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2006年5月 「光のなかを生きる」 牧師 横野朝彦
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第一ヨハネ2・7―17
今日の説教の題を「光の中を生きる」といたしました。読んでいただいた8節、9節、10節にそれぞれ光という言葉が出てきます。10節には、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」と書かれています。またヨハネ福音書には、「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」と勧められており、第一テサロニケ5章では、「あなたがたはすべて光の子」であると教えられています。このように聖書では、わたしたちが光の中に生きるべきことが繰り返し述べられています。わたしもまた、クリスマスキャンドルサーヴィスのときなどに、光についての話を何度もしてきました。
ヨハネ福音書の1章に、「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」と書かれているとおり、主イエス・キリストの誕生はわたしたちにとってまことの光が照り輝く出来事だったからです。そして今日このあとでご一緒に歌う讃美歌509番は、「光の子になるため、ついて行きます。この世を照らすため、来られた主イエスに」と歌われています。この讃美歌は聖書のなかに記されている光のイメージを実にうまく取り入れた美しい曲だと思います。
そんなことを思いながら、わたしがふと思い出したのは、金子みすゞさんの「明るいほうへ」という詩です。「明るいほうへ 明るいほうへ。一つの葉でも 陽(ひ)の洩るとこへ。やぶかげの草は。 明るいほうへ 明るいほうへ。はねはこげよと 灯(ひ)のあるとこへ。夜とぶ虫は。 明るいほうへ 明るいほうへ。一分もひろく 日のさすとこへ。都会(まち)に住む子らは。」 最初に「陽の洩るとこへ」とあるのは太陽の陽、次の「灯のあるとこへ」は灯火の灯、最後の「日のさすとこへ」は日光の日。同じ音で韻をふませながら、とても豊かな表情を見せてくれています。
やぶかげの草が、太陽のあるほうへ伸びていく、夜飛ぶ虫はともし火のほうへ向かっていく。そして最後に記された「まちに住む子らは」という言葉、「まち」は「都会」と書かれて「まち」とルビが打たれています。この言葉には痛烈な響きがあります。痛烈といっても、金子みすゞさんは何かを風刺しようというのではなく、むしろ都会の子らが日のさすほうに向いて欲しいという祈りのようなものがあると思えます。昔はよく、都会の子には「もやしっ子」が多いと言われました。もやしという野菜はわざと光を遮断することによって白くてひょろひょろとした芽を伸ばします。もっとも金子さんがこれを歌った大正時代と違い、今では都会の子だけではなく、田舎に住んでいる子もまた同じような気がします。いや子どもだけではなく、大人たちもまたもやしになっているのかも知れません。大人もまた、明るいほうへ、明るいほうへと、自分の行く手を向けていかなければならないのだと思います。
光に対立する概念として、闇とか、暗さという言葉が考えられます。闇や暗さは人を不安にさせます。恐ろしい世界です。聖書にも、「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。今、苦悩の中にある人々には逃れるすべがない」とイザヤ書8章にあるとおり、それは希望のない姿です。そしてまた、闇や暗さは、人間の罪を表す言葉としても用いられます。パウロはローマの信徒への手紙13章で、「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と言っています。またエフェソの信徒への手紙5章では、「実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです」と書かれています。そして、今日読んでいただいた聖書の箇所にも、8節と11節に闇という言葉が出てきており、特に11節では「兄弟を憎む者は闇の中におり」と書かれていますから、ここで闇が人間の罪を表しているのは明らかです。
そして、このような闇のなかにいるのは、ある特別の人たちだけではありません。ある人が悪いことをした。あの人は暗い心の中にいる。わたしたちは正しい。わたしたちは明るい心の中にいる。そんな単純なものではありません。人間は誰でも光の部分と闇の部分を持ち合わせているのだと思います。
あさのあつこさんという作家が書いた「福音の少年」という小説を読みました。どうもわたしには難しい本で、そのわりに結末があっけない思いがしたのですが、ただ小説をとおして、人間誰もが心に闇の部分と純粋な光の部分を持っているということが描かれているのはわかりました。それと、著者のあさのあつこさんがどういうかたなのか知りませんが、「福音の少年」というタイトルからしても、なにかキリスト教的なものがそこに込められていると思いました。もっともご本人がそのことを意識されたのかどうかはわかりません。
物語の背景に繰り返し夜の闇が用いられています。小説の冒頭で、一人のジャーナリストが田舎町にやってきて、夜の闇のなかを歩いています。そして彼は、「闇の中でおれはどんな顔になっているんだ」と心のなかでつぶやきます。わたしはこの、「闇の中でおれはどんな顔になっているんだ」という言葉がとても印象に残りました。闇のなかで周りが見えないだけではなく、自分自身がどのような表情をしているのかわからないのです。一人の女子高校生が火事のために亡くなります。物語の終盤で、彼女の闇の部分が明らかにされていきます。そして小説の主人公は彼女と同級生の二人の少年でありますが、彼らもまた時にわけのわからない喧嘩をしたり、時には殺意を行動で示すことがあります。誰もが闇の部分を持っており、多くの大人は日頃それを覆い隠しているのですが、少年たちは覆い隠すこともせずにそのまま現していました。
人は誰でも闇の部分と光の部分を持っています。闇だけという人はおらず、光だけという人もいません。闇がその人の全体像ではないし、光がその人の全体像でもありません。わたしたちはともすれば、ある人の一面を見て、あの人はこうだああだと判断をします。判断というよりは、裁くのです。「福音の少年」の主人公は、人の首を後ろから紐で絞めるという恐ろしいことをしてしまう人間です。そのようなことをするのは、わたしたちの目から見れば「問題児」であり、「非行少年」ということなのでしょう。でもそれが彼の全体像ではありません。小説の最後のページで、著者は次のような言葉を書いています。「知らねばならないことがある。闇に巻き込まれないために、知らなければならないことが、まだたくさんあるのだ。」わたしたちは闇と光の両面を持っています。明け方の前に闇はいっそう暗さを増すと言います。闇とひとことで言っても、さまざまな闇があるのでしょう。そこでわたしたちが気をつけていなければならないことは、闇に巻き込まれないために、知らなければならないことがあるということです。それは小説の主人公の少年にだけ当てはまることではなく、わたしたち、大人も含めて、すべての人間に当てはまることです。
聖書は人間の心の中にある闇を知っています。ヨハネによる福音書13章で主イエスが十字架を前にして弟子たちの足を洗われる場面があります。ヨハネ福音書には最後の晩餐の場面がないのですけれど、洗足のあと、主イエスはイスカリオテのユダがご自分を裏切るであろうことを予告されます。そしてこう書かれています。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」ここで「夜であった」と書かれているのは、たまたま時間が夜だったということではありません。ユダの裏切りのなかに見られる心の闇を表した言葉です。ユダの心のなかがすべて闇であったのではありません。彼もまた、主イエスの招きを受けて従っていたひとりでした。主イエスの言葉に感動をして、自分もこのかたが教えられるように生きたいと思ったことでしょう。主イエスが貧しい人や病める人を立ち上がらせるのを目撃し、自分もこのようにしたいと思ったことでしょう。けれども彼はその生涯の大事なところで、闇に巻き込まれたのでした。彼はおそらくそのとき、自分がどんな顔をしているのかわからなかったことでしょう。
わたしは今、ユダの話をしました。「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」と書かれているヨハネ13章のことを話しました。そしてその箇所を聖書で開いて確認をしていて、わたしはちょっとした驚きというか、小さな発見をしました。ヨハネ13章のこの話は新共同訳聖書では21節から30節までが一つの段落となって「裏切りの予告」という見出しがついているのですけれど、その次の31節から35節までの段落は「新しい掟」という見出しになっているのです。さらにその次の36節以下は「ペトロの離反を予告する」という見出しです。弟子のひとりイスカリオテのユダの裏切り、一番弟子とされていたシモン・ペトロがイエスのことを知らないという「ペトロの離反」、このふたつの話に挟まれて「新しい掟」という教えが書かれています。
そしてほかならず、今日皆さんに読んでいただいた第一ヨハネ2章7節から17節までにもまた、「新しい掟」という見出しがついています。ヨハネ福音書とヨハネの手紙にまったく同じ見出しで始まる話があるのです。そしてそればかりではありません。今日読んでいただいた箇所に続く18節以下には、「反キリスト」という見出しがついています。つまり、今日読んでいただいた箇所も、ヨハネ13章も、共に「新しい掟」ということが述べられており、そしてその背景には「反キリスト」や「ユダの裏切り」あるいは「ペトロの離反」があるのです。反キリストについて2章22節に、「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです」と書かれています。
つまり、新しい掟が与えられた背景には、ユダの裏切りがあり、ペトロの離反があり、そしてまたイエスが救い主であることを否定する者、御父と御子を認めない人たちがいたのです。人間誰でも光の部分と闇の部分を持っているのだけれど、どうしても闇の部分に巻き込まれ、闇の部分に負けてしまう自分がいます。そんなわたしたちに、ヨハネ福音書の著者、そしてヨハネの手紙の著者は、新しい掟を指し示そうとするのです。なお、福音書と手紙とは同じ著者ではありませんけれど、同じくヨハネ教団とも呼ばれるおそらくシリアあたりにあった教会に属しています。
それでは新しい掟とはなんなのでしょうか。ヨハネ13章ではっきりと言われています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」でも、このように言われるとちょっと不思議な気持ちがしないではありません。互いに愛することとは新しい掟なのだろうかという疑問が湧いてくるのです。確かに旧約聖書の律法には細かいさまざまな規定があります。そのなかには弱い立場の人をますます弱くさせるような決まりや、重い皮膚病にかかった人を町の外に追い出すような決まりもありました。でも、それらの個々の掟はともかくとして全体としては、人を生かすのが本来の目的であったはずです。そもそも、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というあの有名な掟も、旧約聖書レビ記19章に書かれているものであって、なにも主イエスの時代になって新しく言われたことではありません。
そのようなことがあるからでしょう。ヨハネの手紙の著者、いっぱんに長老ヨハネと呼ばれていますが、彼は面白い言い方をしています。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。」つまり、互いに愛しなさいということ自体は特別に新しい掟ではないということを長老ヨハネは知っているのです。でも彼は続けて、それはもともとあなたがたの聞いてきた古い掟なのだけれど、しかしわたしは今これを新しい掟として伝えようというのです。
どうしてでしょうか。どうして古い掟を、新しい掟として書いていると言えるのでしょうか。
その答は、今日の箇所にも、ヨハネ福音書13章にも書かれています。福音書の言い方のほうがはっきりと分かり易いようです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ここで大事なのは、「互いに愛し合いなさい」という命令の根拠なのです。つまり、「わたしがあなたがたを愛したように」というこの命令の前提です。キリストがわたしたちを愛してくださったように。これが互いに愛すると言う古くからあった掟を新しくする根拠なのです。「わたしがあなたがたを愛したように」、このことは掟というよりは、福音そのものであると思います。
そしてこれと同じことが今日の箇所では、8節の「すでにまことの光が輝いている」という言葉で表現されています。すでにキリストが来られ、まことの光を与えてくださった、わたしたちを照らしてくださった、それゆえに、わたしたちは光のほうを向くことができるのです。
12節以下にも、念入りな言い方がされています。「子たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。子供たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが御父を知っているからである。父たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである。若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである。」
ここで念入りにというか、あなたがたの罪は既に赦されている、あなたがたは御父を知っている、あなたがたは初めから存在しておられるかた、つまり初めに言があったと言われるかたを知っている、あなたがたは神の言葉があなたがたのうちにあることを知っている、と繰り返されています。つまり、ヨハネの福音書も、ヨハネの手紙も、ユダの裏切りや、ペトロの離反や、反キリストの動きを知りながら、それでもなお、キリストの愛と赦しがあなたがたに与えられているのだから、あなたがたも互いに赦しあい、互いに愛し合いなさいと勧めるのです。
ユダの裏切りや、ペトロの離反や、反キリストの動き、そのなかでなお与えられている愛と赦し、それが新しい掟の新しさの所以なのです。最初から言っているように、わたしたちは誰でも闇の部分を持っています。ヨハネの手紙1章8節には、「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いて」いることだと書かれています。わたしたちは皆、罪を持ち、闇を持っています。しかしその闇を照らしてくださるかたがおられる。その闇を、赦して、愛してくださるかたがおられる。それゆえわたしたちは光の中を歩むことができるのです。
小説「福音の少年」の最後の場面で、主人公のひとりである明帆という少年が、もうひとりの少年に名を呼ばれ、自分の名をいい名だと感じます。それは物語の最後に出てくる自己肯定の言葉のようです。そして最後は次のように終っています。「月が出ている。雲の合間から三日月が覗く。光が地上に届く。・・明帆は、月を掴まえるために、空に向かって手を伸ばした。」
明るいほうへ、明るいほうへ。やぶ陰の草は伸び、夜の虫は飛びます。都会の子らも光を必要としています。そんなわたしたちにイエス・キリストは、まことの光としてご自分を与えてくださったのですから、わたしたちもまたキリストの愛と赦しに向かって手を伸ばし、明るいほうへ、明るいほうへ、光の中を歩いていきたいものです。
(2006年5月7日 礼拝説教)
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