、たくさんの人の命を自分のこととして感じられる人になりたいと話されました。また心身の障害についても、それは誰にでもなりうることであって、自分の仲間だと思っていくことの大切さを語られました。そして細谷先生が勤務される病院の理念は、「神さまがいることを実感できるような医療」だといわれました。
「愛の賛歌」の終わりのところで、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と教えられています。違いを違いとして尊び、わたしたちを愛してくださる神の愛、決して滅びることのない神の愛に生かされるものでありたいと願います。
(2006年9月10日 礼拝説教)
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