番町教会説教通信(全文)
2006年4月 「新しく生きる」               牧師 横野朝彦

ヨハネ20・11―18

「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」これは、荻野ゆう子さんというかたの本、「心の新芽が出たよ」に書かれていた言葉です。この本は、文庫本よりも少し大きいサイズの本で、見開きの各ページにこのような短い言葉が書かれて、朝倉田美子さんというかたの、ほのぼのした優しさのある絵が添えられています。読んでいると、そうだなあと思わされます。

荻野さんはカウンセラーです。不登校やひきこもりの子どもたち、若者たち、またその親たちの相談相手になってこられました。「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」不登校やひきこもりの子どもたちに対して、多くの人々が叱咤激励します。それはサボっているだけだ、それはだらしないだけだ、もっと頑張って、学校に行かなくてはならない、負けては駄目だ、強くならなくてはならないと。でも、そうではないのです。荻野さんの本にあるように、「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがある」のです。

ほかのページからいくつかを紹介します。「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」 「自分が涙を流す場所を持っていれば、誰かの涙の受け皿になれるよね。」 「人それぞれ、けっこう無理してそこにいることもある。でも、そんな自分に気づいてくれる人がいれば、そこが私の居場所。」 「苦しみを抱えている自分でも、ちゃんと受け止めてくれる人がいる。一人ぼっちじゃないんだって思ったら、不意に涙があふれた。」 「一緒に苦しみを感じようとしている姿が嬉しい。私をわかろうとしてくれているんだなって思えるから。」 

いかがでしょうか。そうだなあという気持ちと同時に、この本を読んでいるわたし自身が、しばらく立ち止まって自分を考え、また、なんとなく心が癒される気持ちにさせられます。わたしはこの本を読んで、最初、これらの言葉は著者である荻野ゆう子さんが考えたものだと思いました。読む人たちを慰め、励ますために、荻野さんがわたしたちに与えてくれる言葉だと思いました。ところがそうではありませんでした。本の後書き、「おわりに」を読んで、これらの言葉がどのように生み出されたのかを知りました。「今回、この詩画集をつづるために、これまで出会ってきた子どもたち、若者たちの言葉を一つひとつふりかえり、集めました。その作業の中で、私がカウンセラーとして十数年歩んでこられたのも、彼らとの出会いがあったからこそだとあらためて気づきました。」

紹介した言葉の数々は、不登校やひきこもりの只中にある子どもたち、若者たちから発せられた言葉だったのです。悩みやつまずきのなかにある子どもたちを励まそうとして語られた言葉なのではなく、悩みやつまずきのなかにある子どもたち自身が口にした言葉が集められていたのです。

苦しみや悩みを知らない人がする同情や激励の言葉なのではなく、本当に人を慰めたり、励ましたりするのは、むしろその只中にある人が発する言葉であると思わされます。苦しみや悩みの中にある人がふとつぶやいたような言葉こそが、本当に慰めとなり、励ましとなることを思わされました。カウンセラーの荻野さんがこれらの言葉を子どもたちから引き出したのは、無理に引き出したのではなく、本当に心寄りそって、聞き取った言葉なのでしょう。苦しんでいる子に、問い詰めて引き出した言葉ではなく、悩み苦しんでいる人が、カウンセリングを受ける長い時間の話し合いのなかで、心開いて、ポツリともらした言葉なのだと思います。そしてそのような言葉が、ある意味で普遍的な言葉、多くの人になるほどと思わせ、自らを顧みさせる言葉となっているのに、驚かされます。

今日は、荻野さんの本に書かれていた言葉、「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ」という言葉から話を始めました。この言葉もまた、何かしらの挫折などによって、立ち止まるしかない心の体験をした子ども自身が語ったものを、荻野さんが書き留めたのでしょう。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所に、マグダラのマリアが出てきます。そしてわたしがこの場面を頭に思い描くときにまず思うのは、11節の「マリアは墓の外に立って泣いていた」という言葉です。マリアもまた心の悲しみのゆえに立ち止まらざるをえなかったのです。ヨハネによる福音書によれば、マグダラのマリアは一人で墓に行ったようです。このあたり他の福音書と若干証言が異なりますが、ヨハネ福音書はマリアの心の動きに注目して、マリアに焦点を当てて描いているようです。彼女は週の初めの日、つまり日曜日の朝早く暗いうちに墓に行きます。マルコによる福音書によれば、当時の風習なのでしょうか、主イエスの体に油を塗るのが目的であったとのことです。ヨハネはそのことを書いていません。何をしにいくというよりも、ただただ主イエスのそばにいたかった、その一心だったようです。

ところが墓に行ってみると墓から石が取りのけてあるのに気づきます。横穴に大きな石を転がして蓋をしておくという形式の墓であったようで、扉になっていた石が動いていたのです。彼女は驚いて弟子たちのところへ飛んで帰ります。そして再びシモン・ペトロやもう一人の弟子たちと共に墓にやってきます。

ここで興味深いのは、シモン・ペトロともう一人の弟子は、墓が空であることがわかるとさっさと家に帰ってしまったということです。いったいどういうことでしょうか。大好きだった先生の墓が空になっているのですから、もう少し慌てたほうがよさそうなのに思います。10節にあるように、「それから、この弟子たちは家に帰って行った」と、たったそれだけです。このあたりの心理はよくわかりません。どうして主イエスの体を捜そうとしなかったのだろう、ほかの弟子たちを呼びにやるとか、何かすることがあったのではないかと思えます。

わたしはこのたび、改めて今日の箇所を繰り返し読んでいて、ふと思わされたことがあります。それは、ペトロたちが何もせずに帰っていったというのは、むしろマグダラのマリアが立ちすくんで泣いていたという11節の言葉を際立たせるためのものではないかということでした。新共同訳では10節と11節の間の行が空いており、しかも見出しが付け加えられています。でも、ギリシャ語の原文ではこのような見出しはありませんし、また行と行の空間さえもありません。「この弟子たちは家に帰って行った」と、「マリアは墓の外に立って泣いていた」は、文章としてつながっているのです。つまり、墓に最初に出かけていったマリアが、主イエスの墓が空であることを発見して、弟子たちに知らせ、そして今墓の前に立ち尽くして泣いている。このようなマリアの姿が、クローズアップされて描かれていることがわかるのです。

そして、わたしがこのたび、さらに気づいたことは、主イエスの十字架の場面でのことです。19章25節に、「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」とあります。ここには4人の女性たちの名前が書かれています。もうひとり「愛する弟子」がいて、この人は墓にペトロと一緒に走っていった人のようで、これが誰なのかいろいろ論議されていますが、よくわかりません。この人のことは今日は置くことにして、わたしが興味を覚えるのは、ここでもまた、マグダラのマリアは立ち尽くしているということです。

このときすでに、ペトロたちはこの場所から逃げ出しています。ペトロたちは自分たちの身を守るために姿を消しているのです。それは彼らにとっていわば生きる知恵だったことでしょう。でも、マグダラのマリアはそういう知恵も持たずに、ただ立ち尽くし泣いているのです。推測で喋りますが、ペトロたちにしてみれば、いつまでめそめそしているのだ、墓のあたりにいつまでもいたら、自分たちがあのイエスの弟子だということがばれてしまうではないか、そうしたら、自分たちも捕まるかも知れない、自分たちまで十字架につけられるかも知れない、ここはほとぼりがさめるまで、静かにしておくほうが得策だと、彼らはそのように生きる知恵をもってこのときを乗り切ろうとしたのではないでしょうか。

しかし、マリアにはそのような計算というか考えはありません。ただ、悲しみを悲しみとして泣き、立ち尽くしているのです。「立ち止まっているのは、そこに立ち止まらないといけないわけがあるんだよ。」荻野さんの本にあったこの言葉のように、マリアはただただ素直に今の悲しみをあらわしていったのです。「涙をいっぱいためると、気持ちが動かなくなっちゃうから、今日は泣かせてほしい。」福音書記者ヨハネはそんなマリアの姿を描いています。そして、そのようなマリアにこそ、神さまは働きかけを与えてくださったのです。

 まず天使がマリアに声をかけます。「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」天使と話をしながら後ろを振り返るとそこに主イエスがおられたのです。ただし彼女はまだそのかたが主イエスであるとは気づいていません。

そこで主イエスは言われます。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」このように尋ねられても、マリアはまだ気がつきません。マリアはこの人を園丁だと思っていたと15節に書かれています。園丁というと、なんだか綺麗な花畑でもあって、そこの庭の園丁という印象を持ちます。でも、ここではそのような意味ではありません。本田哲郎さんは、先月岩波書店から出された「釜ケ崎と福音」という本のなかで、この人が墓守であったこと、死体を不浄と考える当時の慣習から考えて、当時は穢れた職業と考えられていたと述べ、主イエスはこのように貧しく小さな者の姿でご自分を現されたのだと述べておられます。

この解釈はいかにも本田神父らしい読み方でありますが、わたしたちが見過ごしていた視点であると思いました。

マリアは尋ねます。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」墓守が主イエスをどこかにやってしまった、彼女はそのように考えたようです。「あの方を引き取ります。」これもまた、アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を十字架から取り降ろしたいと総督ピラトに申し出たのと同様に、勇気ある発言でした。いや勇気というよりは、主イエスを思う想いのどれほど深かったかを表している言葉です。

そしてそのようなマリアに主イエスは彼女の名前を呼びかけられるのです。「マリア。」彼女はここで振り向いて、「ラボニ」と言います。「ラボニ」とは「先生」という意味であると説明されていますが、より正確に言うと、「わたしの先生」という意味です。ここに劇的な出会いがおこります。墓守だと思っていたこの人が主イエスであると気づき、わたしの先生と呼びかけることができたのです。

そしてここでわたしが注目するのは、彼女の体の動きです。これをよく考えると、とても不自然なのです。13―14節、「天使たちが、『婦人よ、なぜ泣いているのか』と言うと、マリアは言った。『わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。』こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。」このように天使たちと話をしたあとで一度振り返っています。ところが主イエスだとはまだわからないにせよ、この人と話をしているときに、もう一度振り返るのです。「どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」と言ったあとで、彼女は違う方向を見ていたのでしょうか、16節で再び振り返っているのです。そしてこの人を復活の主イエスであると認めています。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、『ラボニ』と言った。」なんだか体を何度も回している感じです。  

どうしてこんなふうに何度も振り返ったというのか。ここで考えさせられることは、振り返るという言葉の持っている意味です。ここで使われている単語は、もとの言葉では、体の向きを変えるというだけではなく、もっと興味深い意味で用いられています。例えば、マタイ18章で「はっきり言っておく、心を入れ替えて子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とありますが、この「心を入れ替える」というのと、「振り返る」は同じ単語です。さらに、同じ単語が口語訳聖書で、「悔い改める」と訳されているところがあります。つまり、ここで描かれているのは、たんに体の向きだけではなく、泣いていたその心の向きを変えることができたということだとわたしは思います。

わたしはこの話から、二つの物語を思い出します。一つはアブラハムがイサクをささげようとしたときに、ふと周りを見ると、一頭の雄羊が後ろの木の茂みに角をとられていたのを見つけたのでした。もう一つの話はハガルが息子イシュマエルとともに荒野で飢え渇き、命があぶなくなったときのことです。悲しみと苦しみの極みにあるとき、神様は彼女の目を開かれ、彼女はそこに泉を発見するのです。雄羊も泉も、初めからそこにあったのです。でも彼らは最初そのことに気がつきませんでした。そして、神様が彼らの心を開き、目を開き、そこに救いを見出すことができたのです。救いは確実にそこにある。でもわたしたちはなかなかそのことに気がつかないのです。

早稲田教会の上林順一郎牧師が、つい先週新しい本を出されました。そのタイトルが、「ふり返れば、そこにイエス」というものです。まだ全部読んでいないので、このタイトルの由来について本文のなかでどのように語っておられるのかわからないのですけれど、本の後書きに、牧師として歩んできた自分の人生に「ふり返れば、そこにイエス」がいつもいてくださったと述べておられました。

マリアは、十字架のそばに、そして墓のそばに泣きながら立ち尽くしていました。そしてそんな彼女に、神様は天使を遣わし、後ろを振り返る機会を与え、さらに復活の主ご自身が呼びかけてくださり、振り返る機会を、立ち返る機会を与えてくださったのです。最初に振り返ったとき、どうしてその方がイエスだと分からなかったのか、次に振り返ったときどうして分かったのか、そういった説明をすることはできません。ただ分かることは、泣きながら立ち尽くす彼女に、神様は真実の救いの体験を与えてくださったということです。泣きながら立ち尽くしている姿、それは直ぐに帰ってしまった弟子たちからしてみれば、何をめそめそととしているのかと思われるような姿かも知れません。けれどもそれは、神様の与えてくださる救い、復活の主との出会いにもっても近いところに立っている姿なのです。   

最初に紹介した荻野ゆう子さんの本に、「一緒に苦しみを感じようとしている姿が嬉しい。私をわかろうとしてくれているんだなって思えるから」という言葉がありました。立ち尽くし泣いていたマリアもまた、このように感じることが出来たのだと思います。

あとふたつ、荻野さんの本に書かれていたすてきな言葉を紹介します。これもまた、不登校やひきこもりで苦しんでいた子どもが発した言葉です。「生きていくためには、前に進むためには、涙をいっぱい流さないと、先が見えてこないのかな。」 「悲しみをはきだすと、心の新芽がでるんだよ。」マリアは、立ち尽くし涙をながしていましたが、このようなマリアに主イエスは出会ってくださり、心の新芽を与えてくださいました。18節に、「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた」と書かれています。悲しみのそばにいてくださる主イエスに出会った彼女は、今や新しい命に生き始めたのです。

(2006年 4月16日 礼拝説教)