番町教会説教通信(全文)
2005年1月 「恵みと平和があるように」         牧師 横野朝彦

?コリント1・1―9

皆さんの新しい年の歩みのうえに、主の恵みと平和が豊かにありますように、そして主の恵みと平和を豊かに感じられる年でありますように、またご健康が支えられ、おのおのの与えられた賜物を生かして、日々を過ごすことができるようにとお祈りをいたします。そしてその歩みが神さまの御心にかなうものでありますようにと祈ります。

わたしは今このように、新年の挨拶を申し上げました。正月には新年の挨拶が交わされます。教会でもわたしたちは互いに新年の挨拶を交わします。それは当然のことのようです。でもわたしは、いい年をしていながら、儀礼的な挨拶がいまだに苦手です。頭を深深とさげて、頭をあげてみると、まだ相手の人の頭が下がったままで、もう一度頭をさげて、二人が交替にいつまでも頭をさげているという、これは昔読んだ漫画の一場面に描かれていました。こういう笑い話の種になるような挨拶を、わたしもこれまでに幾度もいただいたことがあります。

挨拶というのは、本来そのような儀礼的なものではなく、互いに相手のことを思う気持ちでなければならないのは、当然のことです。昨年は台風や地震など多くの災害がありました。新潟中越地方で起きた地震により仮設住宅などで生活している人たちはどのような正月を迎えられたことでしょうか。インドネシア・スマトラで起きた地震と、インド洋全域におよぶ津波の犠牲者、被災者のかたがたは、どのような思いで今日を迎えておられるでしょうか。新年ということを考える心の余裕などまだ全くないに違いありません。あるいは東京教区東支区に属するわたしたちは、三宅島のかたがたが今年島に帰るのを前にどのような思いで新年を迎えておられることかと思わされます。

10年前の1月17日に阪神淡路大震災が起こりました。仮設住宅が建てられましたが、海辺の埋立地とか、山のなかとか、かなり不便な場所でした。具体的なことを申しますと、わたしの母は神戸の西の端に住んでいましたが、震災で家が壊れました。仮設住宅に申し込みましたが、抽選で当たったのは、神戸の東側はるか向こう、大阪の港近くの仮設住宅でした。結局、入居せずに別の方法を取りました。そしてこのことは、地理的に不便というだけではなく、これまで築いてきた人間関係をバラバラにしてしまったと指摘されています。そして、孤独によって生命力をなくし、孤独死する人が続出しました。

在日大韓基督教会の牧師で、金得三という先生がおられました。金先生ご自身が被災をされ、仮設住宅住まいでしたが、各地の仮設住宅や復興住宅の訪問ボランティアを数年間にわたって続けられました。金先生は仮設住宅訪問を始めたとき、最初は不審に思われたり、怒鳴られたり、何も話しをしてくれなかったりで、さんざんでした。にもかかわらず地道に訪問を続け、信頼を得られたのでした。お正月にも金先生は仮設住宅の訪問をなさいました。そして、お正月に住宅訪問をして、「おめでとうございます」とはどうしても言えない、そこで「年は越せましたか」と声を掛けていったそうです。すると、「どうにか」という返事があって、そこから「早くもとの生活を取り戻したい」と、いろいろ辛い話や願っていることが話題として出てきたということです。

わたしたちも今、中越地方での地震や、インド洋全域におよぶ地震と津波、さらにさまざまな事件が起こり、社会全体に不安があるこの時代を思うと、年が改まったからといって、「おめでとう」と言う気持ちになかなかなれません。ただ儀礼的な「おめでとう」ではなく、新しい年に神さまの恵みと平和がありますようにと、祈りをこめた挨拶をしたいものだと思います。そして、お互いのことを思いやる気持ちを言い表していきたいものです。

昔から、教会は挨拶ということを大事にしてきました。礼拝の始まる前に挨拶をする、終わってから挨拶をするというだけではなく、礼拝のなかで挨拶をしている教会があります。カトリック教会のミサでは次のような挨拶が交わされています。まず司祭が「主の平和がいつも皆さんと共に」と言い、皆は「また司祭と共に」と応えます。そして司祭が「平和の挨拶を交わしましょう」と呼びかけ、皆は「主の平和」と、両隣、後ろ、前、そして離れた席の人とも互いに挨拶を交わします。このような挨拶を、プロテスタントの教会でもおこなっているところがあります。キリスト教は、挨拶を、信仰にとってとても大事なものと位置付けてきたのです。

そんなことをあれこれ考えながら、わたしたちキリスト者にはどのような挨拶の言葉がふさわしいのだろうと思い、今日はパウロがコリントの教会に宛てた手紙の最初の部分を読んでいただきました。3節に「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」とあります。この聖句から、今日の説教の題「恵みと平和があるように」を付けさせていただきました。パウロは手紙の冒頭で、「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と挨拶を送ります。このような挨拶の言葉は、初代教会においてよく使われていたもののようです。例えば、ローマの信徒に宛てた手紙の1章では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と書かれています。そしてこの挨拶の言葉は、新約聖書の殆ど全部の手紙の書き出しのところで使われている言葉なのです。

ローマ書がそうでした。今日読んでいただいた第1コリントがそうでした。そして、第2コリント、ガラテヤ、エフェソ、コロサイ、第1テサロニケ、第2テサロニケ、第1テモテ、第2テモテ、テトス、フィレモン、第1ペトロ、第2ペトロ、第2ヨハネ、そしてヨハネの黙示録と、それこそ殆どの手紙の挨拶の言葉が「恵みと平和があるように」なのです。今、この挨拶の書かれている手紙の名前を申しましたが、逆に、この挨拶が使われていないのは、ヘブライ、ヤコブ、第1ヨハネ、第3ヨハネ、そしてユダの手紙と、たったこれだけなのです。初代のキリスト者の多くは、「恵みと平和があるように」という挨拶を互いにかわし、手紙だけではなく、日常の挨拶においてこの言葉を交わしていたのでしょう。この言葉がいかに大事かお分かりいただけると思います。

では恵みと平和とはどのようなものでしょうか。まず平和について考えます。普通平和というと、人と人、民族と民族ということでしょう。主イエスはわたしたちに「平和を作り出す人たちは幸いである」と言われ、また「互いに平和に過ごしなさい」と教えてくださいました。パウロもまた、「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と手紙のなかで勧めています。このように他者との関係が平和でありたい、それはわたしたちの大きな願いです。ことに、イラク戦争がいっそう泥沼化している現状において、わたしたちはより強く平和を求めていかなければなりません。

平和は、このように、他の人との関係をあらわす言葉です。他の人と、他の民族と、他の国と、他のあらゆる人々との間に争いがなく、共に安穏である状態にほかなりません。平和は、自分一人の問題ではなく、他者との関係のなかで成り立つことがらです。なお、この言葉は口語訳聖書では平安と訳されていました。平安という言葉のほうがなんとなくそれだけで安らぎを感じさせる言葉で、わたしも好きな言葉の一つです。新共同訳がこれをほとんど全部平和と訳してしまい、特に新約聖書からは平安という言葉がなくなってしまったのを寂しく感じています。

平安を求めるのは大事なことですし、また誰もがそれを望んでいるといえます。でも平安というのは、魂の平安というように、どちらかと言えば一人一人の心の静けさをあらわすことが多いと思われます。しかし聖書が語っているのはそのような心の静けさだけを述べているのではありません。平和があるように。それはもっと直接的にあなたも、あなたの周りの人たちも、誰もが共に生きることのできるようにという願いであり、希望であり、わたしたちの生きるべき方向なのです。

しかしここで忘れてならないことは、聖書の語る平和は、他者との関係だけではないということです。聖書は大きく分けて二つの関係を語ります。一つはわたしと他者、そしてもう一つはわたしと神。この二つの関係の平和なのです。パウロはローマの信徒に宛てた手紙の5章で、「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いると述べています。また、同じくローマ5章や第二コリント5章で、わたしたちは「主イエス・キリストによって神との間に和解を得ている」と述べています。ここで述べられているのは、わたしと神との間の平和です。

聖書はわたしたち人間が神さまを忘れ、反逆し、神さまとのつながりを失っていることを述べています。聖書の語る罪という言葉が、的をはずすということ、神さまという的をはずした生き方だというのをお聞きになったことがあると思います。そしてわたしたちが人と人とのつながりを失っているのも、わたしたちが罪に陥っているのも、神さまとの繋がりが断たれていることに根本的な原因があると語ります。そしてそのような大事なつながりを、罪を犯したわたしたち人間の側の努力によってではなく、神さまの側から和解の手を差し伸べてくださったので、つながりを回復することができる。それが聖書の語る平和です。そして、このように神さまとのつながりを回復させていただいたわたしたちは、他者との関係においてもよりよきつながりを求めます。このように、平和とは、神とのつながりと、人とのつながりという二つの面を持っています。

「恵みと平和があるように」、次に恵みについて考えます。聖書の語る恵みは、人間のおこないとは対称的な言葉です。すなわち、人間が自分の行いによって救われよう、これだけ良いことをしたから、律法をこれだけ守り、正しく生きたから、これだけ功績を積み重ねたからというのではなく、神さまの側からの無条件の愛によって救われる。それが聖書の語る恵みです。そこで聖書は、わたしたちが「恵みによって人々は救われる」こと、わたしたちが恵みにおいて成長すべきこと、そしてわたしたちはキリストの恵みが共にある時にのみ,業を為すことができると語るのです。聖書を引用しますと、ローマ3章24節に、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」とあります。また、エフェソ2章8節に「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」とあります。

このように、恵みも平和も神さまの側からの賜物です。それは独り子イエス・キリストによってもたらされたのです。そしてそのことをパウロは手紙の冒頭で挨拶の言葉として用いているのです。今日の箇所で、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」と述べられていますが、ここでわたしが大事だと思うことは、恵みと平和という言葉の前に、「からの」と言われていることです。つまり、恵みと平和は、わたしたちの父である神と主イエス・キリストから来るものだと、その由来、その根拠が明らかにされているのです。

したがって、これはまったく儀礼的な、言葉だけの表現ではありません。彼は心からこのように信じて、そしてこのことを信仰の基本的な問題として語るのです。ですから、コリントの信徒にあてた手紙の初めの部分でも、パウロは3節で「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と言いつつ、それだけではなく、その前後でも、むしろ恵みと平和がどのようにわたしたちに表されているかを述べています。

手紙の書き出しでパウロはまず自己紹介をします。1節「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロと、兄弟ソステネから」。自分は神の御心によって、言い返れば、神の恵みによってわたしはキリストの使徒になったと信仰の告白をしている。次に2節で相手のことを書いています。少し丁寧すぎるくらいに、「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と言っています。コリントの教会の人たちも、キリスト・イエスによって聖なるものとされた人たちだというのです。そして続けて、2節後半で、「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」と言われる。つまり、自己紹介があり、わたしはキリストの恵みによって使徒となった、次に手紙の受取人について述べられ、あなたたちもキリストの恵みによって救われたと言われる。そしてわたしもあなたたちも、共にキリストを主としてあおぐものですと、共通の信仰のあることが述べられるのです。これは手紙の挨拶としてはきわめて丁寧すぎるくらいです。

パウロはこのように丁寧に、わたしたちは互いにキリストの恵みによって一つの信仰を持っていると述べたうえで、4節以下で「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています」と、わたしたちが恵みによって生かされ、豊かにされていると述べ、1章9節「あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」と語るのです。つまり、一つの交わりにわたしたちは入れられているのだ、わたしたちはもはや敵対するものではなく、互いに平和に過ごすようにと招き入れられているのだと語られているのです。

以上のように考えると、「恵みと平和があるように」とはただの挨拶の言葉ではなく、むしろ手紙全体で語っていることの要約のように思えます。そして事実、新共同訳聖書の見だしを見ると、10節以下では「一致の勧め」とあり、3章では「神のために力を合わせて働く」とあります。3章では、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくと、分派がおこっているのはどういうことだと叱責がなされ、また12章では、わたしたちはキリストの体であり、一人一人はその部分なのだと言われ、そして13章では、有名な愛の賛歌が歌われる。このように見るならば、手紙冒頭の挨拶が、ただの挨拶ではなく、これから語られる手紙の内容にかかわるということがよく分かります。しかも、申しましたように、この挨拶の言葉「恵みと平和があるように」は、今日のこの手紙だけではなく、新約聖書の手紙の殆どで使われている。なおかつ、恵みと平和が神と独り子キリストから来るということが言われている。いかにこの言葉が信仰の基本にかかわるかということがよくわかります。

以前に、ある方から相談を受けました。それは、教会のなかでいろいろつまずきを感じ、疲れを感じて教会を離れてしまったのだけれど、そうすると、その教会の人に街中でばったり会っても、知らぬ顔をされてしまったのだそうです。いったいクリスチャンって何なのか、信徒の交わりとはどのような交わりなのか、わたしはそのような相談を受けました。本当に情けない思いがします。教会とて人が集まるところですから、いろいろな衝突があったり、嫌な思いを体験したり、ということは起こります。互いに挨拶さえするのが嫌になるような、そんな気持ちをわたしもわからないではありません。またそのために教会から足が遠ざかる人もおられます。そういった人間の感情をわたしは理解するつもりではいます。でもだからと言って、気づいていながら、気づかぬふりをして、知らぬ顔をして通り過ぎるとすれば、あまりにも悲しいことです。知らぬ顔をされたほうはショックだろうし、また知らぬ顔をしている人のほうも心の中では当然意識していることでしょうから、どちらにしても悲しいことです。相談くださった方が、クリスチャンって何なのか、信徒の交わりとはどのような交わりなのかと思われたのは当然のことだと思います。     

主イエス・キリストも、山上の説教において「自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と言っておられます。ここで言う「自分の兄弟」とは、信仰の兄弟姉妹のことです。このような教えがされているということは、裏返して言えば、新約聖書に書かれている当時の人たちが、自分の信仰の兄弟姉妹には挨拶するけれど、異邦人には挨拶をしないとか、それこそ教会に来なくなった人に挨拶をしないという現実があったのだと思います。それに対して、主イエスははっきりと、それではおかしいと言っておられるのです。そしてパウロもまた、派閥争いや分派争いのあったコリントの教会に対して、恵みと平和があるように。恵みと平和は主から来るのですよと、冒頭の挨拶で、そして本文をとおして語っているのです。

わたしたちの挨拶は、時候の挨拶とか、お元気ですかと、たんに安否を問うとか、ということではありません。もちろんそういった挨拶も大事です。でもそれ以上に、わたしとあなたが挨拶をするということは、挨拶をするものと、挨拶をされるものが、共に、神さまの恵みと平和をいただいているということです。このわたしも、そしてわたしの嫌いなあの人も、神さまの前には等しく罪人です。このわたしも、そしてわたしの嫌いなあの人も、神さまに等しく愛されています。つまり、このわたしも、そしてわたしの嫌いなあの人も、神さまに愛され赦されている罪人なのです。

わたしたちは、人と人、集団と集団、地域と地域、国と国との間にさまざまな隔てを作り、争います。しかし、主イエスが十字架の愛によってその隔てを取り除いてくださったというのが、キリスト教の信仰です。人と人、集団と集団の間に主イエス・キリストがいてくださって、十字架の愛を現わしてくださっているのです。それゆえ、挨拶をするということも、そこには、挨拶をする者同士の間に、主が共にいてくださることを確かめ合い、主がいてくださることを喜び合うのです。主が与えてくださる恵みと平和が皆さんと共にありますように、心からお祈りをいたします。 

(2005年1月1日、東京教区東支区新年礼拝説教 於富士見町教会)