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2006年7月 「あなたは価高く」 牧師 横野朝彦
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イザヤ43・1―7
先月、6月18日におこなったチャペルコンサートは、ジョン・チャヌさんのヴァイオリンと武田香奈子さんのピアノで、とても素晴らしい演奏を聴くことができました。ユーモアを交えながらのお話も楽しく、またキリスト教信仰に入られたきっかけなどを語ってくださり、とてもよいひとときを持つことができました。そしてアンコールに、「きみは愛されるために生まれた」を演奏してくださいました。実は事前に「アンコールを用意してあります」と聞いていました。そしてジョンさんは演奏の前に、「アンコールではありますが、皆さんにぜひ聴いてもらいたい曲です」とおっしゃいました。演奏が全部終わったあとの追加ではなく、ジョンさんは、ぜひ最後に聴いてほしいという願いをこめて、曲目の順番を決められたようです。
この曲は、韓国のイ・ミンソプさんというかたが作詞作曲された歌です。ジョン・チャヌさんの演奏によるCDのほか、日本語、韓国語による歌のCDも発売されています。作詞作曲されたイ・ミンソプさん公認という日本語訳をお読みします。「きみは愛されるためうまれた きみの生涯は愛で満ちている きみは愛されるためうまれた きみの生涯は愛で満ちている 永遠の神の愛は われらの出会いの中で実を結ぶ きみの存在が 私にどれほど大きな喜びでしょう きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている きみは愛されるため生まれた 今もその愛受けている」
わたしは望まれずに産まれてきた子だ、わたしは親に愛されずに育った。このように語る人に、私はこれまで何人も出会いました。それは悲しいことです。人が生きるためには、自分が独りではなく、自分は愛されていると知ることが本当に大切だと思います。ジョンさんは、この曲を演奏するにあたって、今の日本の社会のさまざまな問題について触れられました。つまり、人が自分を愛することができない状況があることを語られ、そして、そんな時代に生きているわたしたちに、ぜひこの曲を聴いて欲しいと言われたのでした。
安藤由紀さんというかたが書かれた「だいじょうぶの絵本」という絵本のシリーズがあります。シリーズの第3巻「わたしが好き」という絵本を、前に子育て会や正午礼拝のときに紹介したことがあります。本には「自己肯定感を育てる絵本」と書かれています。そして本のあとがきには、「その人の全体像、ありのままの存在をまるごと受け入れることで、仕事や勉強の能力のあるなし、性格の短所も長所もふくめて自分らしさを認め、心安らかでいられる状態をいいます」と説明されていました。
同じシリーズの第1巻は、「あなたはちっともわるくない」という絵本です。この絵本は、児童虐待について書かれています。主人公はちびくま、子どもの熊です。ちびくまの足にはあざがあります。やぎのお医者さんが「体を見せてごらん」というと、お腹にもあざのあるのが見つかります。でも、ちびくまはそれがなぜかを言いません。「なんでもないよ。ぼくころんだの」と答えます。本のあとがきに次のように書かれていました。「子どもは、自分に関わり、身の回りの世話をしてくれる大人を頼り、愛しこそすれ、大人を疑うことをせず、虐待されても自分がまちがっているからだと感じてしまいます。幼ければ幼いほど、そうした心理は働きます。」
ここに書かれていたように、子どもは、虐待されていても、自分が悪いからだと感じてしまうのです。そしてその結果、自分で自分を愛することができなくなるのです。このような状態におかれた子が立ち直るためには、あなたは愛されているということを、さまざまな方法で伝えることが必要となります。第3巻のあとがきに、「あなたが大好きだよ」「あなたが生まれてよかった」「私はあなたを誇りに思う」「あなたが悩んでいたら、どんなことでも助けたい」「あなたが心に感じることは、正しいよ」「あなたがいると、とても安心する」、このような言葉を語りかけることが大事だと言われていました
それにしても、どうして虐待などがおこるのでしょうか。その理由は複雑だと思います。ただそのひとつの理由として前々から言われていることは、虐待をする人は、子どものころに虐待を受けてきた体験を持つことが多いということです。安藤さんの絵本「あなたはちっともわるくない」に次のような言葉が書かれていました。ちびくまが尋ねます。「なぜ おとなは いやなことをこどもにするの?」やぎのお医者さんが答えます。「そのひとのこころにも とげがささっているからさ。だれでも こころに とげがささると ひとにいじわるしたくなる。でも とげがぬければ ほっとして もとのじぶんに もどれるんだ。」
このように考えると、今お話をしてきたことは、決して子どもだけの問題ではありません。同じことが、大人たちの間でも起こっています。他の人に対して厳しい人は、しばしばその人自身が、何かに傷ついていることが多いのです。心にとげがささっているために、他の人に対して攻撃的になってしまいます。その意味で、「あなたは愛されている」ということを、虐待される側にも虐待する側にも、被害者にも加害者にも、つまりはすべての人に伝えていかなければならないのではないでしょうか。
さて、最初にお話をした「きみは愛されるため生まれた」の曲は、ジョン・チャヌさんが曲の紹介のときに語ってくださいましたが、聖書の御言葉がもとになって作詞されています。それは、今日読んでいただいた聖書の箇所、旧約聖書イザヤ書43章です。特に4節に言われています。「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」、この言葉がもとになって、「きみは愛されるため生まれた」の歌ができたのです。
聖書は、神さまがわたしたちを愛してくださっていることを証しする書物です。ヨハネによる福音書3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉が、聖書の中心であると言われているように、神はわたしたちの滅びるのをお望みにならず、愛を与え、独り子を与えてくださったというのが、キリスト教の中心的信仰です。
新約聖書は愛の神で、旧約聖書はそうではないと言われることがあります。旧約聖書は神の怒りなどがしばしば描かれ、怒りの神と言う人もいます。しかし、旧約聖書もまた、神の愛が底に流れている基調だと言ってよいとわたしは思います。今日読んでいただいたイザヤ書43章もまた、とても慰めと励まし、希望に満ちた御言葉がつづられ、神がわたしたちを愛してくださっていることが福音として語られています。
まず1節で、「恐れるな、わたしはあなたを贖う」という力強い呼びかけの言葉があります。「恐れるな」という呼びかけは、旧約聖書、新約聖書をとおして何度も与えられている言葉でありますが、今日の箇所では1節だけでなく、5節にも、「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と書かれており、今日の箇所の大きなメッセージであることがわかります。そしてこの「わたしはあなたと共にいる」という言葉は、2節にも出てきます。「恐れるな」という言葉が1節と5節に二度出てくるのと同じように、2節で「わたしはあなたと共にいる」と言われ、さらに5節で再度「わたしはあなたと共にいる」と言われているのです。このことは、今日の箇所の重要なメッセージであるとともに、聖書全体がわたしたちに伝える大きなメッセージでもあります。
なんといっても、福音書の最初、主イエスがお生まれになったという知らせで、最初に語られたのは、インマヌエル、神はわたしたちと共におられることでした。そして御使いはヨセフに対し、マリアに対し、さらに羊飼いたちに対して、「恐れるな」と呼びかけています。恐れるな、神は共におられる。この知らせは旧約、新約ともに何度も出てきますが、今は創世記26章と出エジプト記3章、そしてエレミヤ書1章の3箇所だけを引用して読んでおきます。まず創世記、これはアブラハムの子イサクに言われた神の言葉です。「恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」出エジプト記では、モーセに対して言われています。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。」エレミヤ書では若者であるエレミヤが預言者として召しだされたときに与えられた神の言葉です。「恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す。このように、恐れるな、共にいるとの励ましが力強く与えられています。それは申しましたように、今日の箇所だけではなく、聖書全体がわたしたちに与えてくれている大いなる励ましの言葉です。
では、今日のイザヤ書において、この知らせ、恐れるな、神は共におられるは、どのような状況で、どのような人々に向かって語られたのでしょうか。イザヤ書は預言書のなかでも大部なものですが、1章から39章と40章以下とは通常区別されて読まれます。それは書かれた時代が異なるからです。さらに56章以降も異なり、いっぱんに、39章までをイザヤ、40章から55章までを第二イザヤ、56章以下を第三イザヤと呼んでいます。39章までのイザヤ書にも、いろいろな時代に書かれたものが混在してしまっていますが、大きくは、紀元前6世紀のバビロン捕囚以前のこと、第二イザヤはバビロン捕囚期にバビロンからの解放を預言したものと分けることができます。
つまり、43章は、国が敗れてバビロンに連れて行かれた人々に対して語られている預言の文書です。自分の国を失い、異国に連れて行かれた人たちの苦しみがどんなに大きいものであったかは、言うまでもないことです。詩編137では、「バビロンの流れのほとりに座り、シオンを思って、わたしたちは泣いた」という有名な歌があります。エゼキエル書37章では枯れた骨が谷一面を覆っている恐ろしい幻が述べられています。
どうしてこんな異国の地に連れてこられたのか、彼らは国に帰る希望もなくして、まさに枯れた骨の状態でした。故郷には神殿があった、そこに神さまがおられた、なのに今ここでは神さまも遠く離れてしまったというのが、人々の心理だったと思われます。ところが、神さまも遠く離れてしまったと思えるその状況のなかで、いやそうではない、神は共におられる、あなたがたは恐れることはないのだと言ったのが、イザヤ書43章なのです。
とはいえ、捕囚民とされた人々に落度がなかったのではありません。そもそもバビロン捕囚という出来事がなぜおこったのかを考えるに、そこには人々が神さまを忘れ、人間の力や国の力に頼ったからだというのが、預言者たちの主張でした。このことはイザヤ書にも、そしてエレミヤ書などにも繰り返して述べられているところです。今日の箇所でも、そのことは見過ごされているわけではありません。今日読んでいただいたのは、43章の1節から7節までですが、新共同訳聖書を見ていただくと、段落が前の章の18節から43章7節まで続いているのがわかります。42章18節から43章7節までがひとつの段落なのです。
ではこの段落の前半で何が語られているのか。それはページをめくって見ていただければわかるように、厳しい言葉です。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」という呼びかけでこの段落は始まっています。言うまでもないことですが、ここで耳が聞こえないとか、目が見えないとうのは、耳の不自由な人や目の不自由な人のことを言っているのではありません。心の耳が閉ざされ、心の目が閉ざされ、神さまのほうに心を向けない人、神さまの御言葉に耳を傾けない人のことです。
そして24節以下で言われています。「奪う者にヤコブを渡し 略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず その教えに聞き従おうとしなかった。主は燃える怒りを注ぎ出し 激しい戦いを挑まれた。その炎に囲まれても、悟る者はなく 火が自分に燃え移っても、気づく者はなかった。」彼らは主の道を歩もうとしなかったのです。その教えに聞き従うことをしなかったのです。その結果として、神は略奪する者たちの手に彼らを引き渡された、それが預言者の理解でした。今日の箇所は、このような厳しい裁きの言葉と共に始められています。
厳しい言葉から始められ、彼らが自らの罪に気づくことが求められています。そのことが述べられたうえで、今日読んでいただいた43章に続くのです。43章の冒頭は、なぜこのような翻訳になったのかよくわかりませんが、原文は、「しかし今」という言葉が書かれています。
直前に述べられているような人々の愚鈍と罪にもかかわらず、「しかし今」という言葉で大きな変化が告げられます。しかし今、あなたがたは恐れることはない、神は共におられるのだと、このように福音が告げられるのです。そこからわたしが思い出すのは、パウロがローマの信徒に宛てた手紙のなかで用いている言葉づかいです。ローマ書1章から3章にかけて、異邦人の罪が語られ、ユダヤ人の罪が語られ、すべての者が罪のなかにあることが語られます。3章9節以下では、「正しい者は一人もいない」と、厳しい言葉が投げかけられます。しかし、3章21節で、「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」と、神の義、神の救いが明らかにされるのです。話を戻し、今日の箇所でも、人々が神さまの心から離れている状態が厳しく指摘されたうえで、「しかし今」と述べられ、恐れることはない、神は共におられるという福音が語られています。
「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず 炎はあなたに燃えつかない。」まさに火のなか、水のなかということでしょうか、どのようなことがあっても、あなたがたは守られているのだと語られます。そして、「わたしはエジプトをあなたの身代金とし クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする」と述べられます。ここに身代金とか、代償とか、身代わりという言葉が出てきます。クシュはエチオピア、セバはその南です。これらの国がイスラエルの身代わりになったというのは、歴史的事実ではありません。なにか象徴的な表現なのでしょうか。いずれにせよ、彼らはそもそも御心を離れて、罪ある存在であったが、神さまがその身代わりをたてて、赦しを与えてくださったということです。
そこでもう一度1節に戻ります。ここで、「恐れるな」という言葉に続いて、「わたしはあなたを贖う」と言われていることが極めて重要です。神さまは、彼らの罪を知りながら、それを赦し、共にいてくださる。どんなに罪を犯そうとも、あなたがたはわたしの目に価高く、貴いのだ、だからあなたがたを贖うのだ、このように神さまは語られるのです。
わたしはこのことから、主イエスが語られた言葉、「あなたの罪は赦された」を思い起こします。主イエスは罪深いとされていた女性に、「あなたの罪は赦された」と宣言されます。そして「安心して行きなさい」と呼びかけを与えられます。また人々から罪を指弾されていた女性に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい」と声をかけられます。主イエス・キリストの目には、どの一人も貴く、価高いがゆえに、主は彼らの滅びることをお望みにはならず、罪の赦しを与え、新しい命へと導かれたのでした。
わたしたちは、しばしば心にとげがささった状態です。そしてまた、他の人にとげを与えてしまいす。心のとげを抜いていただき、またわたしたちが他の人に与えているとげも抜いていただきたいものです。神さまの贖いと赦しをいただき、きみは愛されているという呼びかけを聞き取ってまいりたいものです。
(2006年7月23日 礼拝説教)
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