番町教会説教通信(全文)
2005年2月 「わたしを憐れんでください」        牧師 横野朝彦

マタイ15・21―28

先ほどご一緒に、讃美歌32番を歌いました。曲の上には、小さな字で「礼拝・キリエ」という見出しがあり、その下に曲名として「キリエ・エレイソン」と書かれています。キリエ・エレイソンとは、新約聖書の原語であるギリシャ語で、「主よ、憐れんでください」という意味です。讃美歌にはそれぞれ曲の右下に、関連する聖書の箇所が小さな文字で書かれていますが、32番の右下には、マタイ15・22、20・30―31とあります。15・22は、今日読んでいただいた箇所で、カナンの一人の女性が口にした言葉です。彼女は、娘の病気を治してほしいと願い、主イエスに向かって叫んだのでした。20・30―31は、エリコの町を出たところで目の見えない人が二人いて、彼らがカナンの女性と同じように、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだというところです。カナンの女性もエリコの町の盲人も、いずれも「主よ、憐れんでください」と叫んだのです。

聖書には、他にも「主よ、憐れんでください」という叫ぶ人々の姿が描かれています。マタイ17章では、一人の父親が、「主よ、息子を憐れんでください」と頼んでいます。また旧約聖書にも、たとえば詩編31に、「主よ、憐れんでください わたしは苦しんでいます。目も、魂も、はらわたも 苦悩のゆえに衰えていきます」と歌われています。詩編86には、「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。・・あなたはわたしの神 わたしはあなたに依り頼む者。主よ、憐れんでください。」ほかにも同様の言葉が、詩編やイザヤ書に、たくさん出てきます。旧約聖書はもともとはヘブライ語で書かれていますけれど、広く流布していたのは一般に70人訳と呼ばれるギリシャ語聖書でしたから、キリエ・エレイソンという言葉は、旧約聖書に親しむ人々にとっても馴染み深いものであったと思われます。

そしてこの言葉は、ただ単にカナンの女性が叫んだとか、旧約聖書にもあるというに留まらず、キリスト教の信仰や礼拝にとってとても大切な言葉となりました。讃美歌21では、30番から35番までが「キリエ」となっています。ほかにもクリスマスの讃美歌273番、305番、レントの讃美歌の316番で、キリエ・エレイソンと歌われています。わたし自身は、讃美歌第2篇の124番に、「マリアは歩みぬ、キリエ・エレイソン」と歌われていたのが、心に染み付いています。カトリック教会では、キリエは重要なミサの一部です。日本のカトリック教会ではこれを「あわれみの賛歌」と呼び、典礼聖歌の重要な曲となっています。

バッハやシューベルトなど、有名な作曲家がミサ曲を作っていますが、もともとミサ曲というのはミサの式文に基づいて作られたもので、いわばミサそのものと言えなくもありません。ちなみにバッハのミサ曲の順番を言うと、曲全体の最初に、「主よ、憐れみたまえ」と合唱され、次に二重唱があり、もう一度合唱があります。このように、最初にキリエ、次にグローリア、次にクレド、サンクトゥス、アニュス・デイと続きます。キリエはあわれみの賛歌、グローリアは栄光の賛歌、クレドは信仰告白、サンクトゥスは感謝の賛歌、アニュス・デイは神の小羊という意味ですが、平和の賛歌と呼ばれています。キリエというのが、典礼上の、つまり礼拝構成上の重要な位置にあることがわかると思います。

リマ式文と呼ばれるキリスト教の歴史上大変重要なものがあります。1982年にペルーのリマでこの式文にしたがって礼拝がおこなわれたのが最初で、そのためにリマ式文と呼ばれています。これはたくさんに分かれているキリスト教の教派が一つになって作った礼拝順序です。しかもこの作成作業には、プロテスタントだけでなく、カトリックも加わっています。カトリックとプロテスタントが一緒に作った礼拝順序なのです。この式文の順序の第5番目に「キリエ」があります。さらに、第16番目に「とりなしの祈り」というのがあります。司式者が、「わたしたちの父なる神、御ひとり子イエス・キリスト、そして聖なるみ霊に、信仰をもっていま共に祈りをささげましょう」と言います。これを受けて会衆が「キリエ・エレイソン」と言います。「世にあるすべての神の教会のために、聖霊が豊かにあたえられますように祈りましょう。」「キリエ・エレイソン。」「すべての国々の指導者が、正義と平和の道を見出し、それを守ることができますように、神の知恵を祈り求めましょう。」「キリエ・エレイソン。」「抑圧され、暴力におびやかされている人びとのために、そこから解放してくださる御力があたえられますように祈りましょう。」「キリエ・エレイソン。」このように、司式者が述べて、会衆が「キリエ・エレイソン」と応えていくのです。式文ではこのあとまだ4つの言葉が語られ、キリエ・エレイソンが繰り返されます。

キリエ・エレイソンという言葉が、ミサのなかで、礼拝のなかで、いかに重要な言葉として用いられてきたか、わたしたちの信仰にとってこれがいかに重要な言葉であるかを感じていただけたと思います。

朝倉卓弥さんというかたが書いた「四日間の奇蹟」という小説があります。第1回「このミステリーがすごい!」大賞の金賞受賞作ということで、今も本屋さんには目立つところに積まれています。わたしは昨年の春頃に、本屋さんで見つけ、「癒しと再生のファンタジー」という説明文句に惹かれて読みました。ある事件のために指を一本失ったピアニストと、脳に障害を負う少女の物語です。詳しい筋書きは申しませんが、ある出来事をきっかけに、指を失ったピアニストも、脳に障害を負う少女も、新しい道を歩み始めるという話です。そしてこの物語のなかでわたしが印象に残ったのは、舞台となっている病院に、礼拝堂としか思えない建物があり、毎朝患者さんたちが一列になってそこへ歩いていくこと、それはまさに巡礼者の姿として描かれていました。そしてもう一つ印象的だったこと、それは物語の最終章で、主人公が喫茶店にいたときのことです。喫茶店に流れている音楽が、何かわからない言葉を繰り返しています。「生きていくのは僕ら自身である。では僕らを生かしているのはいったい誰なのか。答えのあるはずのないその問いを心に浮かぶに任せながら、僕はその音に耳を傾けた。キリエ・エ・レイ・ゾン――。そう聞こえるその言葉が誰に向けて放たれたものなのか、不思議にはっきりとわかる気がした。」

わたしたちは誰も、多くの重荷を背負っています。多くの、そして大きな重荷を背負って生きています。個人的な重荷があります。社会的な重荷があります。あるいは罪というような人間の存在にかかわる重荷があります。カナンの女性は娘の病気を治して欲しいと、「主よ、憐れんでください」と叫びました。エリコ城外で目の見えない人たちが同じ言葉を叫びました。また別の場所で、一人の父親が息子の病気を治してほしいと、同じ言葉を叫びました。それらは個人的な重荷なのかも知れません。

先週、アウシュビッツ解放60年にあたり、記念式典がおこなわれたと報道されていました。大虐殺によって600万人が殺され、アウシュビッツでは150万人が殺されたと言われています。この大虐殺のことを、ユダヤの人々はショアーと言います。ショアーとはヘブライ語で絶滅を意味します。これまでこのことはホロコーストと呼ばれてきましたが、ホロコーストとはもともと聖書に出てくる「焼き尽くすささげもの」のことです、大虐殺を表わすのに適切な言葉ではないと言われています。ショアーは、これまで歴史のなかで繰り返されてきました。殺された人の悲しみはもちろんですが、人間がこのようなことを実行できるということを考えるだけで、心が震える思いがします。そして思うのです。「主よ、憐れんでください」と言う以外に、わたしたちにどのような言葉が残されているだろうかと。

スマトラ島沖地震とそれによるインド洋大津波の犠牲者は30万人。この数の大きさに驚き、恐れます。大変な人数に驚きますが、けれども大きな数というのはわたしたちの感覚を麻痺させるようなところがあります。一人一人の、大変な悲しみが30万も積み重なっているということを思うとき、わたしたちは「キリエ・エレイソン」と叫ぶ以外にどのような言葉があるでしょうか。

カナンの女性もまた「キリエ・エレイソン」と叫びました。娘さんが悪霊につかれてひどく苦しめられているというのです。それがどのようなものかは分かりません。精神的な病だったのでしょうか。あるいは病名さえわからない難病だったのでしょうか。治すすべもなく、頼るあてもなく、彼女はまったく出口なしの状態であったに違いありません。ところがそんなあるとき、イエスというかたが来られた、そのかたは福音を語り、病める人を癒しているといううわさを聞いたのです。彼女はさっそくイエスに会いに出かけていきます。そして叫んだのでした。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」この女性が叫んだ言葉は、先に紹介したように、旧約聖書の昔から言い伝えられていた言葉をこの女性もまた叫んだということでしょうか。「主よ、わたしに耳を傾け、答えてください。・・あなたはわたしの神 わたしはあなたに依り頼む者。主よ、憐れんでください」という詩編の言葉を思い起こします。でも、この物語の冒頭にあるように、この女性はティルスとシドンの地方の出身であり、カナン人でした。ひとことで言えば、聖書や神さまを知らない異邦人ということです。そんな彼女が「キリエ・エレイソン」と叫んだことは、この叫び声が、ユダヤ教とか旧約聖書という枠を超えた、人類共通の叫びだということを示しています。

キリエ・エレイソンが、新約においても旧約においても、重要な言葉であり、叫びであるように、主がわたしたちを憐れんでくださるということは、聖書全体の重要なメッセージであり、叫ぶ者に対する応え、応答です。申命記4章には次のように書かれています。「あなたの神、主は憐れみ深い神であり、あなたを見捨てることも滅ぼすことも、あなたの先祖に誓われた契約を忘れられることもないからである。」詩篇103には、「主は憐れみ深く、恵みに富み 忍耐強く、慈しみは大きい」と書かれています。主は憐れみ深い。聖書はこのことを何度も語っています。そして、主イエス・キリストは、まさに神さまの憐れみをわたしたちに身をもってあらわしてくださいました。マタイ9章には次のように書かれています。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」あるいは、マルコ6章で、これは5000人の給食の場面ですけれど、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」と報告されています。以上のように、主は憐れみ深く、恵み深いことが、カナンの女性にも伝わっていたのでしょうか。彼女は自分の娘を助けてくださいと、大きく叫んだのでした。

以上のように、キリエ・エレイソンということ、そして主は憐れみ深いかたであることをお話ししてきました。でも、今日読んでいただいた箇所は、それだけではすまない難しさというか、わかりにくさがあります。それは読んでいただいておわかりのように、主イエスが返された言葉に、なんとも理解しがたいものがあるからです。まず、女性が「キリエ・エレイソン」と叫んで近づいたときに、主は何もお答えにならなかったとあります。これはどうしてなのでしょうか。彼女はしつこく叫び、頼み続けます。そのとき、主イエスの弟子たちは「この女を追い払ってください」と言い、邪魔者扱いをします。するとそこで主イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と、なんとも突き放した返答をされるのです。そればかりではありません。主イエスは続けて、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言っておられます。これではまったく拒絶にしか聞こえません。どういうことでしょうか。もっとやさしく彼女の願いを受けとめ、助けてあげられなかったのでしょうか。

この箇所は、実際かなり難しいところです。そしてここには福音書記者マタイの考え方が強く入っています。というのは、この物語はマルコによる福音書7章に並行記事があり、物語としてはマルコのほうが古いのですけれど、そこには「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」という言葉はありません。これが主イエスの真正の言葉なのか、マタイが付け加えたのかはわかりませんが、ここには、キリストがユダヤの王として来られたという理解が強く出ています。これは、マタイがユダヤ人キリスト者を対象に福音書を書き、キリストの来られたことが旧約聖書の預言の成就であるということを繰り返し言っていることと合致します。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」という言葉にも、マルコとの違いがあります。マルコでは、「まず子どもたちに」となっており、福音がユダヤから始まり、異邦に伝わることが述べられています。マタイはそれを「まず」という言葉を省略してしまったのです。それから、当時の人びとが異邦人のことを「犬」と言って蔑んでいたことは、フィリピの信徒への手紙からもわかりますが、主イエスが言われたのは、同じ犬でありながら、別の単語でして、むしろ愛玩動物としての小犬です。

そしてそもそも今日の話の舞台が、ティルスとシドンという、異邦人の土地であったことを忘れてはなりません。主イエスは、異邦人の土地に福音を伝えに行かれたのです。福音宣教を使命とした主イエスが、福音を伝えること以外の目的で、たまたま異邦人の土地に行ったなどありえません。それゆえ、この物語は主イエスが異邦人の土地に行って一人の女性の叫びを聞き入れられた出来事をもとにしながら、ユダヤ人キリスト者を中心としたマタイの教会において若干の脚色が加えられたものだと思います。

今日の物語はこのような難しさを抱えています。にもかかわらず、マタイの思想や理解をはるかに超えて、福音が異邦人に伝わっていく様子がありありと描かれています。この物語のなかでひとつクローズアップされていることは、カナンの女性の熱心な求めです。弟子たちが彼女を邪魔だと思ったくらいに、彼女は熱心に求め、叫び、ついていきます。それはまさに、「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」の実践です。あるいはルカ11章で、夜中にパンを求めて戸を叩く人の譬が語られているように、熱心に祈り求めることを彼女は実行したのです。

また、小犬の話に対しても、彼女は、「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と言います。聖餐式のときの讃美歌77番に、「パンくずさえ拾うにも、値せぬ者なれど」と歌われています。彼女は自分が異邦人であり、救いをいただくにふさわしい人間でないことを知っていました。そのことを知りつつ、小犬という言葉を受けとめて、パン屑はいただきますという機知に富んだ答えをしたのです。考えてみれば、救いを受けるに値する人間がいるとすれば、別に求めることも、叫ぶこともないでしょう。彼女が叫びながらついて行ったのは、まさしく値せぬ自分を知っていたからです。値せぬ自分を知っているからこそ、「主よ、憐れんでください」と叫ばずにおれなかったのです。彼女が最初に叫んだとき、主イエスは何も答えられませんでした。このことは、この女性の悩み苦しみをぜんぶわが身に引き受けるための沈黙だったと思えてなりません。

そして最後に、主イエスは、「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と言われたのです。わたしたちは誰も、「主よ、憐れんでください」と叫ばずにおれない存在です。そしてこの叫びを心の底から主に向かって叫ぶとき、主はそれを聞いてくださるのです。ルカ1章に書かれているマリアの賛歌には、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と歌われています。

(2005年 1月30日 礼拝説教)