番町教会説教通信(全文)
2005年6月 「死から命へ」                牧師 横野朝彦


エフェソ2・1―10

わたしが若い頃世話になった藤木正三という牧師が書かれた「神の風景」という本を読んでいると、こんな文章に出会いました。「必ず誰かに助けられて生きていますのに、不思議なことですが、この助けてくれている人がよく見えないのがわたしたちです。自分が助けている人は見えても、助けてくれている人が見えない、人間の成長が一番遅れているのは、この点です。・・・助けてくれている人が見える、つまり感謝の心です。すべてのことに感謝ができれば他に何を欠こうとも、人間としては成長を極めているといってもよいでしょう。」

ここで指摘されていることは、日頃からいろんな表現で言われていることです。でも、藤木牧師の語り口で書かれているのを改めて読んだときに、わたしはしばらく、なるほどそうだなあと、いっとき立ち止まらせられたような気がしました。わたしたち人間は、複雑に互いに係わり合い、そして互いに助けられて生きています。旧約聖書創世記で神さまが言われたとおり、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」ということであり、わたしたちには多くの助けるものが与えられています。でも、そのことに気付きません。誰か親しい友だちがわたしを助けてくれている、家族や友人が助けてくれている、にもかかわらず、そのことに気付こうともせず、感謝を忘れていることがしばしばあります。そしてそれでいて、自分がちょっとした手助けをした人のことはよく覚えているのです。他の人が汗を流して働いていても、そのことに気付かず、他の人が重い病で苦しんでいても、そのことに気付こうともせず、それでいて、自分だけが労苦をしているように思ったり、自分だけがどうしてこんな病気になるのだろうと思ったりします。

話を広げますが、わたしたちはそもそも、他の動物や植物を食べることなしには生きることができません。ところがそのことに感謝もしないで、自然を破壊し、食い尽くしているのがわたしたちの姿です。先月の初め、教会学校でお話をするために、食物連鎖を話題にしようと思いました。お話をするためには、少しは自分でも勉強をしておこうと思って調べましたところ、最近は食物連鎖というような連鎖という考えはしないのだと知りました。連鎖というと鎖がつながるということで、線です。しかし今では線ではなく網、食物網という考え方をするんだそうです。どんな生き物も、他の生き物とのつながりで生きている。そしてその網が大きければ大きいほど、自然は安定をしているのです。ところが人間はその網の糸を、あちらこちらで断ち切ってしまっている。今はまだほかにつながっているから、網の形をしているけれども、あちらこちらが切れた網はあるとき一挙に崩れると、そういう危険性が指摘されています。

人間関係に話を戻し、わたしたち人と人とのつながりもまた同じだと思います。わたしたちの人間関係は、AさんがBさんを助け、BさんがCさんを助けというような単純なものではありません。ここにもまた網があるのだと思います。ですから網のこちらにいるわたしと、網の向こうのほうにいる誰かと、直接のつながりはなくても、実はお互いに支えあってひとつの網を形作っているのではないでしょうか。あんな人はいなくていい、仮にそう思えたとしても、実はその人はわたしを網の一部として支えてくれているのです。わたしたちは必ず誰かに助けられて生きている、にもかかわらず、そのことに気付かず、あるいは気付こうともせずにいる、そればかりか相手を食い尽くしている、それは、聖書の言葉でいうならば、罪です。そしてそのことは、食物連鎖、あるいは食物網ということだけでなく、戦争という形で、わたしたち人間は互いに食い尽くし、他を滅ぼしています。それは、網の一部を破ることであり、他を滅ぼしているように見えながら、実は人間存在すべてを滅ぼす行為なのではないでしょうか。

聖書の語る罪は、ローマ1章のパウロの言葉を借りれば、「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず」ということでありますが、この言葉を広く受けとめ、わたしたちは他者によって生かされているのに、そのことに気付こうともせず、感謝することもない、それこそ罪の姿であると思います。そういう罪の姿から解き放たれて、藤木牧師が言うように、「助けてくれている人が見える、つまり感謝の心」が持てるとすれば、藤木牧師はそれを人間としての成長と言われましたが、わたしはそれ以上に、新しく生きるというべき、新生の体験だと思います。

話が変わりますが、韓国の映画や若い俳優さんたちが日本でもとても人気で、それはこれまでは考えられなかったことです。でも、歴史や国民性の違いなどを抜きにしてのブームに、わたしはそれでいいのだろうかと思ってしまいます。

日本のこれまでの歴史教育は、自虐的であったという声があります。本当にそうなのでしょうか。ドイツでは、敗戦後60年の集会が大々的にもたれました。でも日本にそのような動きはまったくありませんでした。そればかりか、過去を肯定するような発言が次々と聞こえ、お隣りの国との関係があやうくさえなっています。

このような違いはどこから来るのだろうかと思うときに、やはりそこにはキリスト教的なものの見方考え方の有無があるように思えてなりません。もちろん、単純に外国がよくてというような考え方をするつもりはありませんけれど、でも、やはりこの違いを考えるときに、罪意識の有無という問題にわたしは行き当たります。キリスト教では罪ということを問題にします。そして罪赦されて生きるためには、真摯に悔い改め、新しくされることを求めるのです。でも、日本の古くからの考え方は、悔い改めるのではなく、水に流すということです。なかったことにしてしまうのです。水に流すというのも、ひとつの生き方なのでしょう。でも、加害者と被害者がいる場合、加害者にとっては水に流せても、被害者にとってはそう簡単に流せないことがあるはずです。

今から20年前、当時のドイツ大統領ヴァイツゼッカーは、「荒れ野の40年」という表題で知られている演説のなかで言っています。「過去に対して目を閉じる者は、現在に対しても目を閉じるのであります。かつての非人間的な事柄を思い起こしたくないとする者は、新しく起こる罪の伝染力に負けてしまうものなのであります。ユダヤの人々は忘れることはないし、何度でも思い起こすことでありましょう。われわれは、人間として、和解を試みないわけにはいかないのであります。」わたしはこの言葉のユダヤというところに、アジアの国の名前を入れて、そのままわたしたちに当てはめることが出来ると思います。ヴァイツゼッカー大統領は今の言葉に続けて言います。「まさにそれ故にわれわれは理解しなければなりません。思い起こすことなくして和解は起こりえないということを。」

ヴァイツゼッカー大統領は、この演説のなかで、東ベルリンのカトリック枢機卿が語った言葉を引用しています。それは、「罪のもたらすどうしようもない結末、それは、いつも分裂であります」という言葉でした。そして、戦争という罪のもたらした結末である分裂を終わらせ、悔い改めによる和解に至らなければならないと述べるのです。今から20年前になされたこの演説は、本当に格調高いものです。

聖書の語る罪という言葉のもともとの意味は、的をはずすという意味です。詩編78に、「彼らはいと高き神を試み、これにそむいて、そのもろもろのあかしを守らず、そむき去って、先祖たちのように真実を失い、狂った弓のようにねじれた」とあります。罪ということを認めるのは、誰だって嬉しいことではありません。でも、わたしたちはまず自分たちが罪と無関係ではないことを認めることから始めなければならないと思います。

日本ホーリネス教団という教会があります。日本ホーリネス教団は、1998年に、戦争中に自分たちの教会が誤りをおかしたという告白文を出しました。そしてこれを出すにあたって、教会内でも、自虐的だとか、いろいろな意見が出たそうです。でも、このことについて日本ホーリネス教団は、この告白は過去を糾弾するものではなく、謝罪文でもない、それはこれからの教会のありかたの問題なのだと述べ、さらに次のように述べています。「自己批判とは自己卑下ではありません。《罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれ》るのですから。」この後の言葉は、ローマ5章です。罪の赦しは、まずわたしたちが罪を認めることから始まるのだと思います。認めることもなしに水に流してしまっては、赦しに至ることはありません。でも、それを率直に認めていったとき、神さまの赦しも、神さまの恵みもますます満ちあふれると聖書は教えてくれているのです。

今日お読みいただいた聖書の箇所の冒頭、1節に、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」と述べられています。さらに、2―3節に、「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い、過ちと罪を犯して歩んでいました。わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」と述べられています。これは実に完膚なまでにわたしたちを叩きのめす言葉です。空中に勢力を持つ者というのが、なんともわからない表現ですが、これは当時の人々の考え方です。天に神さまがおられ、地に人が住み、その間、つまり空中に、神に逆らうものがいると、そのような考え方があったそうです。その考えを利用しながら、あなたがたは肉の欲望のままに行動し、罪に支配され、死んだも同様であったと、ここで厳しく述べられています。

けれどもこのようなわたしたちを、神さまは赦し、新しく生きるものとしてくださった、それが今日の箇所で語られているのです。「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださった、3―4節にかけての御言葉は、今日の箇所の中心となるメッセージであると思います。

1、2年前、大江健三郎さんの「新しい人のほうへ」という本を引用し、そのなかに書かれていた次のような言葉を紹介しました。「わたしはただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』となられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるよう励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています。」

大江さんは、この言葉の直前、同じ開いたページで、エフェソの信徒への手紙について述べています。そしてこの手紙が、人と人、民族と民族とが、互いに敵意を燃やしている土地に、キリストの福音をどのように伝えるかを説いている手紙だと述べられています。この理解は正しいものです。対立する人間のなかに、キリストが新しい人としてこられ、そしてわたしたちに和解がもたらされたのです。

ところで、今日お読みいただいた箇所には、新共同訳では「死から命へ」という見出しがついています。この見出しは、新共同訳聖書の翻訳者が、この箇所で言われていることをひとことで言い表す表現としてつけたものです。わたしは今日の説教の題をこの見出しをそのまま利用させていただきました。そして、すでにお話をしてきたように、罪に支配され、死んだも同然であったわたしたちがキリストの復活と共に新しく生きることがここに教えられていました。でも、改めて読み直してみると、この見出しは今日の箇所へのひとつの解釈であると思わされます。というのは、「死から命へ」という見出しがついているのにもかかわらず、今日の箇所には「命」という言葉が一度も出てこないからです。「死」という言葉は1節と5節に出てきます。でも「命」は出てきません。それに対応する言葉としては、5節の「キリストと共に生かし」、あるいは6節の「キリスト・イエスによって共に復活させ」、さらに10節の「神に造られた」という言葉があてはまると思います。そこでわたしは興味を覚えまして、他の書物がこの箇所にどのような見出しをつけているのかを調べてみました。すると実にいろいろです。

岩波書店から出ている「新約聖書翻訳委員会」訳はこの箇所に「キリストと共に復活した」と見出しをつけています。これは、6節の「キリスト・イエスによって共に復活させ」を見出しとしたものだとわかります。今日の箇所は、キリスト・イエスによる新しい命、新しく復活して生きるということについて書かれているようです。

いっぽう、注解書を見ると、また別の見出しになっています。NTDというドイツで出された注解書の日本語訳では、「かつてと今」という見出しがつけられ括弧して、「過去および救済の出来事」という副題がついています。キリスト者の生き方の過去と、救われたものとしての今ということでしょう。「現代聖書注解」というイギリスで出されたものの日本語訳では、「教会の物語―過去・現在・未来」と、このような見出しがついているのです。これはかなり踏み込んだ題のつけかたです。つまり、ここでは一人のキリスト者が、これまでの生き方を死んで、新しく生きるという、一個人の問題とするのではなく、「教会の物語」という題をつけることによって、教会とはこういうものだと言い表しているからです。

エフェソの信徒への手紙は、ところどころとても難しく書かれています。それは先ほどの空中に勢力を持つものといった言い方からもうかがえます。当時の宇宙観とか世界観というものを前提にして書かれているからです。そしてそのような大きな宇宙観をもって、1章20節以下に述べられています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」

つまり、空中に勢力を持つ罪の力にまさって、キリストが点においてすべての支配、権威、勢力、主権の上におられること、そのもとに、わたしたち教会があるということなのです。そして教会とは、このようなキリストのもとにあって、互いにひとつに結ばれ、和解によって生きる共同体であるというのが、エフェソの信徒への手紙の伝えるところです。そこで問題となるのは、一人の人間の罪とか、誰か一人の人が罪を犯したということよりも、食物網ということで申したように、わたしたちが互いに網として係りあっているそういうことから考えられる罪です。そしてその赦しもまた、ひとりの人間が赦されたということよりも、もっと人間社会全体の問題を含むとわたしは思います。

わたしは今日最初に、人間の罪について申し上げ、さらに話を戦争とか、ヴァイツゼッカー元大統領の言葉とかを申しあげました。それはつまり、罪ということを、個人の罪だけではなく、もっと広く考えたかったからです。「死から命へ」とか、「キリストと共に復活した」というだけでは、個人、ひとりの人間の生き方の問題と聞こえる可能性があります。でもエフェソの信徒への手紙は、もっと、「教会の物語―過去・現在・未来」とあったように、わたしたち人間社会全体のありかた、そして救われたものとしての教会のありかたを、大きな救いの歴史のなかで語っているのだと思います。

2章8節に、「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」と教えられています。このような神の賜物、大きな恵みをいただいたものとして、互いに和解し、赦しあい、助け合う、新しい網を作り上げていく、それが教会という共同体の使命として指し示されているのです。

(2005年5月22日 礼拝説教)