番町教会説教通信(全文)
2005年3月 「彼の受けた傷によってわたしたちは癒された」    
                                牧師 横野朝彦

マタイ27・15―26

今日は受難節第5の主日です。来週は棕梠の主日、いよいよ受難週に入ります。主イエス・キリストは逮捕され、最初にユダヤの議会であるサンヘドリンで裁判を受けます。そして続いてローマ総督ピラトのもとで尋問を受け、ついには死刑判決を受けます。このことについて書かれた聖書の箇所を読んでいますと、主イエスがいかに罪のないままに十字架につけられたかがよくわかります。そして、今日読んでいただいたマタイ27章にも、そのことがはっきりと書かれています。

ローマ総督ピラトは、主イエスについて、23節にあるように「いったいどんな悪事を働いたというのか」と言っています。また19節にあるように、ピラトの妻までが、「あの正しい人に関係しないでください」と言っています。別の翻訳を見ると、「あの正しい人にかかわりを持たないようにしてください」となっていました。ピラトの妻がなぜこんなことを言ったのか、それは夢見のせいだということですけれど、詳しくはわかりません。いずれにせよ、ここで明らかになっていることは、主イエスが無実の罪であったということです。

ところが、無実であるにもかかわらず、主イエスが釈放されることはありませんでした。代わりに釈放されたのは、バラバという名前の男でした。15節にあるように、「祭りの度ごとに、総督は民衆の希望する囚人を一人釈放することにしていた」という慣例があったようで、このことは歴史的な事実としては確認できないのですけれど、しかし悪名高いピラトが、民衆を懐柔するために、政治犯に恩赦を与えるというようなことは、十分あり得ることです。

さて、このようにして無実の罪で逮捕された主イエスが有罪判決を受け、いっぽう何らかの罪を犯したバラバが釈放されるのですが、このとき総督ピラトは、集まった人々に、「どちらを釈放してほしいのか」と尋ねています。17節、「ピラトは、人々が集まって来たときに言った。『どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか。』」

新共同訳聖書のこの言葉を読んで、おやっ、と思われるかたが多いのではないでしょうか。口語訳聖書を読むと、「それで、彼らが集まったとき、ピラトは言った、『おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか』。」となっています。ピラトは、「バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」と、質問をしています。ところが新共同訳では、「バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」となっているのです。この二つの翻訳の違いは、聖書が手書きで書き写されて後世に伝えられたもので、写本によって違いがあることからきています。そしてどうやらこの箇所はもともと、バラバという名前ではなく、バラバ・イエスという名前が書かれてあったというのが、聖書学の、これは本文批評と言いますが、どの写本がもっとも真正のものかという研究の結論のようです。

「バラバ」という名前の意味は、新共同訳聖書大辞典によれば、アラム語で、「アバの息子」なのだそうです。ですから、「バラバ・イエス」とは、「アバの息子イエス」ということになります。したがって、ローマ総督ピラトは人々に問いかけた、「バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」という言葉は、言い換えれば、「アバの息子イエスか、それともメシアと言われるイエスか」となるわけです。そして、主イエスの裁判という、まさに痛ましい場面でありますが、あえて言わせていただくならば、「アバの息子イエスか、それともメシアと言われるイエスか」という問いかけのほうが、ドラマの科白としては面白く、劇的な効果があるように思えます。

しかし言うまでもなく、ただ単にドラマチックな効果ということだけではありません。いくぶんわたしの主観的な読み方になりますが、このことは、メシア、つまりキリスト・イエスがバラバ・イエスの身代わりになって有罪となったことをよく表わしているのではないでしょうか。仮に、わたし横野が、大きな犯罪のために裁判にかけられ、今まさに有罪判決を受けようとしているとします。ところがそのとき裁判官が、「ここにもう一人横野という人間がいる、どちらをゆるしてほしいか」と突然に陪審員席に質問をしたようなものです。普通ならば、そんなことはありえない話なのですけれど、それが現実に起こったと、マタイ27章の、今日読んでいただいた箇所には書かれています。それはアバの息子イエスにとってみれば、まさしく驚くべき出来事であり、自分の身代わりになる人物が現われたということでした。

バラバというのはいったいどのような人だったのでしょうか。16節には、「そのころ、バラバ・イエスという評判の囚人がいた」と書かれています。評判の囚人とはなんなのか、よっぽど大きな事件を引き起こして、テレビや新聞で連日報道されるような、そんな人だったのでしょうか。マルコ15章には、「暴動のとき人殺しをして投獄されていた暴徒たちの中に、バラバという男がいた」と書かれています。いっぽう、ヨハネ18章には、「バラバは強盗であった」と書かれています。どちらが本当なのか、なんとも分かりません。単なるお金目的の強盗であったのか、あるいは、暴動といえば、ローマの属国であったユダの国にとってみれば、独立運動とか、民衆蜂起のようなことが想像されます、でも、本当のことは分かりません。ただ明らかなことは、彼が重大な犯罪人のひとりであり、有罪となり処刑されることが確実であったということです。

ところが、このように処刑されることが確実であったにもかかわらず、彼は不思議なことを聞くのです。それは、「ここにもうひとり、イエスというのがいる。「アバの息子イエスか、それともメシアと言われるイエスか、どちらを赦してほしいのか」という言葉でした。このとき彼は、まったく思いもかけない展開に驚き、自分が赦されるかも知れないということに信じられない思いをしたことでしょう。そして、アバの息子である自分の代わりに、メシアと呼ばれているイエスという人物が十字架刑に処せられようとしていることを、まさしく自分の身代わりと感じていたのではないでしょうか。今わたしがお話ししていることは、残念ながら幾分推測を交えています。けれども、聖書に書かれていることから、けっして離れてはいない、十分推測できる範囲のことをわたしとしては話しているつもりでいます。

わたしはバラバのことを考えるときに、預言者イザヤが語った言葉を思い起こします。それはイザヤ書52章から53章にかけて書かれている「主の僕の歌」、別名「苦難の僕の歌」です。これまでにも何度か引用しました。53章11―12節に次のように歌われています。「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った。・・・彼が自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった。」ここに、罪のないままに罪人のひとりに数えられた人のことが述べられていました。そしてこの人が罪を背負われたゆえに、本来罪人とされる人が赦され、執り成しを受けたというのです。

さらに、53章全体を見ると、この人、苦難の僕、主の僕と呼ばれる人が、罪を担われただけではなく、この世の痛みや苦しみのすべてを負われたことがわかります。2―3節をお読みします。「見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」

このイザヤの言葉は、紀元前6世紀に南王国ユダが滅び、人々がバビロンに連れていかれた、バビロン捕囚と呼ばれる苦難の体験をしてきた人たちのなかから生まれたメシア預言です。来るべき救い主は、人々の悲しみや苦しみを知らないかたではない、来るべき救い主はわたしたちの悲しみや苦しみを担ってくださるかただ、来るべき救い主はわたしたちの罪をも背負ってくださるかただという信仰の告白がここにあります。

そしてこの預言の成就として来られたのが主イエス・キリストであると、聖書は証しをしています。ルカ22章37節に、「言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」という主イエスの言葉があります。これは先ほど読んだイザヤ53章の「罪人のひとりに数えられたからだ」という言葉を引用されたものです。ペトロの裏切りを予告されたあと、オリーブ山で祈られた直前、とても緊迫した状況で、主イエスはこのように言われたのです。

また、マタイ8章14節以下に、イエスがシモン・ペトロのしゅうとめを癒す話があり、さらに悪霊に取りつかれた人を大勢癒され、病人を皆癒されたと書かれており、そのあとで次のように書かれています。マタイ8章17節、「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」

主イエスがなさった癒しのわざを思うときに、絶対的な力を持つ神の子が、超能力をもって人々を楽々と癒されたのでしょうか。わたしにはそうは思えません。そうではなく、主イエスご自身が、その痛みや苦しみ、病を担うことによって、奇跡は実現したのだと思います。ヘブライ人への手紙2章には、「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」と述べられています。主ご自身が苦しまれたのです。そこで思い出すのは、12年間出血の病を負っていた女性が、主イエスに後ろから触れたことによって癒されたという話です。主はご自分から力が出て行くのを感じたと、福音書には記録されています。不思議な奇跡物語で、説明がつきませんけれど、わたしがここから思うことは、主イエスはこのようにして人を癒し、自らの力をささげていかれたのだということです。いや、ささげるというような綺麗なことではなく、主がご自身の身を削っていかれたのではないでしょうか。そしてその行き着く先に十字架があったと思えてなりません。

そして、このようにご自身を十字架においやってまで、他の人の救いとなられた主イエスによって、まさに救われたうちの代表的な一人が、バラバと呼ばれるイエスだったのです。総督ピラトが、「どちらを釈放してほしいのか。バラバ・イエスか。それともメシアといわれるイエスか」と問うたとき、民衆は「バラバを」と叫びます。そしてピラトが、「では、メシアといわれているイエスの方は、どうしたらよいか」と言うと、皆は、「十字架につけろ」と言ったのでした。

このようにしてキリスト・イエスは有罪判決を受け、十字架につけられるために引き渡されます。そしていっぽう、アバの息子イエスは釈放されたのでした。バラバにしみれば、それこそ日本的なものの言い方ですが、キツネにつままれたという感じであっただろうと思います。

釈放され、キリスト・イエスが十字架に死なれるのをバラバは目撃します。そしてしばらくして、バラバは人々が次のような会話をしているのを聞くのです。「――メシアだったら、十字架から降りてきて、野郎共を皆殺しにした筈だよ! ――だまってはりつけにされるメシアって、そんなの聞いたことないよ! バラバは髭を大きい手に握りながら坐ったなりで、土間の床をみつめていた。そうだ。違うんだ、あの男はそうじゃないんだ。――おいバラバ、飲めよ、そんな仏頂面して坐ってないで、と仲間の一人は言ってバラバを小突いた。」 

バラバはなかなか陽気になれません。いったいあの、この俺の身代わりになって死んだイエスというのは、何者なのだろうという問いが、バラバの頭のなかを反芻していたからです。

 ラーゲルクヴィストという作家がいました。1891年に生まれたスウェーデンの人で、今から54年前、1951年にノーベル文学賞を受賞しています。そしてこの人がノーベル文学賞を受賞するにあたってもっとも注目された作品が、小説「バラバ」でした。わたしが今紹介した人々の会話やバラバの気持ちというのは、この小説「バラバ」の一節です。小説「バラバ」は、今から50年以上前のことですが、長年にわたりベストセラーとなりました。わたしが持っている日本語訳は、初版の出たのが1953年となっています。スウェーデンの小説がわずか2年後に日本語に翻訳されたというのは、よほど当時世界中で評判になったということだと思います。

わたしも若い頃に読んだもので、あまり覚えていないのですが、本を開いて、少し思い起こしてみました。救われたバラバは、十字架についたイエスがメシアであるという噂話に、それは本当だろうかという気持ちと、いやそうではないという気持ちが交差して自分で自分がわからなくなります。「仕舞いにはバラバも、自分が死ななかったこと、死んだのが自分でなかったことで頭のなかがすっかり変になってしまったのだ。勿論そうにきまっている。そうに違いない!」

それから長い年月を経ます。バラバは、奴隷の札を身につけています。彼はサハクという男と知り合いになります。サハクの札の裏側にはなにやらわけのわからない言葉が書かれています。バラバが、これはなんだと尋ねます。サハクによれば、これはギリシャ人の奴隷にもらったもので、自分の神さまの名前がほってあるのだと言うのです。彼はキリスト教徒でした。バラバは、それと同じ文字を自分の札にも刻みたいと言い出します。彼らにそのギリシャ語は読めませんでしたが、そこには「キリスト・イエス」と刻まれていたのでした。

その後、実にたくさんの出来事が起こりますけれど、最後のほうで、バラバは、ローマの町に放火したキリスト教徒たちのひとりとして逮捕されます。これはローマ皇帝ネロの時代、紀元64年のことです。ローマで起こった大火事を、皇帝ネロはキリスト教徒たちのせいにすることによって、民衆の不満が自分たちに向けられるのを避けたという実話です。小説のなかでバラバは、このとき逮捕された一人となっています。そしてついにバラバも磔になるのです。小説の最後にこう書かれています。「――お前さんに委せるよ。俺の魂を。 そして彼は息絶えた。」

強盗、あるいは暴動の主謀者の一人として処刑されるはずだったバラバは、キリスト・イエスの身代わりの死によって助けられ、生き延びます。そして小説によれば、それからおよそ30数年後、「お前さんに委せるよ。俺の魂を」と言って死んでいったのでした。小説では、結果としてバラバもまた十字架につけられてしまうのです。でも、同じ十字架の死であっても、強盗犯、殺人犯として死んでいくのと、「お前さんに委せるよ。俺の魂を」と言って死んでいくのと、そこには天地の開きがあるのではないでしょうか。「お前さんに委せるよ。俺の魂を」とは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と言われた十字架上の主イエスの言葉と同じです。

彼は、けっして理想的な信仰者になったわけではありません。自分の身代わりになって死んだ、自分と同じ名前のあの人はいったい何者なのだろうという問いを、ずっと持ちつづけて、悶々としていただけのようにも描かれていました。実はこの「お前さんに」というその相手が誰なのかも、いくぶん曖昧です。それは小説の手法なのかも知れません。でも、そんな彼を主は救われ、神さまの御許へと召してくださったのです。

これは、小説家の空想でしょうか。確かにストーリーとしては想像の産物かも知れません。しかし、間違いなく言えることは、主イエスの十字架が、「彼が担ったのはわたしたちの病 彼が負ったのはわたしたちの痛みであった・・・彼の受けた懲らしめによって わたしたちに平和が与えられ 彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」というイザヤの預言の成就であったということです。

(2005年3月13日 礼拝説教)