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2006年3月 「イエスを誰と言うか」 牧師 横野朝彦
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マルコ8・27―33
数年前、「人間イエスをめぐって」と題する本が出版されました。主イエスはまことの神であり、まことの人であるというのが、キリスト教の信仰告白でありますから、「人間イエス」という言い方はキリスト教信仰からいえば、いくぶんセンセーショナルな表現であろうと思います。八郎潟で農業をしながら開拓伝道をし、教会を建てられた星野正興牧師が「農民・職人イエス」という文章を書き、前に番町教会の修養会講師をしてくださった医師の川越厚先生が「治癒者イエス」という文章を書き、そうかと思えば、元僧侶であり現在牧師をしている加藤智(さとる)先生が「覚者イエス」という文章を書いておられます。なお覚者とは悟りを開いた人というような意味で、もとは仏陀をさす言葉です。このように、それぞれのかたにとってのイエスを全部で7人が述べておられます。
「農民・職人イエス」について言えば、種蒔きの譬にしても、毒麦の話にしても、さらには大勢の雇い人がいる農場の放蕩息子の譬や、日雇い労働をしているぶどう園の労働者の話など、主イエスの語られた言葉のなかに、農業に関するものがとても多いことに気づかされます。主イエスの話を聞いていた多くの人々は、きっと、「あぁ、イエスさまはわたしたちのことを話しておられる」と思ったことでしょう。確かに主イエスは、人々の生活のなかに身を置いて語られたのだと思います。
主イエスはまた多くの奇跡をなさり、病人を癒されました。主イエスが重い皮膚病を患う人に手を差し伸べられたこと、主イエスが盲人の目に触れることによって癒されたこと、12年間出血が続いていた女性が主イエスの触れることによって癒されました。お医者さんである川越先生は、これらの聖書の箇所について語ったうえで、「今の医師は患者の体に直接触れることが少なくなった」と言っておられました。そしてそもそも癒しとは何か述べるとともに、病を受け入れる信仰ということについて述べておられました。
このように、わたしたちはそれぞれの生きている場所からイエスというかたを見ているのだろうと思います。悩んでいる人、悲しんでいる人、重荷を負っている人、社会から見捨てられている人、孤独に生きている人たちにとって、主イエスは共に生きてくださるかたであり、慰めや励ましを与えてくださるかたであり、重荷を共に担ってくださるかたでした。からし種の譬を農民たちはうなずきながら聞いたことでしょうし、波を静められる主イエスに漁師たちは強い安心感や信頼感を持ったことでしょう。その意味で、7人のかたがたが書かれたそれぞれのイエスを、わたしは興味深く読みました。
けれども、わたしはこの本を読んで興味深く覚えましたし、一つひとつの文章には学ばされるところがありましたが、正直なところなんとなく全体としてはバラバラな印象が残りました。それはわたしの個人的な感想にすぎませんけれど、わたしにはなんとなく物足りなさを感じたのです。
昨年、岩波書店から「イエスとはなにか」という本が出ました。3、4人ずつ、全部で7人のかたがたが、イエスについて語り合っています。目次を見ると、「聖書学から」、「思想から」、「文学から」、「芸術から」と4つの章からなっています。先ほどの本と同じように、いろいろな角度から語られています。でも、はっきりと言って、これが面白くないのです。話し合いに参加している人全員がそうではありませんが、なんとも、イエスというかたをめぐって、高みの見物をして論評しているように思えてなりませんでした。一つひとつの見かた、考え方は、それはそれで間違ってはいないのかも知れません。けれども、わたしはそこに第三者的なものの言い方を感じてしまいました。
仏教の経典に、象の体を触る話があります。ある人は象の足を触り、これは太い柱のようだと言います。ある人は象の胴体を触り、これは壁のようだと言います。耳を触った人は団扇のようだと言います。鼻を触った人は何と言ったのでしたか、まあ、それぞれにこれは何々に似ていると言うわけです。でも、結局彼らはそれぞれの触っている部分について語っているだけで、象の姿を見ていません。太い柱も、壁も、団扇も、それぞれの答は間違ってはいないのでしょう。象についてうまく言っているといえなくもありません。おわかりのように、太い柱と壁と団扇を足し算しても、象にはならないのです。最初に紹介した本のことで言えば、「農民・職人イエス」や「治癒者イエス」をいくら足しても、イエスの全体像にはならないのです。
主イエスが神の国の福音を宣べ伝えられたとき、人々の間に大きな波紋が広がりました。その教えは人々の心をつかみました。病人を癒す奇跡に人々は大きな驚きを覚えました。当然のように、この人はいったい何者だろうという疑問が人々の間に起こりました。マルコ1章によれば、「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と、人々は驚嘆をしています。マルコ4章では、主イエスが嵐を静められる奇跡が書かれていますが、そこで弟子たちは、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と語り合っています。そうかと思えば、マルコ3章にあるように、主イエスの不思議な力を目撃した律法学者たちは、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っています。ベルゼブルというのが何者かよくわかりませんが、すぐあとに「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と書かれているところを見ると、悪霊のなかでも特別に力ある存在だったようです。
今日読んでいただいた聖書の箇所によれば、主イエスは弟子たちに質問をされます。27―28節、「イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、『人々は、わたしのことを何者だと言っているか』と言われた。」
この話の舞台となっているフィリポ・カイサリア地方とはどのようなところなのでしょうか。フィリポ・カイサリアといってもどのあたりかよくわからないのが普通ですけれど、ゴラン高原という名前は聞かれたことがあると思います。イスラエルの北のほうで、今日でも緊張状態の続いている地域です。この地域にヨルダン川の源流があり、ギリシャの牧羊神を祭る聖所があり、さらにその近くにはローマ皇帝の像が建てられていたそうです。何冊かの本を見ると、どの本にもこの地域のことを、宗教的に、いろいろなものが神とされている土地、偶像が拝まれ、また皇帝礼拝がおこなわれていた土地と紹介されていました。
主イエスはなぜフィリポ・カイサリア地方に来られたときに、弟子たちに質問をしたのでしょうか。日常の活動の場であるガリラヤで質問なさったらよさそうなものなのに、わざわざフィリポ・カイサリア地方でこのように尋ねておられるのは、偶像礼拝がおこなわれている土地で、イエスについて実にいろいろな風評があったのかも知れません。ちなみに先ほどのベルゼブルというのは、蝿の主という意味なのだそうです。そんな蝿の神さまのひとりにされてしまうようなうわさもあったのです。
そこで主イエスは弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられ、弟子たちは答えます。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 これは当時の人々の間に伝わっていた主イエスについての風説を代表する言葉でした。これと同じことが、マルコによる福音書6章にも書かれています。「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。『洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。』そのほかにも、『彼はエリヤだ』と言う人もいれば、『昔の預言者のような預言者だ』と言う人もいた。ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った。」 ヘロデ王が、主イエスのことをバプテスマのヨハネの生き返りだと思ったのは、ヨハネが王の不正を指摘したことへの不安がまだ残っていたのかも知れません。それ以上に大事なのは、エリヤあるいは昔の預言者と思われていたということです。エリヤは旧約聖書列王記に出てくる預言者です。
当時の社会において、エリヤに対する人々の崇敬の念はとても大きなものでした。一種の民間信仰のようなところさえあります。現在のユダヤ教について解説された本を読んでいますと、過越の祭のときには4杯のワインを飲む習慣があるのだそうですが、そのときに、5杯目のワインを飲んだり、あるいは誰も飲まない特別のワインの杯をテーブルに置いておくということもあるそうで、それは預言者エリヤのための杯なのだそうです。
ということは、「『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」ということは、主イエスに対して最大限の評価をしていた人たちがいるということです。そこで主イエスは再度尋ねられます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」これに対してペトロが答えます。「あなたは、メシアです。」メシアとは救い主という意味です。、このペトロの答はまったく申し分のない正解であると思えます。でも、ここで聖書は不思議なことを報告しています。それは30節で、「するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」と書かれていることです。この箇所を別の翻訳でみると、「自分のことを誰にも言わないように、彼らを叱った」と訳されています。
どうしてなのでしょうか。普通ならば、「あなたはメシアですと言った答は正しい、だからこのことをたくさんの人たちに言い広めなさい」というはずです。にもかかわらず、主イエスは「だれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」といいます。それどころではありません、「叱られた」のです。
この箇所はこれまで、主イエスがメシアであることは復活のときまで隠されていたという、メシアの秘密と呼ばれる考え方などで説明されてきました。でもわたしは少し別の角度からこのことを思います。それは次のような言い方であらわすことができます。つまり、主イエスはこのとき、「あなたはわたしのことをメシアだと言っているが、メシアとはなにかを本当にわかっているのか」と問いかけられたように思うのです。
そして主イエスはさらに語られるのです。31節、「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」ここで主イエスによる死と復活の予告がおこなわれます。そしてこれを聞いたシモン・ペトロは驚き、主を諌めはじめるのです。「先生、なんということを言うのですか、排斥されて殺されるなど、そんなことがあってはなりません」と、主イエスに向かって、そんなことを言ってはいけないと諌めるのです。復活ということも言われていますから、そんなことは信じられないという気持ちもあったことでしょう。いずれにせよ、主イエスが言われた受難と復活の予告を否定したのでした。
ところがこれに対して主イエスは厳しく言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」主イエスが荒れ野の誘惑の最後の場面で、「サタン、引き下がれ」と言っておられるのを思い出す、実に厳しい叱責です。これはどういう意味でしょうか。先ほど主イエスは、シモン・ペトロの「あなたは、メシアです」と言ったあの言葉に、「あなたはメシアとは何かが本当にわかっているのか」と問い返されたのだと申しました。つまり、ここで主イエスはご自分の受難と復活を予告されたのですが、それはすなわちメシア、救い主である主が歩まなければならない道でありました。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け・・排斥されて殺され」と教えられたのですが、ここで言う「人の子」とは旧約聖書ダニエル書などに示されているように、来るべきメシアを意味する表現です。「人の子」は福音書においていろいろな使われ方をしていますけれど、今日のこの箇所に関して言えば、メシアと取るのが前後からも意味がはっきりとします。
「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」メシア、救い主は、人間のことを思って考えるならば、再び国を建て直す絶対的な王さまのような存在だったことでしょう。人々をローマの圧政から解き放ち、権力を奪い返す存在だったことでしょう。しかし、神のことを思うとはどういうことか、それは神さまが人々を本当に救うためになさろうとしておられること、すなわち、人々の苦しみを担うために、自ら苦難の僕として世に来てくださることを知ることでありました。苦難の僕として十字架への道を歩み、死に、そして新しい命を明らかにされることでありました。シモン・ペトロを初めとする弟子たちは、そのことが理解できていなかったのです。
2週間前、3月6日に農村伝道神学校の卒業式がおこなわれ、そこで日本キリスト教協議会の鈴木怜子議長が礼拝の説教をされました。「原爆の図」や「地獄の図」で有名な、画家の丸木位里さん、俊さんの話をされました。丸木夫妻は、人間の罪深さを思うときに、死んで「天国で会いましょう」などとは言えない、「地獄で会いましょう」と、日常的な会話のなかで言葉を交わしておられたと言います。戦争によって多くの人々を殺していった人間の罪を、誰か人のせいにするのではなく、自らの罪の問題として受け止めておられたのでした。あるとき、何かの会議のときに、鈴木さんは丸木さんと宿泊が相部屋になったそうです。そして鈴木さんは丸木さんに、主イエスのことを語ります。それは主イエスがわたしたちのために地獄にくだってくださったのだということを語られたそうです。丸木さんは翌朝、鈴木さんに昨晩の話をもう一度聞きたいと言われ、聞き終わったあとで、「すごい話だ」とひとこと言われたということです。
わたしたちのために地獄にくだってくださったかたがいる。使徒信条でわたしたちは、「十字架につけられ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」と信仰の告白をします。陰府にくだりとは実にそういう意味なのだと、鈴木さんは語られました。このことを抜きにして、主イエスのことをあれこれ論評しても、それは象の足を触っているだけ、胴体を触っているだけです。たとえ「あなたは、メシアです」と告白しても、本当のところわかっていることにならないのです。
最初に紹介した本は、繰り返しますが、一つひとつの文章はよく考えられたもので、学ぶところが多くあります。でも、全体として物足りなさが残ったのは、今日の聖書の箇所で言うならば、イエスとは誰かという問いに対して、「洗礼者ヨハネだ」、「エリヤだ」、「預言者のひとりだ」とか、いや「このかたこそメシアだ」と言っているだけで、本当のところメシアとはなにか、救い主とはなにかが伝わってこない、そこが物足りなさの原因であろうと思います。
聖書を読んでいるわたしたちは、わたしたちもまた主イエスから「あなたはわたしを誰と言うか」と問いかけられているのだと思います。ある人はイエスの教えに心ひかれ、ある人は柔和なイエスの姿に心ひかれ、またある人は律法学者たちと激しく対峙されるイエスに心動かされることでしょう。しかし、それを高みの見物客として見ることはできません。主イエスは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け」なければならないことを語られました。その歩みの行き着く先に、十字架と復活があるということを語られました。そして今日読んでいただいた箇所に続く34節で主イエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と教えられたのでした。わたしたちは今、主イエス・キリストの受難節第3の週を過ごしています。主の御足の跡に従いつつ歩みたいものです。
(2006年3月19日 礼拝説教)
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