番町教会説教通信(全文)
2005年10月 「すべては預かりもの」           牧師 横野朝彦

マタイ25・14―30

タレントという言葉は、いっぱんに芸能人をあらわすのでしょうか。俳優さんや歌手などもタレントです。でも、最近では俳優は俳優、歌手は歌手で、タレントとは芸能全般をあらわすよりは、テレビのバラエティ番組をにぎわしている人たちのことをさしているように思えます。バラエティ番組などをたまに見ると、つまらないものが多いと思いますけれど、でも、タレントさんのなかでも長く活動をしている人たちは、本当に才能豊かで、それこそ芸達者な人がおられ、感心をさせられます。

このタレントという言葉は、ご存知のかたが多いと思いますが、聖書から来ています。英語の辞書でtalentをひいてみますと、?才能、素質、?才能ある人、タレント、芸能人、?古代の重量・貨幣単位、と書かれていました。そして?の解説として、もとはギリシャ語タラントンから来ており、聖書の物語において、「才能」に応じてタレント(貨幣)を分配したことから、と説明されていました。

今日お読みいただいた聖書の譬話で、主人が旅に出るにあたり、僕たちに自分の財産を預けます。1人には5タラントン、1人には2タラントン、もう1人には1タラントンを預けて旅に出かけたのでした。この譬話が語源となって、英語のtalent、才能という意味の言葉が生まれたのです。

5タラントン預かった人は、それをもとに商売をして、ほかに5タラントンをもうけます。2タラントン預かった人も、ほかに2タラントンをもうけます。倍にしてしまうのですから、なかなかたいしたものです。ところが、もうひとり、1タラントン預かった人がいたのですが、この人は、穴を掘って、主人の金を隠しておきます。世の中にはタンス預金というのをする人もいますし、また今でもときどき地面を掘っていると瓶に入った古銭が出てきたというのがありますから、穴を掘って隠すというのは、けっしておかしなことではなく、この人なりに考えた貯蓄方法だったのかもしれません。

しかし、主人が帰ってきたときに、5タラントンを倍の10タラントンにした人や、2タラントンを倍の4タラントンにした人はほめられるのですが、1タラントンを土のに埋めていた人は、厳しく叱られます。いや叱られるどころではありません。30節には「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ」とあります。なんとも恐ろしい話です。

この譬話は、これまで多くは次のように読まれてきました。つまり、人にはそれぞれ賜物に従って才能が与えられている。それを生かして用いることが大事だ。有能に用いればそれは倍にもなる、にもかかわらず、それを使わずに土のなかに埋めていてはならない、と。これはまったくそのとおりです。

わたしたちは、他の人の才能を見てうらやみます。わたしなど、誰かと話をしていて、賢い人だなぁとうらやむことがしばしばです。頭のよさだけでなく、美人、美男子というのもその人に与えられた賜物なのでしょうか。これまたうらやむことしばしばです。そうかと思えば、いわゆる芸能人たちが、芸能活動だけでもすごい才能だと思うのに、絵を描いて個展を開いているような人が何人もいます。音楽の得意な人、スポーツの得意な人、自分で小説を書くような人、みんなうらやましいかぎりです。

そして、自分はあのような才能がないと思っている人であっても、実は、何かの才能が与えられているのだと思います。「こどもと共にきく日曜の福音」という、子どもたちにお話をするための例話集を開いてみましたら、これは松浦謙というカトリックの神父が書かれた本ですけれど、「神さまを信じて祈る心をもっていることも、わたしたちに与えられたすばらしいタレントです」と書かれていました。これもそのとおりなのだと思います。自分には才能がない、タレントなどない、あれができない、これができないと考えてしまいがちですけれど、実は、わたしたちにはたとえ小さくても、それぞれ何かしらタレントが与えられているのだと思います。他の人の5タラントン、2タラントンに比べれば、それよりはずっと少ない1タラントンかも知れません。でも、神さまは1タラントンをわたしに、わたしたちに預けてくださっているのです。

5と2と1と比較すれば、1は少ないです。でも、ここで押さえておきたいことは、タラントンという貨幣単位がわたしたちの日常の感覚をかけ離れるくらいに高額だということです。本田哲郎神父はこの箇所を、5億円、2億円、1億円と翻訳しておられます。実際1タラントンでおおよそ20年分の収入と考えられていまして、年収500万円として20年で1億円です。このあたり、現実の貨幣価値と比べてみて、1億円より多いかも知れませんし、あるいはそれより少ないかも知れませんが、どちらにしても半端な金額ではありません。

あの人は5タラントンもあっていいなあ、あの人は2タラントンもあっていいなあ、自分は1タラントンしかない、そうではないのです。たった1タラントンという人であっても、それは20年間の収入に価するのです。わたしたちには一人ひとりなんらかのタレントが与えられており、しかもそれは自分で思っている以上に大きなものなのです。

いくら譬話であっても、主イエスが貨幣単位を適当に用いて語られたとは思えません。1デナリオンがだいたい一日の報酬だろうと考えられていますから、たとえば、500デナリオン、200デナリオン、100デナリオンという金額で話をされてもよかったはずです。にもかかわらず、5タラントン、2タラントン、1タラントンと譬えたのは、わたしたちが神さまからいただいている才能、タレントが、たとえ少ないように見える人であっても、実はとても大きいものだということを表わしているのではないでしょうか。

松浦さんの本には、この譬話を子どもたちに語るときのお話の例として、ルイス・ブライユというフランス人のことが紹介されていました。ブライユさんは3歳のときに事故で怪我をし、両方の目が見えなくなってしまいます。彼は盲学校で勉強をします。でも、文字を読むことはできません。そこで、針を使って丈夫な紙の上に文字を刻み、それを指で触れることによって文章を読み取る工夫をしたのでした。それ以前にも点字の原型となるようなものはあったようですが、彼がほぼ現在の点字を作り上げました。1829年のことです。そしてブライユさんは、13歳の時から初めて、15歳でこれを完成させたのでした。

目が見えないということを思えば、これから先なにも出来なくなるほどの悲しみを味わうことだと思います。でも、学問で、音楽で、そのほか多くの分野で、目の見えないかたが素晴らしい才能を発揮しておられます。わたしなど、とてもかなわない、足もとにも及ばないほどの才能でもって活躍している人がたくさんおられます。自分には1タラントンしかないと思えても、それでも実は1億円もするほどの大きなタレントがわたしたちには与えられているのです。

そのことを思えば、5タラントン、2タラントン、1タラントンというのは、才能の多い少ない、5が多くて1が少ないという問題ではなく、むしろ人それぞれが持っている個性の違いであったり、才能の種類の違いだと思えます。パウロは、第一コリント12章で、神は人にそれぞれ異なった賜物を与えられたと述べ、教会のなかにも、預言をする者、教える者、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者など、さまざまな違いがあるのだと述べています。皆が同じ賜物を持っているのではなく、違う賜物を持っている、しかもそれは、その人自身の持ち物ではなく、神さまから賜ったものです。いや、賜ったというよりは、むしろ今日の譬話にあるように、それは神さまからの預りものだと思います。

聖書のほかの箇所にも、例えばペトロの第一の手紙には、「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」とあります。わたしたちは神さまから与えられた賜物の管理者である、つまりは管理をまかされて預っているのです。これと同様の言葉は第一コリント4章にもあります。ここで考えておきたいことは、わたしたちが才能と見なしているもの、人によって優れた才能もあれば、いまいちと思える才能もありますけれど、それらはその人自身の所有物なのではなく、あくまで神さまから預っているに過ぎないということです。

以上のように、今日の物語は内容としては難しいものではありません。でも、実のところ、この物語は考えれば考えるほど、いろいろと難しい問題が出てきます。第一に申し上げておきたいことは、この話はかなり歪めて読まれてきたし、今も読まれていると思います。どういうことかといえば、お金を上手に商売に使って倍に増やすような人が神さまにほめられ、増やすことのできない人、あるいはただ土のなかに埋めるような怠惰な人を神さまはお嫌いになると、能力至上主義、成績至上主義の話として読まれてきたという事実があるからです。ある学者はこの譬話を評して、「初歩的な資本主義の精神そのもの」だと言い、また「この譬話一つのおかげで、キリスト教世界はどれだけ能力崇拝をつちかってきたことか」と辛らつな言葉を投げかけています。

話が複雑になるので、簡単にしか申しませんが、今日の箇所で29節の「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」は、主イエスの言葉ではなく、後の時代の言葉だというのが定説です。本当のところ、主イエスはどのような意味でこの話を語られたのでしょうか。もし今述べたような能力至上主義、成績至上主義、営業成績を倍にしたらほめられるというのならば、わたしはこれは14節の言葉を書き換えなければならないと思います。つまり、「天の国はまた次のようにたとえられる」とあるのを書き換えて、「地上の国の現実は次のようにたとえられる」と言うべきではないでしょうか。しかし、主イエスがこの譬えをとおして言おうとされたことは、もう少し別のところにあるようです。

この譬が言わんとしていることは、努力してお金を増やせというようなことではありません。この譬の中心となっているのは、3番目の1タラントンを預けられた人物です。1番目と2番目の人はむしろ3番目の人の引き立て役のようなものです。主人が帰ってきて、預ったお金を清算するときに、3番目の1タラントンを預けられた人は言います。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」この言葉を読むと、3番目のこの僕は、自分が怒られることを何よりも恐れていたようです。自分は主人の性格をよく知っている、もし自分が預ったものを少しでもすり減らしたらどんなに咎められることだろうか、だから自分は用心深く預ったお金を隠しておいたのだ、きっとこのことをご主人さまは誉めてくれるに違いない。この人は、預ったお金を失わずに保管していたことをむしろ自慢しているかのようです。

「天の国はまた次のようにたとえられる。」この主人が神さまを指すのは明らかでありますが、3番目の僕にとって、神さまというのは口やかましく、厳しく、愛するよりも罰することを好むかのようです。そして彼は口やかましい神さまに叱られないために、言われたことを厳密に、しかし形どおりに守ることを良しとしています。そして受け取ったものをそのまま返す道を選んだのでした。

神さまから預ったもの、それは神さまの御言葉であり、神さまの愛です。あるいは教会に与えられた福音宣教の使命と言ってもよいと思います。わたしたちはこれらをどのように預り、どのように用いようとしているでしょうか。それともただしまい込み、保管をしているだけなのでしょうか。神さまの御言葉である聖書にふれていながら、それをただ自分の精神的素養とか精神的慰めだけにしてしまってはいないでしょうか。神さまから愛をたくさん受け取っていながら、それをすり減らさないことだけに心費やし、のびやかに人を愛するということを忘れてはいないでしょうか。教会に福音宣教の使命が与えられているのに、せっかくの賜物を活かして用いることをせず、なにごとも無難にという道を選んではいないでしょうか。神さまがくださる希望への信頼を忘れて、神さまの御心ではなく、この世の常識という土のなかに大事なものをしまいこんではいないでしょうか。言うまでも無くわたしはここで、無茶をしてでも大胆になどと言っているのではありません。言いたいことは、折角の神さまの愛や恵みを土のなかに入れてしまってはいないだろうかということです。

今日の箇所について説明された本をいくつか読んでいると、次のような二つの説明に出会いました。ひとつは、この預けられたタラントンとは、律法のことであり、3番目の僕とはその当時の指導者たち、特に律法学者たちを象徴しているということです。もうひとつは、「当時の宗教界が、律法という土のなかに神の豊かないのちを埋めてしまっていた」という説明でした。これは、前者はタラントンとは律法のことであると言い、後者は律法とは土のことだと言っているのですが、実質的には同じことを言っているのだと思えます。

福音書を読むと、主イエスが律法学者たちの愛のなさを厳しく指摘しておられることがよくわかります。彼らは細かすぎるほどに細かく日常の行動を規定する律法を作り上げ、それを完全に守ろう守ろうとしながら、結局は自分が縛られてしまっていました。安息日に主イエスが病人を癒されると、安息日には労働が禁じられていると批判しました。そしてこのことは、決して聖書の時代のこと、昔はこうだったという話ではありません。

わたしたちも同じような過ちを犯している可能性は高いのです。カトリックの森一弘神父は、「大きな力に信頼して」という本のなかで、次のように言っておられます。「注意しないと、わたしたちもいつのまにか、形を守り、おきてにしたがっていれば、神への道を歩んでいると思い込み、安心してしまうことになります。それはまた、自分の心をしばり、他の人に対してもかたくなで冷たい態度をとることにつながります。・・守ろう、守ろうとすること、失敗しないように、失敗しないようにという心だけでは、のびやかであたたかな愛の命は発展していきません。・・過去の教会には、おきてを守り、秘跡にあずかることこそ、最高のいのちへの道を歩んでいるのだという指導がありました。それは一つまちがえば、イエズスのいのちを教会のおきてという土の中に埋めてしまうことになります。」これは正しい自己反省の言葉です。そしてわたしたちにも当てはまる言葉です。

わたしたちは神さまから多くのものを賜っています。どのひとつを取ってみても、それは自分自身のものではなく、神さまから預ったものです。わたしたちはそれを感謝して受けとめ、その預かりものを死蔵させないようにしなければなりません。ペトロの第一の手紙にも次のように教えられています。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。」神さまからの言葉、神さまから愛を、生かして、互いに仕えるようにと勧められているのです。

譬話そのものは、この世の苛酷な現実を反映しているように思えます。けれども、くれぐれも、お金を増やす生き方がほめらるのだというような読み方をしてしまってはなりません。また、タラントン=才能というふうに読むのも、主イエスの教えておられるところではありません。主イエスがこの譬を通して言われたことは、神の豊かさを土のなかに埋めてはならないということであり、信仰や希望や愛というものを、掟や常識の枠のなかに閉じ込めるならば、それらはあなたたちから取り上げられるだろうという厳しい問いかけなのです。

(2005年10月9日 礼拝説教)