番町教会説教通信(全文)
2004年9月 「あなたがたのために苦しみを受け」   牧師 横野朝彦


第一ペトロ2・21―25

  大江健三郎さんのエッセー集で、昨年秋に出版された「『新しい人』の方へ」という本があります。このなかで、次のようなことが書かれています。「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです。キリストが十字架にかかって死ぬことで、対立する二つを自分の肉体をつうじて『新しい人』に作り上げ、本当の和解をもたらした、ということについて、皆さんによく納得してもらえるように話すことはできません。私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』になられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるように励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています。」

「私はキリスト教徒ではなく、聖書についての知識も浅いのです」というのは、大江さんの口癖のようなもので、これまでにも何度もそのように言われています。大江さんは、これまでに聖書やキリスト教信仰を表わしている作品をたくさん発表してきました。それでも、三浦綾子さんのような作家とは違って、キリスト教や信仰を前面に出すことはありませんでした。ところがここでは、これまでどおり「私はキリスト教徒ではなく」と断っておられるものの、きわめてはっきりと自分が何を大切にしてきたかを述べておられます。それは、キリストの十字架の死であり、よみがえられたことです。

大江さんのこの文章は、もともと週刊朝日に連載されたエッセーで、今読んだのは、約3ヶ月間の連載の最後のものです。「『新しい人』になるしかない」というタイトルです。これは、2003年の4月18日号に掲載されたもののようです。わたしは昨年の手帳を開いてみました。18日はちょうど受難日でした。週刊誌というものは、実際にはその日よりも1週間も前に発行されていますけれど、それにしてもわたしは、大江さんが自分のこれまでの作家という枠を破った発言を、受難日に発行される週刊誌に書かれたのだというふうに読み取りました。 

引用が多くなりますが、この「『新しい人』になるしかない」に書かれていた言葉をもう少し紹介します。「私は新しい方針をたてました。この本を読んでくださる人たちへのメッセージのもとになるものを、まずはっきりさせよう、そして書き始めることにしよう・・・」

大江さんは、ここで言うメッセージとは、子どもたち、若い人たちに、「新しい人」になってほしいということだと述べるのですが、その際に、もっとも大事なこととして述べているのが、イエス・キリストこそ、「新しい人」になられたかたなのだということでした。

わたしたちは今、教会の礼拝に集っています。ここにおられるかたのなかには、洗礼を受け、キリスト者として長い生活をしてきたかたもおられますし、またまだ洗礼を受けていないけれど、聖書に関心がある、キリスト教になにか心ひかれるというように、そのあたりさまざまであるとは思いますが、それにしても、わたしたちは「キリストの十字架と復活をなによりも大切だと思っています」と、どこまではっきりと言えるでしょうか。毎日の生活のなかで、それ以外のものを、なにより大切にしていることのほうが多いのではないでしょうか。これは決して他人事として言っているつもりはなく、わたし自身、大江さんが言うようにいう本当に言えるのかと自問自答しているのが現実です。

このことをなによりも大切にしているならば、わたしたちの生き方はもっと変わってくるはずだと思います。イエス・キリストが敵をも愛され、そればかりかご自分の命をささげてまでわたしたちを愛されたことを大切にするならば、わたしたちが自分だけを大事にすればよいのでないのは当然だし、敵をやっつければよいのでないのは当然のことだからです。

3年前の9・11の事件以降、そしてまたイラク戦争が始まって以降、わたしたちはいったい世界はこれからどうなるのだろうという不安にかられてきました。それは今も変わりません。そのようななかで、わたしは教会の週報に記載している「今週の祈り」に、同じことを何十回となく書きつづけてきました。「報復の連鎖を愛によって断ち切らせてください。」「力によって解決するのではない、平和の道を開いてください。」「武力によらない真の平和を来たらせてください。」「平和を来たらせてください。憎しみの連鎖を断ち切ってください。」週報の綴りを開いてみると、以上のようなことが書かれていました。

報復攻撃は、けっして解決をもたらさず、かえって憎しみを増やし、解決を遠ざけるだけだと思います。そしてそれを解決するただ一つの道は、主イエス・キリストがしてくださった十字架の道なのだとわたしは確信します。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」と、今日の箇所23節にあるように、主イエスは右の頬を打たれても、報復をされるのではなく、かえってご自身を十字架へと差し出されたのでした。それは、敵を愛し、迫害するもののために祈る道であり、憎しみの連鎖を断ち切る道です。報復の連鎖に終止符を打つ道なのです。

主イエス・キリストは、人々からの嘲笑、あざけり、ののしりを数多く受けられました。わたしたち誰でも、いわれのない謗りを受けることがありますが、主イエスはまさにそのように、いわれのないことを浴びせられたのでした。主イエスが病気の少女を癒そうとされたとき、「人々はイエスをあざ笑った」と福音書に報告されています。あるいは主イエスの譬話を聞いたファリサイ派の人々が、「イエスをあざ笑った」とも報告されています。主イエスが十字架にかけられたとき、そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしりました。また、一緒に十字架につけられた強盗までが、イエスをののしったのです。

それに対して主イエスは、何も答えられませんでした。普通ならば反論をするか、弁解をするか、何か言うものでしょうに、主は何も言われませんでした。ローマ総督ポンテオ・ピラトによる尋問の場面では、「どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った」と報告されています。これはまさしく、「ののしられてもののしり返さず」という生き方を実現されたということです。そしてこのことは、初代教会で教えられた重要なキリスト者の生き方でした。

パウロはローマの信徒への手紙12章でこのことを次のように言い表しています。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。・・だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。・・自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。」今お読みしたなかでも、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」ということは、今日の2章23節「正しくお裁きになる方にお任せになりました」ということと同じことです。

このように、復讐をせず、報復をせず、そのことは神さまに任せて、あざけりののしりを黙して受ける、それはイエス・キリストが示された平和の道であり、初代教会が大切に受け継いだ道でした。そしてまたこのことは、旧約聖書の預言者の時代から、予め示されていた道でもありました。今日読んでいただいた第一ペトロ2章21節以下は、イザヤ書53章の預言を色濃く反映しています。22節の「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」は、イザヤ53章9節の、「彼は不法を働かず、その口に偽りもなかったのに」と同じです。23節の「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」は、53章7節の「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった」を思い起こします。

24節では、主イエスが十字架にかかって、わたしたちの罪を担ってくださったこと、主イエスがお受けになった傷によって、わたしたちがいやされたことが示されます。このことは、53章5節の「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」という言葉そのままです。このように、今日の箇所はイザヤ書の「苦難の僕」と呼ばれる預言の箇所をほとんどそのまま引用しながら、主イエス・キリストこそ、わたしたちに約束されていた「苦難の僕」であり、このかたの負われた苦しみによってわたしたちは癒され、このかたが人々の罪を負ってくださったので、わたしたちの罪は赦されたのだと教えられているのです。

ペトロの手紙は、言うならばこのことをなによりも大切なこととして述べています。そしてそこから出てくるキリスト者の生き方について論じている書物だと思われます。書かれた時代は特定できませんが、おそらく紀元90年頃、ローマ帝国によるキリスト教迫害が激しかった様子がこの手紙の内容からうかがうことができます。1章6節には「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」とあり、4章12節では「あなたがたを試みるために身にふりかかる試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」とあります。さらに5章8節には「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」とあります。これらはみな具体的な状況が背景にあって言われている言葉です。

このような厳しい具体的な状況があって、しかしそこでわたしたちキリスト者には、キリスト者としての生き方があるというのがペトロの手紙のメッセージなわけです。新共同訳の見出しを見ると、1章から2章前半にかけては、「生き生きとした希望」、「聖なる生活をしよう」、「生きた石、聖なる国民」、「神の僕として生きよ」とあります。つまり、わたしたちにはキリストがおられるのだ、だからキリストに連なって生きようではないかという勧めです。

そして2章の今日読んでいただいたところで、キリストとはどのようなお方なのか、それは旧約聖書において「苦難の僕」として表わされ、このかたの苦難によってわたしたちは癒され、このかたが罪を負ってくださったことによってわたしたちは救われたのだと述べているのです。そしてこのことをなによりも大切なこととしながら、わたしたちが直面しているさまざまな試練を引き受けていこうではないか、とペトロは述べているのです。

3章17―18節には、「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです」とあります。これなども第一ペトロのメッセージが要約されているような言葉だと思います。4章では、「神の恵みの善い管理者」であるようにと勧められています。この箇所なども印象的で、よく知られているところです。以上のように、ペトロの手紙はキリストの負われた苦しみがわたしたちのためであることを述べて、そこから出てくるわたしたちの生き方の勧めです。

ところが、今日のような民主的な考え方に慣れた人間には、ペトロの言い分はいくらか古く聞こえるところがあります。特に、2章13節以下で「人間の立てた制度に従いなさい」といった教えや、18節以下の「召し使いたちへの勧め」、あるいは3章1節以下で「妻と夫」の教えなどは、時代的な制約を感じます。このような教えにわたしたちは戸惑います。かといって、古い昔の教えというだけですますことはできません。

この社会には理不尽なまでの出来事がたくさんあります。そして権力の横暴と思えるようなことも少なくありません。かつてわたしたちの国では、神社参拝や宮城遥拝など、思想や信教の自由が侵されている状況がありました。今の日本の国の動きは、そういった昔に戻ろう戻ろうとしているように思えてなりません。あるいは、沖縄の状況などを見ていると、日本の国が今なお主権を持っていないように思えることがあります。ペトロはこういったことに、何一つ不平不満を言わずに従いなさいと言っているのでしょうか。

けっしてそうではありません。どんなにおかしなことであっても、何一つ文句を言わずに、従いなさいと言っているわけではありません。ペトロの手紙で言われているのは、なにがなんでも上の人の言うことに従いなさいというような、おかしな倫理ではありません。そもそも、何が何でも権力者に従い、この世の制度に唯々諾々とするならば、「信仰を捨てよ」と命じられたときに、何も文句を言わずに信仰を捨てるのが筋ということになるでしょう。初代教会の人たちはもちろんそのようにはしませんでした。彼らは断固として抵抗をして、信仰を保ちつづけたのです。彼らは、神ならぬものを神として拝めと強制されたときに、断固としてそれを拒否したのです。

4章では「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」とありますし、主イエスが「平和を作り出す人たちは幸いである」と教えられたように、平和のための運動や働きはとても大事なことです。社会の動きに対して、これはおかしいと言うことも大事なことです。ペトロもまた、否を否と言うべきことを知っていました。ペトロにとって問題は、そのようにして悪魔に抵抗したことによって捕らえられ、大きな迫害を受けたときに、どのようにするかなのです。2章16節には、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」とあります。自分を抑圧するものに向かって、こちらまでが力を振るってはならない、あなたは正しいことのために苦しんでいるのですよとペトロは言うのです。

わたしたちがしばしば犯してしまう過ちは、悪に出会ったときに、それに抵抗しようとするあまり、こちらまでが同じ悪を犯してしまうことです。大国の横暴や武力による抑圧があり、それはもちろん見過ごしにはできないのですけれど、だからといって小学生を人質に、しかも何百人と殺害するようなことがあってはならないのです。いや、例えが大きくなりすぎたかも知れません。もっと身近に考えてみても、誰かわたしたちの周りに理不尽なことを言い、嫌なことをする人がいるとして、それを嫌うあまりに、わたしたちも同じことを相手にしているということがあります。そうではいけないのです。それでは、いつまでも憎しみが続いている憎しみの連鎖が生じるばかりです。やられたらやりかえすというなかでは、報復の連鎖が続くばかりです。

「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」、キリストが十字架にかかってくださってわたしたちの罪のために死んでくださった、そのように生きなさい、ペトロはそのようにわたしたちに呼びかけています。

大江健三郎さんは、「私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』になられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるように励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています」と言いました。ここでいう「新しい人」とは、十字架と言う苦難によって、対立する二つのものに和解をもたらす人のことです。「キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」てくださいました。そして、「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」エフェソ2章14―16節のこの御言葉を、迫害下のキリスト者の生き方として具体的に語っていったのがペトロの手紙だと思います。

それは時には、この世の大きさに対して、とても小さなことのように見えることでしょう。けれどもペトロは、1章で、この世の力は草のように枯れるけれど、主の言葉は永遠であると述べ、また2章で、わたしたちの生き方はこの世の人々にはつまずきの石であろうとも、わたしたちには隅の親石なのだと語るのです。

(2004年9月19日 礼拝説教)