番町教会説教通信(全文)
2006年8月 「すべての人の後になり」          牧師 横野朝彦

マルコ9・33―37

8月第1の日曜日、本日は日本基督教団の行事暦で平和聖日です。このとき、心から平和を祈り願います。平和を祈り求めることは、8月だからというのではなく、わたしたちが常日頃から覚えなければならないことでありますが、今特にこのことを覚え祈り求めたいと思います。来週火曜日、15日には、千鳥が淵戦没者墓苑を会場に、キリスト者平和祈祷会が持たれます。お覚えいただきたいと願います。

主イエス・キリストは、「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えられました。また第一ペトロには、「平和を願って、これを追い求めよ」と教えられています。この教えに従いたいと願います。けれども、世界は神さまの御心から遠くにあると思えてなりません。あらゆる戦争は自衛のためという大義名分がつくようです。平和のためと言いながら、敵を攻撃し、戦火を広げているのが現実です。平和のためにと、軍備を増強し、平和のためと敵地攻撃という言葉が語られています。

イスラエルによるレバノン爆撃は、どうしてこんなことが許されるのかと、信じられない思いがします。すでにレバノンの市民が何百人と亡くなり、民間人が、そして子どもたちや病院までが犠牲になっています。正確な言い方ではないとは思いますが、あの町に誘拐犯がいるからと、町全体を破壊しているのが現在のレバノン情勢です。テロとの戦いとは言いながら、民間人が多数犠牲になり、しかもレバノンの首都ベイルートから多くの人たちが難民として逃げ出している状態です。子を爆撃によって殺された親、愛する家族を爆撃によって失った者の怨念はこれから何十年何百年と続くことでしょう。それゆえ、テロを無くすはずの行動が、テロを生み出しています。

平和を作り出す。これは平和のために武器を持って戦うことではありません。主イエス・キリストが教えられた平和への道は、エフェソの信徒への手紙で教えられているように、「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し・・十字架によって敵意を滅ぼされました」という福音によるしかないと、わたしは信じています。

日本基督教団は、1967年に「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」を、当時の教団総会議長鈴木正久の名で公にしました。議長名の文書ではありますが、当時の教団常議員会の議決を経て出された文書です。多くはありませんが、8月第1週の平和聖日の礼拝では、つまり今日の礼拝では、礼拝のなかでこの告白を朗読する教会があります。1990年前後に、日本バプテスト連盟、日本ナザレン教団、日本ホーリネス教団などの他教派も同様の趣旨の告白をおこなっています。

また、日本バプテスト連盟は、2003年に「平和宣言」という宣言を公にしました。「平和宣言」は旧約聖書の十戒を項目として取り上げつつ、各項目に数行の解説が加えられ、述べられています。たとえば、第6の戒め、「あなたは殺しはならない」について、「主イエスによって解放され生かされた私たちは、他者を殺しその存在を否定することができない。・・主に従う教会は敵を愛し、迫害する者のために祈る」と述べられています。第8の戒め、「あなたは盗んではならない」について、「搾取と収奪のあるところに平和はない。私たちは盗まない。教会は神が与えた恵みを分かち合う」と述べられています。第10の戒め、「あなたは隣人の家をむさぼってはならない」について、「主イエスによって解放され生かされた私たちは、むさぼることができない。一切を独占しようとする私たちのむさぼりが、隣人を傷つけ、世界を破壊し、戦争を引き起こしている」と述べられています。

今お読みしたところは、しごくもっともなことです。殺すなかれ、盗むなかれ、むさぼるなかれといった掟から、戦争を否定するのはいわば当然のことで、わかりやすいことです。でも、この「平和宣言」は十戒のすべての戒めが平和を求める根拠となることを説明していました。なかでもわたしの心に留まったのは、第3の戒め、「あなたはあなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」について、次のように解説されていたことです。「教会は神の御心を騙ってはならない。教会が神の名を利用して、暴力や報復、正義の戦いを肯定することがあってはならない。」 今読んだ文章で、「神の御心を騙ってはならない」の「騙る」とは、「騙す」という漢字です。つまり、ここで言われていることは、この戦いは聖戦であると、戦争を神の御心であるかのような言い方をすることへの否定です。

よく、神さまのことをいかにも信仰的に語りながら、その実きわめて自己中心的な話をされるかたがおられ、そのようなときに、「主の名をみだりに唱えてはならない」とはこういう姿勢のことを言うのかなと考えさせられてきました。でも、今「平和宣言」を通して教えられることは、聖戦というような意識もまさに神の御心を自分たちのために用いることなのであり、十戒の第3の戒めへの背反だということです。

「平和宣言」について解説をした「平和のいましめ」という本のあとがきに、日本バプテスト連盟の責任者のかたが次のように書いておられました。「暴力によって受けた傷の恨みを、暴力で報復する。そこには、無限に続いていく憎しみの連鎖しかありません。『敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい』と教えてくださった主イエスは、その連鎖を断ち切るために来られました。主イエスの教えに身近に接しているキリスト者と教会こそが、今こそ本当にこの言葉に生きるものとなっていく必要があるのではないか。・・簡単に告白できないということを了解した上で、『平和宣言』は・・採択されました。」

簡単には告白できない、簡単に宣言するなどと言えない、そのような弱さを自覚しつつ、聖書に聴き、歩もうとする姿勢にわたしは敬意を覚えました。

あと二つ紹介したいことがあります。明治学院は1995年6月に「明治学院の戦争責任・戦後責任の告白」を発表しました。そして、これに関連する講義やシンポジウムが学内でおこなわれました。この記録が載せられた「未来への記憶」という本に、1995年当時の学長であった中山弘正先生が次のように述べておられます。

「今ごろこんな告白をしても、ただ上辺だけの言葉に終わってしまうのではないか、という危惧も一方ではあります。そういう危惧に対して私どもは、この大切な教育の場というところを預かっている者として、次の世紀、次の世代、次の時代を担う若い方々を預かっている者として・・今後、暗く闇の時代になったとしても、光り輝き続けることができるように、生命の言葉を保ってこの世の光のごとく、この時代に輝くように、そういう人になるように、祈り、教え、育てていきたいと願っているのです。・・自分の内面のもっとも深い罪、自分の中に悪があるということを自覚し、神と人の前にそれを告白するということ、これはキリスト教信仰の原点です。・・私どもは一人ひとりが内面を自己検証し、私ども人間の魂の闇そのものを取り除いて下さった十字架と復活の主、イエスを仰ぎ見て主の許しと祝福とを受け、どんなに辛く、厳しい時代がきても狭き門を見出し、細い道をしっかりとたどり、再び主の来たりたもう時にいたるまで、雄々しく歩み続けなければならないと信じています。」

あと二つと申しましたが、もう一つは、名古屋の金城学院が2004年3月に、「主を畏れる」という本を出しています。副題は「資料に見る戦時下の金城学院と基督教」というものです。この本は資料集ですから、告白とか宣言ではありませんが、「おおわりに」という、本のまとめの部分で、この本の出版の意図が述べられています。「金城学院のスクールモットー『主を畏れることは知恵の始め』に忠実に生きようとする者としての内的な促しである。」

たくさんの紹介をしました。教団だけでなく、各教派も、そして学校においても、信仰者として、この時代をどう生きるかについて真剣な問いかけのされているのが読み取れます。金城学院は、この時代、この社会にあって真実「主を畏れる」とはどのようなことかを、自らに問うています。明治学院の学長は罪の自覚の大切さと十字架と復活の主による赦しと祝福を述べておられました。

もっともこのような紹介をしましたが、このような告白や宣言をしているのは全体から見れば僅かであり、小さなことにすぎません。ましてやこれらのことで、わたしたちまでが何かをしていることにはならないし、免罪されるわけではありません。またバプテスト連盟のかたが言われるように、簡単に宣言するとか、簡単に告白するなどとは言えないものです。このような問題を考えるときに、わたしはいつも自分の無力さを痛感します。けれども、無力だから何もしない、何も考えないのではなく、今紹介したような言葉や告白、宣言に少しでも学びながら、自らの姿勢を整え、ものごとを見る視点を間違わないようにしたいと願っているのです。

さて、本日はマルコによる福音書9章33節以下を読んでいただきました。これは教団の聖書日課によるものです。聖書日課が、平和聖日のことを考慮して定められたかどうかは分かりませんけれど、この箇所を読み返してみて、わたしは平和聖日にふさわしい教えが語られていると思いました。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。」主イエスがこのように尋ねておられるのに、弟子たちは答えることなく黙っています。それは、彼らの語り合っていたことが、主イエスに聞かれるとよくないということを、彼ら自身がわかっていたということです。彼らが議論をしていたのは、彼らのなかで誰が一番偉いかということでした。

誰が一番偉いか。ある者は、わたしが一番だと胸を張り、別の者もまたわたしが一番だと言い、またある者は、誰かのおべっかを使うかのような発言をしと、どうも醜い会話がされていたようです。

今日の箇所の次の章、10章35節以下では、ヤコブとヨハネの兄弟の願いという話があります。ここで彼らはイエスに願って言います。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」主イエスがこの世に来られたのを、地上での権力を取るためと勘違いをしていたのでしょうか。それとも天の御国での話でしょうか。いずれにせよ、彼らは主イエスの側近に取り立てて欲しいと願ったのです。

このような彼らの願いは、理解できないではありません。このような人もいることはわかります。でもそれ以上にこの話を読んでわたしが辛い気持ちになるのは、これはマタイ20章の並行記事に書かれていることですが、「ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた」ということです。12弟子のほかの十人が腹を立てたのは、ヤコブとヨハネが間違った願いをしたと思ったからではありません。そうではなく、自分たちが出し抜かれたと思ったからです。

このような、他の人たちよりも上になりたい、他の人を自分の支配下におきたい、これこそまさに平和を破壊する心です。また、ある人を支配者と仰ぎ、時には魂をさえ売り渡してしまう、それもまた平和とは遠い生き方です。1933年、ドイツ告白教会は「バルメン宣言」という信仰告白文を出しました。その第4項はマタイ20章25,26節の言葉で書き始められています。

「『あなたがたの知っているとおり、異邦人たちの支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人とならねばならない。』 教会にさまざまな職位があるということは、ある人々が他の人々を支配する根拠にはならない。」 

この宣言は、ナチが人々の支配者となり、神の代わりになろうとしていることへの否を表明したものでした。話を戻し、誰が一番偉いのだろうと話しあっていた弟子たちに対して、主イエスは言われます。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 主イエス・キリストがわたしたちに教えられた道は、人の上に立つとか、一番先になるという生き方ではありません。そうではなく、すべての人の後になる生き方、すべての人に仕える生き方であるとここで言われているのです。そしてこれこそ、盗むことも、むさぼることも、人を殺すことも、あるいは偽証することからも、遠い生き方ではないでしょうか。

主イエスはまた言われます。主はそばにいた一人の子どもを抱き上げて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」 つい最近も申し上げましたが、ここで言われている「子ども」とは、子どもの持つ純粋さとか無垢といったことが言われているのではありません。無垢だから価値があるというような、価値の良し悪しではありません。そうではなく、ここでいう子どもとは、力とか権威とかを持たない人のことを言っているのです。

ところで、今日のこの話が福音書のどのような場面での話なのかに注意をして欲しいと思います。33節から読んでいただきましたが、その直前の30−32節には「再び自分の死と復活を予告する」という段落があります。つまり、主イエス・キリストが自らの受難と復活を予告した直後にこの話があるのです。主の十字架による受難、そして復活、この話の直後に「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えられている。また子どもを受け入れるようにと教えられています。

マルコはこの話を意図的に並べて書いています。なぜなら、8章の31節以下を見ていただくと、「イエス、死と復活を予告する」という話があります。そしてこの話のなかで、主イエスは次のように言われるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」 すなわち、受難の予告は、弟子たちへの呼びかけ、自分の十字架を背負ってわたしに従えとの呼びかけとなります。

そして今日の箇所で、再び受難が予告され、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と勧められます。そればかりではありません。10章32節以下で「イエス、三度自分の死と復活を予告する」とあり、その直後に、先ほど呼んだヤコブとヨハネの願い、自分たちを取り立てて欲しいという願いがあり、それに対して主は「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」と教えられているのです。

覇権主義という言葉があります。力でもって他を呑み込んでいくような政治の力をさすようです。そのような支配する力とは程遠いところにこそ、真の平和の道があることを、主イエスはここで教えておられます。今、大国と呼ばれる国が世界を意のままにしようとしている、そう思えてなりません。レバノンに対して行なわれている爆撃は、イラクに対しておこなわれた戦争と、似たような自国中心主義が働いていると思えます。

しかし主イエスの教えは、わたしたちが仕える者として生きることであり、わたしたちが平和の道を歩むことにほかなりません。主イエスの受難はそもそも何のためであったのか、それは他者に仕えるための死ということでした。明治学院の中山先生の言葉によれば、それによって「人間の魂の闇そのものを取り除いて下さった」のでした。自らを誇るのではなく、わたしたち一人ひとりが内面をしっかりと見つめ、自分自身のうちにある罪を告白し、主の助けと赦しをいただきながら、歩みゆきたいと願います。    

 (2006年8月6日 礼拝説教)