|
2006年12月 「主は我らの救い」 牧師 横野朝彦
|
エレミヤ33・14―16
今日は待降節第1主日。アドベントの最初の日曜日です。アドベント・クランツに最初の光が点りました。主の日の礼拝ごとに、光が一本ずつ増えていき、灯かりが増していきます。そしてクリスマス礼拝においては4本のローソクが明るく輝きます。このあたりを確認しようと思って、八木谷亮子さんが書かれた「キリスト教歳時記」という本を開いてみました。
「この時期に欠かせない飾りは、モミやヒイラギといった常緑樹の枝や葉などを丸く編み、4本(もしくは5本)のローソクを立てたリースである。英語ではアドベント・リースというが、日本ではドイツ語ふうにアドベント・クランツと呼ぶことが多い。最初の日曜日に一本、次の日曜日に一本と、毎週ローソクに火を灯していくことで、≪世の光≫たるキリストの到来を待ち望む。教会堂はもちろん、一般家庭においても飾られ、ヨーロッパの街の花屋には色とりどりのアドベント・クランツが並ぶ。」
「キリスト教歳時記」にはまた、アドベント・カレンダーのことも書かれていました。日本では、前はキリスト教書店でないと手に入りませんでしたが、最近は一般のお店でもみかけることがあります。1から25まで、カレンダーに小窓がついていて、毎日ひとつずつ窓を開けていくと、なかに美しい絵があらわれます。なかにはお菓子やおもちゃの入っているのもあります。
一昨日の新聞に、ドイツのお菓子シュトーレンのことが載っていました。新聞記事によれば、「クリスマスを待つ間、日曜日ごとに家族で薄く切り分け、ひと切れずつ食べるのが慣わし」だと書かれていました。クリスマスのお菓子ということは知っていましたが、このように、日曜日ごとに少しずつ食べるというのは知りませんでした。
クランツに、カレンダーに、お菓子。アドベントの期間中、光が増え、カレンダーの窓が開き、またお菓子を少しずつ味わう。このようにして、アドベントの喜びが、次第に盛り上がっていくのでしょう。また、ほかにも、クリスマスの準備がさまざまな形でおこなわれます。そしてアドベントとは、このように日々の生活のなかでクリスマスを迎える心が大切にされてきたのだと思います。
教会においても、アドベント・クランツがこのように飾られ、ローソクの光が灯っているのでありますが、それとともに、教会において大切にされてきたことがあります。それは、アドベントの最初の主の日には旧約聖書が読まれることです。現在日本基督教団が用いている「新しい教会暦」は、降誕前節があり、この季節を特に旧約聖書の約束に心留めるべきときとしていますけれど、わたしはそのことを覚えつつ、アドベント第1週に旧約を読むことを大事にしていきたいと思っています。
このあたりが、一般的な祝祭日とは異なる点です。クリスマスは、その日だけのことではなく、長い期間をかけて覚えられ、祝われるものです。そして待誕節をとおして、わたしたちは神さまの救いの約束を覚え、待ち望む心を高めていくのです。アドベント・クランツの光が少しずつ増えていくことや、カレンダーの小窓が開いていくことは、単なる飾りとか、習慣といえばそれまでですけれど、それによって、次第にクリスマスの近づくのを味わう、よい慣わしだと思います。
話は変わりますが、来週は伝道礼拝です。代々木上原教会の村上伸牧師に説教をしていただきます。村上牧師は愛知県の安城教会、岡崎教会で牧師として働かれたのちに、旧西ドイツで宣教部幹事となり、その後20年間東京女子大学の教授をされました。たくさんの著書があり、そのなかには「死と生を考える」、「いのちへの道」、「いのちを望む神」というように、「いのち」をタイトルとしたものが何冊もあります。また、番町教会で月に一度おこなっている読書会では、今月「あなたはどう生きるか」という村上先生の本を取り上げます。村上先生はまた、たくさんの翻訳をなさっており、それらは日本のキリスト教界にとって、とても重要な書物ばかりです。
番町教会では、「いのちを考える」を今年の大きなテーマとしてきました。7月には骨髄バンクを立ち上がられた橋本明子さんにお話しをしていただき、9月には聖路加国際病院の細谷亮太先生にお話をしていただきました。そして、伝道礼拝を開催するにあたり、どなたにお願いするか、どのような内容でお願いするかを考え、「いのちを考える」を基本に据えて、キリスト教倫理の専門家である村上先生がもっともふさわしいと思ったのです。そのようなことですので、ぜひこのときにお知り合いのかたなどを教会に誘っていただき、教会にふれ、聖書の言葉にふれ、神さまの御言葉にふれることができるように、伝道の機会としていただきたいと願います。
村上先生の著書のひとつに、清水書院から出ている「人と思想シリーズ」の一冊として「ボンヘッファー」があります。また翻訳書として全4巻からなる「ボンヘッファー伝」の第1巻、そしてボンヘッファーの獄中書簡集「抵抗と信従増補新版」を訳しておられます。村上先生のライフワークのひとつがボンヘッファーから学ぶことなのだと思います。そんなことを考えながら、わたしは村上先生が訳された獄中書簡集を開いてみました。そして目にとまったのが、「朝の祈り」という祈りの言葉でした。
「神よ、私は一日のはじめにあなたに呼びかけます。私を助けて、祈れるように、そして私の思いをあなたに向かって集められるようにして下さい。私には、ひとりでそれができませんから。私のうちは暗い。しかし、あなたのみもとには光があります。私はひとりぼっちです。しかしあなたは、私をお見捨てになりません。私は臆しています。しかし、あなたのみもとには助けがあります。私は動揺しています。しかし、あなたのみもとには平安があります。私の中にはにがい苦しみがありますが、あなたのみもとには忍耐があります。私にはあなたの道が理解できません。しかしあなたは、私のための道をご存知です。」
この祈りの言葉は、ボンヘッファーの友人であるベートゲに送られた手紙に書かれていたものです。そしてこの「朝の祈り」は、「夕べの祈り」、「特別な困窮にある時の祈り」の計3つの祈りが、「共に囚われている人たちのための祈り」という表題のもとに収録されています。これまで何度もご紹介をしてきましたが、 ボンヘッファーはナチスへの抵抗運動に加わったことによって逮捕され、1945年4月に絞首刑に処せられています。「朝の祈り」、「夕べの祈り」、「特別な困窮にある時の祈り」は、獄中に囚われているときに書かれ、「共に囚われている人たち」とはつまり、同じ刑務所内にいる人たち、あるいは別の刑務所であるとか、収容所などに入れられている人たちのためのボンヘッファーの祈りなのです。彼は獄中にありました。しかし彼は自分のためだけではなく、一緒に獄中にいる人たちなど、多くの人のために祈りました。獄中書簡集を読んでいると、刑務所の看守から「祈ってください」と頼まれたという記述もあります。このように、彼は多くの他者のための祈りをささげました。
そして、今ご紹介をした「共に囚われている人たちのための祈り」の表題の下には、「1943年降誕節」と書かれています。この祈りが実際に書かれたのは、1943年の11月末のことと思われます。ですがボンヘッファーは、この祈りをクリスマスの祈りとして記しているのです。このことからわたしたちは多くのことを考えさせられます。つまり、ボンヘッファーが祈りのなかで、「私のうちは暗い。しかし、あなたのみもとには光があります。私はひとりぼっちです。しかしあなたは、私をお見捨てになりません」と祈ったとき、そこには、救い主イエス・キリストのご降誕がボンヘッファーの心のなかでしっかりと待ち望まれていたのです。それはどのような状態にあっても、神さまは必ずわたしを助けてくださる、同じような状況にある囚われ人たちをも助けてくださるとの確信であり、信頼でした。だからこそ、彼は「私は臆しています。しかし、あなたのみもとには助けがあります。私は動揺しています。しかし、あなたのみもとには平安があります」と祈ることができたのです。
さて、最初に申しましたように、本日は待誕節第1主日にあたり、旧約聖書を取り上げ、エレミヤ書33章の御言葉を読んでいただきました。このエレミヤ書33章を、預言者エレミヤはどのような場所で語り、どのような場所でこれが記録されたのでしょうか。それは33章の1節に書かれています。「主の言葉が再びエレミヤに臨んだ。このとき彼は、まだ獄舎に拘留されていた。」エレミヤはこのとき、獄中にいたのです。このあたりの事情は、エレミヤ書32章のはじめに書かれています。バビロニア帝国によって南王国ユダが滅びるであろうと、エレミヤが預言をしたときに、ユダの王ヒゼキヤが「なぜ、お前はこんなことを預言するのか」と、彼を逮捕拘留したのです。つまり、「お前は非国民だ」と逮捕されたのでした。
33章で、エレミヤはまだ獄中にいます。しかし彼は獄中にあって、確かにひとつの幻を見たのです。幻という言葉が不明瞭であるならば、神さまの約束への固い信頼といえばよいでしょうか。エレミヤは確信を持ちます。33章全体を見ていただくとわかります。それは6節、「見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」という確信であり、8節、「わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す」という確信です。そしてまた10節、11節にあるように、廃墟となった町に人々が戻ってくることであり、12節にあるように、荒れ果てた町が回復され、羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになるとの確信です。33章の初めに「エルサレムの回復」という見出しがついていますが、ここで描かれていることは、回復という以上のものがあると思います。それはまことの平和であり、神さまの赦しによって、人々が生かされている姿です。
そして、エレミヤはこのようなまことの平和の幻の、ひとつの頂点とでもいうべき言葉として、今日お読みいただいた14―16節を述べるのです。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう。」ここには救い主到来の預言がはっきりと書かれています。「正義の若枝を生え出でさせる」、これはイザヤ書11章に書かれている「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる・・弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する」の預言を思い起こさせる大変印象的な言葉であり、イザヤにもエレミヤにも共通する言葉です。
イザヤも、エレミヤも、共通する認識は、彼らの生きている時代とは、木々が切り倒された荒廃した時代であるということです。木々が切り倒される、単に樹木が無くなるということではありません。もちろんそれも大変なことですが、ここで木々が切り倒されるとは、人々が打ち倒されることであり、また国や為政者たちが倒されることです。そして、荒廃した町にはもはや切り株しか残っていない状態です。ところが、そのような荒廃した町の、切り株から若枝が生え出でると、イザヤも、そしてエレミヤも、共通して預言をしたのです。
広島に落ちた原爆によって、木々も焼かれました。爆心地から北へ1kmほどのところにある榎も、高さ15mほどの立派な木でしたが、被爆して根元をざっくりえぐられました。それでもなんとか生き延びたのですが、後に台風のために折れてしまいました。でも、不思議なものです。その根元から、若枝が生え出で、今は原爆榎2世として、近所の小学校の子どもたちによって大事に育てられ、平和教育のシンボルのようになっています。
枯れたと思える木の幹から小さな芽が育つのを見ることがあります。また、足元の地面から、同じ木の芽が出てくることがあります。この自然の不思議を比喩として、イザヤも、エレミヤも、ひとつの若枝がわたしたちに与えられると預言しました。そしてその若枝によって、公平と正義が与えられると語られます。16節の「その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」という言葉も非常に重要です。わたしたちは、この預言からおよそ500年を経て、ベツレヘムの町に幼子イエスが生まれたことを知っています。このイエスという名前は、ユダの国では比較的ありふれた、よくつけられる名前であったようです。でも、これはただ大きな意味をもった言葉でもあります。イエス、ギリシャ語でイエスースということから、日本語ではイエスと呼びますが、もともとヘブライ語ではヨシュア、それは、「ヤハウェは救いである」という意味です。今日読んでいただいたエレミヤ33章16節の「主は我らの救い」の、「主」と訳された言葉はヤハウェですから、イエスという名前は、まさしくエレミヤが預言したとおりの名前なのです。
ルカ1章で、天使ガブリエルがマリアに受胎を告知し、「その名をイエスと名づけなさい」と言ったのも、たくさんある名前のなかから、Aさんにしなさい、Bさんという名前にしなさいと言ったのではありません。神さまこそわたしたちの救いであると、言いあらわされたのです。
今日から、待誕節に入りました。時代は混迷の度を加えています。社会不安が大きくなっています。世界中争いが絶えず、日本の国でも勇ましい言葉が幅を利かせています。時代はますます暗くなるのではと恐れます。しかし、わたしたちは、公平と正義によって治められる若枝が与えられていることを知っています。主こそ救いであることを知っています。それゆえどのような時にあっても、「私は臆しています。しかし、あなたのみもとには助けがあります」、「わたしは動揺しています。しかし、あなたのみもとには平安があります」と祈ることができます。
ボンヘッファーが獄中にあって、共に囚われている人々のために祈った祈りの続きの部分を読みます。「主イエス・キリストよ。あなたは貧しくあられました。そして私と同じようにみじめであり、囚えられ、見捨てられました。あなたは人間の困窮を知っておられます。あなたは、私のそばにいて下さいます。たとえ誰一人私のそばにいてくれなくても。あなたは私をお忘れにならず、私を探して下さいます。」ボンヘッファーは、獄中にあって、救い主イエスが貧しき者の友となり、苦しみのなかにある者の友となり、十字架の重荷を背負ってわたしたちを救ってくださったことに光を、助けを見ていました。待誕節の日々をとおして、救いを待ち望む心を高めていきたいと願います。ローソクの光をひとつずつ増やしていき、カレンダーの小窓を開きながら、あるいは部屋の飾りつけなど、アドベントの過ごしかたをとおして、「私のうちは暗い。しかし、あなたのみもとには光があります」と心から祈ることができるようになりたいと願います。そして、主は我らの救いであることを確かに告白することができるようにと祈ります。
(2006年12月 3日 礼拝説教)
|
|
|