番町教会説教通信(全文)
2006年1月 「われらに恐れはない」          牧師 横野朝彦

マルコ1・21―28

主イエス・キリストが会堂で教えておられたとき、汚れた霊に取りつかれたひとりの男が叫びます。「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」今日お読みいただいた聖書の箇所に書かれているこの男の言葉、あるいは、汚れた霊自身の言葉でしょうか、この言葉にわたしは少しばかり興味を覚えます。というのも、汚れた霊、これを1章34節に出てくる悪霊と同じようなものと考えてよいと思いますが、本来、神さまとは対極にあるはずの汚れた霊、悪霊が、イエスのことを「神の聖者だ」と呼んでいるのです。

さらに悪霊は、イエスのことを「ナザレのイエス」と呼んでいますが、このナザレのイエスという言葉は、ただナザレという村の名前だけではなく、旧約聖書レビ記に出てくるナジル人にかけた言葉だという説があります。ナジル人は「神の聖者」と考えられてきました。ですから、この説にしたがうならば、「ナザレのイエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」というこの言葉は、「神の聖者イエス、かまわないでくれ、我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」ということになり、「神の聖者」が繰り返し告白されていることになります。

 でも、悪霊がイエスのことを「神の聖者」だと告白しているからといって、悪霊が主イエスへの信仰を告白したということではありません。信仰の告白とは、神の存在をただ認めるか信じるというだけでは不充分だからです。信仰には、悔い改めにもとづいて生きる足場が変わっていくことを伴います。言い換えれば、信仰とは主イエスに従う生き方へと招かれることだからです。

ですから、聖書のこの箇所に出てくる悪霊は、確かにイエスのことを「神の聖者」だと告白していますが、しかし主イエスに従うことをよしとしていません。「従います」どころか、まったく正反対に、「かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」と、主イエスを拒否するのです。ローマの信徒への手紙1章で、パウロは人間の罪について書き、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなった」と述べています。そしてパウロは続けて、人間がむさぼりや悪意に満ち、人をそしり、侮り、高慢でと、罪に陥っていることを厳しく述べています。

このように考えれば、汚れた霊とか悪霊というものが、何か特別な存在であるというよりは、むしろわたしたちの内に日常的に宿っているものではないかと思えてきます。神さまのことを知りながら、わたしたちは日常の生活において、神さまの御心とは遠く生活していることしばしばです。口において、行いにおいて、神さまから離れてしまっているからです。

話を変えて、「白バラの祈り」という映画が、今月の末から上映されます。ナチスドイツ政権下、ミュンヘン大学の医学部学生であったハンス・ショルと、哲学を学ぶ学生であったゾフィー・ショルの兄と妹、そしてその友人クリストフ・プロープストが、大学の構内でナチスに反対する文書やビラを撒き、そのことによって逮捕され、逮捕からわずか5日後、わずか一回の裁判で有罪が確定し、その日のうちに処刑されたのでした。この事件は、「白バラ抵抗運動」と呼ばれています。起こった出来事そのものは、けっして大々的なものではありません。にもかかわらず、このことはナチスへの抵抗運動の象徴的な出来事として人々の間に記憶され、人々の間に言い伝えられたのでした。

兄のハンスが学生部隊のひとりとして、つまり日本の戦時下の言葉で言えば、学徒動員のために従軍してロシアに行ったときに書かれた日記の言葉を以前に紹介したことがあります。「僕は今音楽を奪われている。夜も昼も聞こえてくるのは苛まれている人々のうめき、夢に見るのは捨てられた人々のためいき、そして沈思すれば考えはいつも断末魔のくるしみに終る。もしもキリストが此の地上に生れそして死ぬことがなかったとすれば、僕の逃れる道は全くあるまい。どのように泣いてみても、悲惨と無意味には変わりないであろう。ただ頭を到るところ壁にぶち当て、脳味噌を叩きつぶす外はないだろう。しかしキリストがいる!」

ショル兄妹が抵抗運動をおこなったのは、何かの組織やあるいはイデオロギーの背景があったからではありません。それは、家庭と両親から不言不語のうちに血液の中に受けた素朴な信仰であったと言われています。彼らにはドイツ国内のボンヘッファーなど告白教会の抵抗運動とのつながりもなかったように思えます。それはまったく個人的な信仰の良心のゆえでした。彼らが配布した「白バラ通信」の第3号には次のような言葉が書かれています。「ヒトラー・・が平和を唱えるとき、考えているのは戦争であり、彼が冒涜きわみなくも全能者のみ名を呼ぶとき、思っているのは悪の力、堕罪の天使、サタンなのである。・・ナチス的恐怖国家に戦いを挑むには、もとより合理的手段によるべきではあろう。されど・・非合理的なものがひかえている。すなわち悪霊に対する戦い、キリストの敵なる者の使者らに対する戦いという意義である。」

彼らはこのように、ナチスへの抵抗運動を悪霊に対する戦いと理解し、ただ信仰的良心に従って行動したのでした。それにしても、わたしが驚くのは、たかが反体制のビラを配布しただけで、逮捕されて5日目に処刑されたということです。これは何を意味するのか。つまりそれは、ナチスの側が、ショル兄妹の信仰的良心による行動を心底恐れていたということを意味するのではないでしょうか。「白バラは散らず」という本の末尾につけられた「訳者のことば」のなかに、マイネッケという人が書いた「ドイツの悲劇」という本の一部が紹介されています。「ヒトラーのキリスト教に対する最も深い憎悪は・・神にだけ責任を負う独立の良心という理念、人間より以上に神に従おうとし・・全体主義的画一化に対する抵抗の最も深い泉が、キリスト教のうちにさらさらと流れているのだ、という正しい認識に、ヒトラーを導いたところのものであった。」

何百万人もが殺されたあのナチスの時代に、ナチスが恐れていたものがあったのです。それはアメリカやイギリスといった連合軍の軍隊であるよりは、名も知られぬ兄と妹のキリスト教信仰による良心的行為、それも巨像に挑むには蟻よりも小さいと思える小さな行動でした。今紹介したように、ヒトラーは、キリスト教の信仰が人間よりも神に従おうとすることを知っていました。全体主義に抵抗する泉がキリスト教のうちに流れていることを知っていました。まさしくそれは、「我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と汚れた霊が叫んだとの同じように、キリスト教の真理をある意味で知っていたのです。だからこそショル兄妹のことを恐れたのです。

それに対して、ショル兄妹は本当のところ恐れていませんでした。処刑の直前に母親と交わした会話や、処刑のときの様子は、ちょうどボンヘッファーが処刑されるときに「これは始まりです」と言ったのに通じる、不思議な明るさがあります。ショル兄妹と一緒に逮捕され処刑されたクリストフは、処刑の直前に母親に当てた手紙を書き、「あなたがぼくを生んでくださったことを感謝します。ぼくがふり返ってみると、この生こそは神への唯一の道だったのです」と述べています。

今申し上げた話は、けっして特殊な時代、特殊な場所、特殊な話ではないと思います。そうではなく、わたしたち人間が生きるところ、時とか場所をこえて、何かしら同様のことがあるのだと思います。わたしたちの周りにはさまざまな悪しき力が満ちています。今話したような巨大な政治的な力があります。今の社会、かつての冷戦時代より以上に世界がいつどうなっていくのかという不安にかられることがあります。何か巨大な悪しき力が働いているように思えます。しかしそのような巨大な力ばかりではありません。もっと個人的な、例えば隣人との人間関係であったり、あるいは病という力であったりします。今世間をさわがせている経済的な事件の報道を聞いていると、その当事者が「人の心をも金で買うことができる」と発言をしたといいます。わたしは今ここでこの人を非難しようとは思いません。むしろこのような発言を生み出した社会とか、あるいはこれをもてはやしてきた社会に、何かしら恐ろしい力があると思えてなりません。それはまさに昔の人が、マモンという言葉で表現した金の力ではないでしょうか。英語の辞書でmammonをひくと、「富の神」と説明されていました。

3章の初めに、「人々は主イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」とあります。別の翻訳では、「この人を治すかどうか、うかがっていた」となっています。主イエスが病いを負う人を癒されたならば、今日は安息日だ、労働をしてはいけないのだと告発するためにそっとうかがっている、他者を陥れるために、自分は手を汚さず、また病を負う人への同情のかけらもなく、うかがうようにして見ている。なんと汚い心でしょうか。そしてこれに似たようなことも、わたしたちの社会では少なからずあるのです。特別に悪い人がそんなことをするのではありません。人間関係がちょっと行き違うと、わたしも、皆さんも含めて、誰しもが、そのような歪んだ心に支配されてしまうことがあります。

抑圧に対する抵抗や、軽んじられたことへの反発、愛憎のもつれなどによって、人は悪しき心に支配されてしまうことがあります。それは他者への攻撃となる場合もあれば、自分自身への攻撃となる場合もあります。マルコ5章に悪霊に取りつかれたゲラサ人の物語が書かれていますけれど、この人は昼も夜も石で自分を打ちたたいたりしていたといいます。何か辛いことがあったのでしょう。そしてこの人は、墓場や山で叫び、自分自身を打ち叩いています。この物語は、今日お読みした1章の物語ととても似ています。汚れた霊に取りつかれた男は、「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びました。5章のゲラサ人の話も同様です。「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ。『いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。』」そしてこのあと、どちらも主イエスによって悪しき霊が追い出されています。

これらのことから分かることは、この世に何か悪しき力が存在をしていること、それを悪霊と呼ぶかなんと呼ぶかはともかくとして、何かしらこのような力が存在していること、そして主イエスはこのような悪しき力に対して、「この人から出て行け」ということのできるお方であったということです。そして、悪しき力もまた主イエスのこのような力を恐れており、そればかりか悪しき力は「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と叫ぶほどに、正しきお方である主イエスを恐れていたということです。

以上のように、3章の「手の萎えた人を癒す」物語や、5章の「ゲラサ人の話」などとの関連でお話をしてきましたが、ここでまた気付かされることがあります。それは、今日の物語が、それら福音書に記されているたくさんの出来事の序章になっているということです。

日本基督教団の聖書日課によると、今日読むように定められた聖書の箇所は、マルコ1章21―28節であり、タイトルとして「宣教の開始」と書かれています。来週は、1章40―45節でタイトルは「新しい神殿」。2月に入ると、タイトルだけを申し上げますが、「譬で語るキリスト」、「教えるキリスト」、「癒すキリスト」、「奇跡をおこなうキリスト」と続いていきます。なお、わたしは聖書の箇所はなるべく聖書日課に従って選び、説教の題はこれらのタイトルを参考にしながら、だいたい別の言葉を自分でつけています。

クリスマスから受難節の前までは「降誕節」であり、主イエス・キリストの十字架に至る生涯から御言葉を聴くのが通例でありますが、今、聖書日課のタイトルを見てわかることは、ここでは主イエス・キリストが譬を語られたり、教えられたり、病人を癒されたり、あるいは奇跡をおこなわれたりと、さまざまな活動をされたその足跡を日曜日ごと、主日ごとにたどろうとしていることがうかがえます。主イエスの働きは、ここに表わされているように、あるときは病人を癒し、あるときは嵐を鎮め、またあるときは譬を語られ、またあるときはマタイ5―7章に記録されているような教え、「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」、そしてまた「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えをしておられます。

 でも、このようなさまざまな活動が、あるときは教え、あるときは癒しと、バラバラに、別々におこなわれたのかというと、決してそうではないとわたしは思います。3章を読むと、主イエスが手の萎えた人を癒されたのは安息日でした。当時の人々は安息日には何もしてはいけないと、律法を守ることまことに形式的でした。そこで主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と問い掛けられ、その後、手の萎えた人を癒されたのでした。このように、癒しの物語でありながら、その実は癒しそのものよりも、安息日とはなにかという論争、あるいは教えが話の中心になっているのがわかります。あるいは、主イエスが「敵を愛しなさい」と教えられたとき、何か一つの知識を教えたのではありませんし、格言とか、生き方の公式を教えたのでもありません。そうではなく、主イエスご自身の生き方がそこに示されたのでした。すなわち、主イエスの教えも、癒しも、そのほかすべての主イエスがなさったことは、バラバラの、別々のことではなく、ひとつのことであり、それらはすべて主イエスの愛の現われであったとわたしは思うのです。

そこで今日の箇所でありますが、先程述べた聖書日課のタイトルは、「宣教の開始」でした。マルコによる福音書を読むと、14―15節で「ガリラヤで伝道を始める」と見出しがついていますが、そこでは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と主イエスが言われたことが、短く書かれているだけです。そして次に「4人の漁師を弟子にする」という話があり、そしてそれに続いて、今日の箇所「汚れた霊に取りつかれた男をいやす」という話があります。つまり、今日の箇所は実質的に主イエスがなさった教えや癒しや、譬や奇跡などの活動の、最初に書かれている出来事であり、まさしく「宣教の開始」を告げている物語、序章なのです。

今日の箇所では、まず「イエスは、安息日に会堂に入って教え始められた」と書かれています。でもここに教えの内容はありません。すぐに汚れた霊を追い出す出来事につながります。このことからも分かることは、主イエスにとって教えとは、現実を遊離した知識などではなく、まさしく教えも癒しもひとつとなったものであり、それらはすべて主イエスの愛の現われであるということです。そしてわたしたちはこのような主イエスの愛に触れることによって、この世の悪しき力と戦うことができるのです。戦うといっても、武器を持って戦うのではありません。そうではありません。

ナチスへの否を述べた「白バラ通信」には、繰り返しひとつの言葉が出てきます。それは、「消極的抵抗」という言葉です。「白バラ通信」の第一号には、「キリスト教的・・文化の一員たるその責任を自覚し・・消極的抵抗を開始せよ」と呼びかけられています。第3号では、「いかに自分は・・有効な戦いを挑みうるか、いかにして相手にもっとも激しい痛手を加えうるか? 消極的抵抗によってである」と書かれています。消極的抵抗、それはマルティン・ルーサー・キングの言う「非暴力抵抗」とほとんど同じだと思います。聖書をとおして教えられることは、悪しき力のほうこそが正しきかたである主イエスを恐れているのですから、主に信頼をしていけばよいのです。そうすることによって、わたしたちは何も恐れることなく、この世の戦いを続けていくことができるのだと信じます。

(2006年1月22日 礼拝説教)