番町教会説教通信(全文)
2005年11月 「カインとアベル」              牧師 横野朝彦

創世記4・1―10

先週の礼拝のあと、午後の集いで教会暦についての学びをしました。日本基督教団の教会暦では、先週から降誕前節という季節に入っています。先週は降誕前第9主日、今日は降誕前第8主日です。この、降誕前というのは今から25年ほどまえに「新しい教会暦」が発表されてのちに生まれたものです。先週は、教会暦についてお話をし、特にこの降誕前という考え方について紹介をしました。以前には、クリスマスの前には待降節という4週間があるだけでしたが、降誕前にはそれにさらに5週間が加えられています。そしてこの5週間は、待降節の前の段階として、旧約聖書における神さまの約束ということに焦点が当てられています。聖書日課を見ると、先週主題として「創造」、今週は「堕落」、来週は「神の民の選び」、続けて「救いの約束」、「王の職務」というように、旧約聖書の歴史の重要なテーマが取り上げられています。

今日の箇所は「堕落」であり、そこで読まれるべき聖書の箇所として、創世記4章1―10節が指示されています。ここには、アダムとエバの最初の子であるカイン、そして弟であるアベルの誕生について書かれています。ところが彼らが成長し、大人になったとき、カインは弟アベルに激しい妬みの心をおこし、遂に彼は弟を殺害してしまいます。人類最初の殺人事件というべき、大変な出来事です。まさしく神さまによって創造された人間が堕落する恐ろしい姿が描かれています。この物語は、そのスキャンダラスさのゆえに人々の興味を集めてきました。

本屋さんで、「カイン」というタイトルの小説を見たことがあります。わたしの趣味に合わないSF作品でしたが、殺人者としてのカインが物語の背景にあるようです。また、ジェフェリー・アーチャーという作家の小説で「ケインとアベル」という本が翻訳で出ています。わたしは読んでいないのですが、裕福な家に育ったケインと貧しい家に育ったアベルとが、互いに憎しみ対立をしながら、しかし同時に知らないところで互いに支えあっているといった内容だと聞きました。これも創世記4章の物語を素材として生まれた小説です。

それよりも有名なのは、ジェームス・ディーンが主演した映画「エデンの東」です。これは、ジョン・スタインヴェックがカインとアベルの物語をもとに書いた小説です。実のところこれもわたしは読んでいませんし、映画も見ていないので、知ったようなことは言えないのですけれど、アロンとキャルという兄弟の物語です。父親の名前はアダムです。父アダムは真面目で優秀なアロンを可愛がり、暴れん坊で反抗的なキャルには手を焼いています。そんなある時、アダムの誕生日、アロンは自分が婚約をしたと父に告げます。父アダムは「何よりの贈り物だ。おめでとう!」と答えます。ところがキャルが、大豆の取引で儲けたお金を誕生日祝いに差し出したところ、父は怒り出すのです。戦争のために大豆の値段が上がったことで儲けた、つまり戦争で儲けたというのが気にいらなかったのでした。実際にはそれ以前からキャルには手を焼いていたという、兄と弟への愛情の偏りがあったからなのでしょう。

創世記によれば、カインが土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となりました。そしてカインは土の実り、つまりは畑から取れた作物を神さまに献げます。いっぽうアベルは羊の群れのなかから肥えた初子を持ってきて献げます。ところがどういうことでしょうか、4節、5節によれば、「主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかった」というのです。これはこの物語を読むわたしたちを戸惑わせます。まさしく「エデンの東」で描かれているように、父親の偏愛、ここでは神さまの偏った顧みを感じさせられるからです。こういう偏りがあったからこそ、カインはアベルを妬むようになり、ついには殺人さえ犯してしまったと考えられなくもありません。

この物語はいろいろなことを考えさせてくれます。ひとつは、兄弟間の確執とか、心理的な葛藤について。わたしたちの社会では、幼い頃は仲の良い兄弟姉妹であっても、ちょっとしたきっかけで口もきかない関係に陥ることがあります。夏前でしたか、相撲界の兄弟のことがテレビや週刊誌でまさに興味本位に取り上げられていましたが、あのようなことは残念ながら特別な例ではないのだと思います。これは創世記だけでみても、エサウとヤコブの物語にしても、ヨセフと兄弟たちの物語にしても、皆兄弟間の確執です。もっと後の時代、ダビデ王の子たちはカインとアベルと比較にならないような殺し合いをしています。長男アムノンはアブサロムによって殺害され、王位継承権を持っていたアドニヤはソロモンによって殺害されています。王の位を継ぐということで、兄弟間の血みどろの出来事が起こるのです。なんとも恐ろしい話です。カインとアベルの話は、残念ながら特別に珍しい話なのではありませんでした。

ところで、神さまはなぜカインの献げ物を顧みられなかったのでしょうか。なぜアベルの献げ物は顧みられたのでしょうか。昔から人々は色々な理由を想像してきました。「エデンの東」の物語のように、かたや婚約を伝えるということを贈り物にするのと、戦争のおかげで儲けたものを贈り物にするのとでは違うというのも、ひとつの解釈です。その献げ物において、アベルのほうがカインに勝っていたという理解があります。ヘブライ人への手紙の著者は、そのような理解をしています。ヘブライ11章4節に、「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ、その信仰によって、正しい者であると証明されました」と書かれています。これが当時の人々の多くがしていた理解なのかも知れません。でも、旧約聖書を読む限り、どちらが勝っていたなどとは書かれていません。あるいは、アベルは心から献げたけれども、カインはそうではなかったと解釈もあります。アベルの献げた羊が肥えた初子であったことから、彼は最上のものを献げたというのです。でも、これもまた合理的に説明しようとしただけのことです。

結論を言えば、これはおそらく古代イスラエル民族が遊牧民であったことと関係があると思われます。ヘブライ書にも、わたしたちは「この世にては旅人」と書かれていますし、わたしたちはそもそも寄留の民であるという思想が聖書にはあります。それに対して、農耕をするということは定住することですから、こういった彼らの生活から出た考え方が、この物語にも反映していると考えるのが自然です。

しかしわたしには、なぜ顧みられたのか、なぜ顧みられなかったのかとこれ以上に詮索することはあまり意味がないと思えます。実際のところ分からないというのがひとつの理由です。それとともにわたしが思うのは、そもそも作物の実りにしても、羊に初子にしてみても、カインが作り出したものでもアベルが作り出したものでもないはずです。すべては神さまが与えてくださった恵みであるはずです。収穫感謝でわたしたちが感謝するのは、自分たちの労働の成果を誇るためではなく、与えられた恵みへの感謝です。わたしたちが教会で献げ物をするのは、与えられた恵みの一部をお返しするのであって、自分を誇るためではありません。ましてや、あなたはこれだけの献げ物をしたので偉かったと言ってもらうためではありません。見返りを求めないで献げる、だから献げ物なわけです。

今日の話でも、アベルは献げ物を神さまに顧みてもらって喜んだなどとは書かれていません。それでは献げ物にならないからです。ところがいっぽうカインは自分のものが顧みられなかったと、激しく怒り顔をふせている。つまり、問題は、なぜ顧みたのか、なぜ顧みなかったのかではなく、顧みを求めてしまう人間の問題が明らかにされているのではないでしょうか。

そしてそのように、顧みを求めたカインは、自分を他者と比較し、いや他者どころか、共に育ってきたはずの兄弟に対してまで憎しみの心をいだいてしまいます。神さまはこのようなカインに対して言われます。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。」この言葉は、カインがこれから罪を犯すことを予告したものです。そしてまさにこの予告のとおり、カインは弟アベルの命を奪ってしまったのです。このあとカインは、13節で「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と言っています。人を殺めた者が、逆に自分は殺されると恐怖におののいています。力を持った者は、自分の力の奪われるのを極端に恐れるものです。カインもそのような道筋をたどりました。

今日のこの物語は、神さまの選びがどちら側にあったというような話ではありません。それが主眼ではないのです。その証拠に、この話を続けて読んでいくと、主人公はカインのほうであることがわかります。アベルについては最初に出てきて、すぐに命を落として、そのあとは何も触れられていません。ではカインが主人公であるとはどういうことか。わたしはつまり、この物語が言おうとしていることは、人間がいかに罪深いものであるかということだと思います。

そこで考えてみたいことは、アダムとエバが神さまから食べてはいけないと禁じられた木の実を食べ、罪を犯したという創世記3章の話です。あの話は、3章4節で、蛇が「それを食べると、目が開け、神のようになる」と言った言葉にその意味がよくあらわれていまして、つまり、神さまは人間に自由を与えられたのだけれども、神のようになってはならないということにその意味があります。自分を絶対化させてはならない、他者を支配してはいけない、思い上がってはいけない、そうすれば、神さまと人間との関係は断ち切られるだろう、そうすれば、人間と人間との関係は断ち切られるだろう、それが罪なのだと、創世記3章はこのように語っています。

カインとアベルの物語は実はこれに大変よく似ているのです。そもそも、アダムとエバが罪を犯した結果、どうなったかと言えば、3章の終わりに書かれていますように、彼らは楽園を追放されてしまいます。いわゆる失楽園です。そして彼らが行った先が、エデンの東でした。今日の話は、このようにエデンの東でおこった出来事です。そしてこの出来事のなかにも、アダムとエバの話を思い起こさせる言葉遣いがいくつもあります。

アダムとエバが禁断の実を食べたあと、神さまがやってこられ、彼らは思わず体を隠します。すると神さまは言われるのです。3章9節、「どこにいるのか。」これは4章9節の「お前の弟、アベルはどこにいるのか」と共通しています。神さまはエバに対して言われます。「何ということをしたのか。」4章10節でも神さまはカインに対して言われます。「何ということをしたのか。」3章17節では厳しい裁きの言葉があります。「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。」4章11節では、「今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。」共通点はまだまだ続きます。3章18節では、「土は茨とあざみを生えいでさせる」と大地の不毛が述べられ、4章12節でも、「土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない」と言われます。そしてアダムとエバは楽園から追放されエデンの東に行きます。カインもまたその土地から追放されます。4章12節で「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」と言われ、16節を見ると、「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」ということです。エデンの東からそれよりもさらに東に行ったことになりますが、このあたり創世記は3章でエデンの東に行ったと書いたことを忘れたかのように、再びエデンの東に行ったと述べています。ようするに、ここでも再び失楽園が起こったということです。

以上のように、アダムとエバの物語も、カインとアベルの物語も、共通して人間の罪について述べられています。それはお話をしたように、人間が神のようになってはいけないのだということです。カインはまさに絶対者となり、支配者となり、兄弟の命さえ奪ってしまったのでした。アダムとエバの話も、カインとアベルの話も、これらはヤハウィストと呼ばれる、信仰者の集団といいましょうか、が書き残した物語です。

ヤハウィストは、原因物語に関心があります。人はなぜ男と女がいるのか、なぜ女は産みの苦しみをするのか、なぜ人間は労働をしても報われないのか、そういったことを、神話的な物語をとおして語ろうとします。そしてヤハウェストはそれらの問いに対して、人間が自分を絶対化したからだ、自分を他者の支配者にしたからだとと答えるのです。ヤハウィストがこれらの文書を書き残したのはいつ頃のことだと思われるでしょうか。学説によっていくぶん違いがありますが、ほぼ間違いなく、これはソロモン王朝時代に書かれたと考えられます。つまり、長男アムノンはアブサロムによって殺害され、王位継承権を持っていたアドニヤはソロモンによって殺害されという兄弟殺しのあった時代、ソロモンは金の装飾でまばゆいばかりの宮殿を建て、宮殿は神殿よりもはるかに立派であったというあの時代、それだけ弱者は顧みられなかっただろうというあの時代に、ヤハウィストはカインとアベルの物語を書いたのです。

そのことがわかれば、これはまさしく今のわたしたちの社会の問題であり、今のわたしたちに語られている物語であることがわかります。今の社会、勝ち組み、負け組みという言葉が象徴するように、ますます弱肉強食の時代になっています。弱者はますます弱くされています。そして地球温暖化による異常気象、作物だけでなく、海にまで巨大なくらげが発生をして、漁師たちに被害を与えています。「もはやお前のために作物を産み出すことはない」と言ったヤハウィストは、今の時代をどのように書き表すことでしょうか。

以上のように、今日の物語が神さまがアベルを選んだとかカインを選ばなかったというような話ではなく、人間の罪について述べた話だと申し上げました。しかしわたしはまだ大事なことを申しておりません。それは、カインが追放され、「わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう」と恐怖心を述べたとき、神さまは、いやそうではないと言われます。そして15節後半、「主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた」のでした。これはどういうことでしょうか。カインが罪人だというしるしをつけたのではありません。そうではなく、あなたは罪を犯したが、それであなたが他の人から殺められてよいわけではないという、神さまの守りのしるしでした。

これとまったく同じことが3章21節でもおこっています。楽園を追放されるアダムとエバに、神さまは「皮の衣を作って着せられた」と書かれています。罪をおかし、いちじくの葉で前を覆っていた彼らに、神さまが衣服を与えられたのでした。これもまた神さまの守りのしるしというべきでしょう。

創世記は、人間の罪について語ります。弱者が虐げられ、作物が実らない現実を語ります。しかし同時に、このような罪深い人間に対して与えられている神さまの守りを語るのです。この話は、創世記のなかでさらにノアの洪水物語へと続いていきます。6章を読むと、「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧に」なったと記されています。その結果洪水がおこります。しかし神に従う無垢な人であったノアとその家族、動物たちが救われたという話でした。ここでいう無垢とは道徳的に良い人だったという意味ではありません。そうではなく、常に神さまと向き合い、神さまとの関係のなかで生きた人だという意味です。アダムとエバの物語も、カインとアベルの物語も、このように、神さまと向き合い、神さまとの関係のなかで生きるようにと、わたしたちに教え、促してくれています。罪深いわたしたちではありますが、神を敬い、人を愛して生きなさいと促されています。そのために、アダムとエバには衣が、カインにはしるしが与えられたのでした。

(2005年10月30日 礼拝説教)