番町教会説教通信(全文)
2004年6月 「聖霊があなたがたと共に」        牧師 横野朝彦

ヨハネ14・14―27

わたしたちが生きる限り、わたしたちは多くの助けを必要としています。わたしたちは一人で生まれ出ることはできません。自分の力で生きるには幼年期だけでなく、青年期も含め、長い年月が必要です。また老いて死ぬことも、残念ながら一人でそれをすることはできません。助けを求めることは、人によってはなにか恥ずかしいことのように言う人がいますが、実はそうではなく、人間にとって助けは必要にして不可欠なものなのです。お年よりの介護にしても、介護を受ける側の辛さがあります。これまで自分の力でしてきたことを、助けてもらわねばならないのは、あるいは屈辱に感じることもあるでしょう。自分が情けないと思うこともあるでしょう。そのように感じる気持ちはわかります。しかし、人には助けを受けなければならないときがあるし、否むしろ、人は助けを必要とする存在なのです。決して恥ずかしいことではありません。

 病気になったとき、助けを必要とすることを痛感します。食事にしても、食料品の買い物にしても、どなたかが助けてくださるかどうかで、気持ちの安心も違います。愛する人と別れて孤独におちいったとき、わたしたちは慰めを必要とします。時には一緒に悲しんでくれる人を必要とします。経済的な困難におちいって、具体的に金銭の助けを必要とすることもあります。刑事事件にしても、民事事件にしても、法律的な交渉事には弁護士が必要です。弁護士という言葉で表現されるように、それは弁護をする、つまりその人の立場に立って助けるということでしょう。どんな助けもいらない、自分は一人で生きていくと、もしそのように思う人がいるとすれば、その人はとんでもない勘違いをしているのです。

 さまざまなかたが、相談のために牧師を訪ねてこられます。牧会カウンセリングという分野があるくらいですから、カウンセラー的な働きをすることも少なくありません。ただお話をお聞きするだけのことが多いですが、それでもそれが僅かでも助けになっているとすれば、こんなわたしが用いられていることに感謝を覚えます。多くの場合は、聖書の御言葉を読み、御言葉による慰めや、御言葉による励まし、御言葉による助けをすることになります。

 内容としては、精神的なものもあれば、具体的なものもあります。教会には、昨日から何も食べていないというかたが、ときどき訪ねて来られます。そのようなときに、例えば庭の草抜きをしてもらって、500円くらいを渡したり、あるいは、食べ物を何か差し上げたりします。こういったことは、何もしないほうがましという程度の、小さな助けでしかありません。でも、ここで大切なのは、具体的に何かを援助するということだけではなく、困っている人に対して、「あなたは独りではないよ」というメッセージの発信だと思います。たいした助けは出来ないけれど、たったこれだけしかできないけれど、ほんのちょっとだけれど、あなたのことを覚えているからねというメッセージだと思います。

 いや、こんなふうにお話しすること自体が気恥ずかしい、それこそ自己満足だと言われれば返答のしようがない程度のことなのですけれど、教会の日常活動のなかには、こんなこともあるのです。マザーテレサは、今日の最大の病気は、「自分はいてもいなくていい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感じることである」と述べました。路上生活のかたが、週に1回だけ訪ねてくれるボランティアの人のことを楽しみとしていると話しておられました。週に1回だけであっても、自分のことを気にかけてくれている人がいる、それだけのことであっても、その人の生きる力と無関係ではないのだと思います。

先日の正午礼拝でお話をしたのですが、わたしたちが助けを求めるときに、SOSという言葉を用います。あれば何の略語かご存知でしょうか。船が遭難をして、助けてくれ、あるいは強盗にでも襲われて助けてくれ、と叫ぶのですが、ただ命を助けて欲しいと言っているのではないのです。SOSとは、Save Our Soulsの略語です。わたしたちの魂を助けてくださいという意味です。ただ命を助けてもらうだけではなく、魂が助けられることなのです。人間は互いに助け合い、助けられて生きています。そのことを恥ずかしいこととはしない、助けられるなんて弱い人間のことだとは思わない、ごく自然なこととして受けとめて行くことが大事だと思います。助けを必要とするものは、ごく自然にそれを受ける、助けのできるものは、ごく自然に助けの手を伸べることです。

今日お読みいただいた聖書の箇所には、「弁護者」という言葉が16節と26節の2度出てきました。16節、「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。」弁護者というのは、普段あまり使わない日本語のような気がしますけれど、弁護士と同じように、わたしの立場に立って助けてくれるということでしょうか。口語訳聖書では、この言葉は「助け主」と訳されていました。別の翻訳では、「協力者」となっていました。そして、この「協力者」、「助け主」、「弁護者」とは誰のことなのか。その答は26節にはっきりと書かれています。「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」つまり、弁護者とは聖霊のこと、助け主とは聖霊のことであると、ここで明らかにされているのです。

さて、今日は聖霊降臨日です。ペンテコステとも呼ばれています。ユダヤ教にとって大切な祭である過越祭から50日、ペンテコステとはギリシャ語で50という意味です。そして50日をあらわす、五旬祭という祭、これはもともと収穫祭でありましたが、この日に、弟子たちが集まっていると、天から聖霊がくだったというのが、使徒言行録2章による聖霊降臨の記録です。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」これが聖霊降臨の出来事の記録です。なんとも不思議な話です。

使徒言行録の著者ルカは、このように聖霊降臨の出来事をドラマチックに描き、しかも過越祭から50日という具体的な日にちまで設定して記録をしています。5月最初の日の礼拝において、わたしはルカが、救いの歴史を3つの時代に区分している、それは「イスラエルの時」、「イエスの時」、「教会の時」であると申しました。ルカは使徒言行録2章の聖霊降臨の出来事を、「教会の時」の始まりとして、それを劇的な体験として記録したのです。したがってこの日は教会の誕生日とも言われます。教会の誕生日と言っても、もちろん、組織としての教会がこの日に出来上がったのではありません。出来事としては、弟子たち一人一人に聖霊がくだったのです。そしてこれによって力を得た弟子たちは、心合わせ、力合わせ、一つとされて、福音宣教にまい進していったのです。

この日に本当のところ何があったのか。実際に使徒言行録2章に書かれているとおりの出来事であったのかどうか、今となってはわかりません。少なくとも、弟子たちはこのときに、何か強烈な体験をしたのでしょう。キリスト教的な言葉づかいに、聖霊の炎を燃やすという言い方があります。これは主イエスが天に帰られたあと、これからどのようにしようかと悩み、また意気消沈していた弟子たちが、心を熱く燃やし、まさに燃えるような情熱をもって福音を宣べ伝え始めました。おそらくそのことの始まりには、何かわたしたちの理解を超える宗教体験が弟子たちの間におこったのは間違いないことです。そしてそのことが人から人へ、口から口へと言い伝えられた結果、ルカが使徒言行録2章に書き記したような出来事として伝えられていったのだと思います。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」まさしく、彼らはこの出来事をとおして、心燃やしていったのです。

それは、弟子たちにとって、何よりも大きな助けでした。これまで何度も申してきましたように、主イエス・キリストが逮捕され、十字架につかれたとき、弟子たちは皆、主を見捨てて逃げ去りました。シモン・ペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったにもかかわらず、あっさりと、「イエスなんて知らない」と言ってしまいました。人間の弱さが露呈された瞬間でした。主イエスの十字架は、このように主に従う者たちにとって、自らの弱さと向き合うときでもありました。そのとき、彼らは自分が弱い存在であること、自分は助けの必要な存在であることを、心の底から気づいたのではないでしょうか。そしてそのような彼らに真の助け主、すなわち、弁護者なる聖霊が与えられた。それが聖霊降臨の出来事だったのです。

 この出来事は、ある日突然に起こったのではありません。それは主イエスご自身によって前もって教えられ、予告されていたことです。そしてそれが今日読んでいただいた箇所、ヨハネ14章15節以下、新共同訳の見出しに、「聖霊を与える約束」と書かれているとおりです。ヨハネによる福音書によれば、今日の箇所は主の逮捕と十字架の直前の話です。ヨハネ13章は、「弟子の足を洗う」、「裏切りの予告」と、まさに逮捕直前です。このような状況下で、主イエスは語られたのです。自分はこの世での使命を終え、世を去っていく。しかし神さまはあなたがたを独りぼっちにはしない、わたしは去って行くが、神さまは別に助け主を遣わして、あなたがたと共にいるようにしてくださる。それが14章16―17節に書かれていたところです。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」すなわち、聖霊が与えられると約束されているのです。

 この聖霊は、どのような働きをするのでしょうか。ここでわたしは二つの聖句に心を留めたいと思います。一つは17節後半です。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」またこの言葉に合わせて、18節では、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」と言われています。わたしたちは独りぼっちではないのです。それは聖霊がわたしたちと共にあり、わたしたちの内にいるからです。協力者であり、助け主であり、弁護者である聖霊は、いつでもどこでもわたしたちと共におり、わたしたちのうちにいてくださる。このことの確信が持ち、心の内側から燃えるような思いが湧きあがり、福音を力強く、堂々と宣べ伝え始めたのです。教会はこのようにして誕生をしていきます。

 もう一つ大事だと思うのは、26節です。「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」聖霊は、主イエスがわたしたちに語ってくださったことを思い起こさせてくださる、このように書かれています。これはどういうことでしょうか。

 使徒言行録8章に、エチオピア人の宦官のことが出てきます。この人はエルサレム神殿に巡礼しての帰り道でした。この人は聖書を読んでいます。イザヤ書の53章であったことがわかります。でも、聖書を読んでもなんのことが言われているのか分からないのです。「苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。・・・彼が自らをなげうち、死んで、罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのは、この人であった。」この箇所を読んでいたのですが、これがいったい誰のことなのか、また、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたとはどういうことなのか、エチオピア人は訳が分からずに困っています。しかしそのとき、フィリポがこの人のもとにやって来ます。そしてフィリポがこの聖書の意味を語り聞かせ、エチオピア人はイエスを主と告白し、洗礼を受けたのでした。

この話で、聖書の意味を語り聞かせたのはフィリポです。でも、この話の冒頭の部分を見ると、次のように書かれています。「“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。」つまり、聖霊がフィリポを遣わしたのです。つまり言い換えれば、聖霊がエチオピア人に聖書の意味を解き明かした主語だと、このように言うことができようと思います。

 弟子たちはガリラヤで主イエスと共にいたときに、主の言葉をたくさん聞いてきました。でも、福音書を読んでいると、弟子たちが主イエスの言葉を誤解したり、理解できなかったりということが実に頻繁にあったことがわかります。特にマルコ福音書などを読むと、弟子たちの無理解というのが福音書の中心テーマだと思えるほどです。マルコ8章に主イエスの痛烈な言葉があります。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。」弟子たちにとって主イエスの言葉は、所詮は素晴らしい言葉、所詮は美しい言葉にすぎなかたのではないでしょうか。あるいは、この人についていけば、そのうちにこの世での栄達が保障されるだろうという、そんな期待さえ持っていた弟子がいました。彼らは主イエスの言葉を本当のところ聞いていなかったのです。

 いや、それは聞くとか聞かないということとは少し違うのかもしれません。聖書を読んでいる人はたくさんおられます。聖書に興味を持っている人はたくさんおられるのです。それは日本のクリスチャン人口の何倍ではきかないくらいに多いのではなでしょうか。でも、それが知的関心だけに留まるのか、それともそれが自分自身の生き方の問題へと変化するのか、この違いというのはどこにあるのだろうと思います。たくさんの理由や背景があるのでしょう。でもわたしは、今日の箇所を読みながら、一つには、その人の読み方とかその人の理解というのではなく、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」かどうか、ということではないかと思うのです。これはどういう意味だろうと考えているエチオピア人の状態なのか、それとも、聖霊によってフィリポが遣わされ、解き明かしを受けるかどうかです。

ヨハネ福音書1章に次のような有名な御言葉があります。「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」まさにこの信じるかどうかということも、聖霊の働きを抜きに考えることはできません。信じるというのは、わたしが頑張って信じるとか、わたしが努力して信じるというのとは違うはずだからです。第一コリント12章でパウロが、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と書いているように、わたしたちがイエスを主であると告白することができるのは、まさしく聖霊の働きによるしかないのです。

聖霊はこのようにわたしたちに働きかけ、わたしたちに助けを与えてくださいます。助け主、弁護者、協力者として、わたしたちに聖霊は注がれているのです。信濃町教会の教会員であった井上良雄先生は、「ヨハネ福音書を読む」という本の中で次のように言われていました。「聖霊のことはよく解らないという声を聞くことがあります。そのように言われる理由が分からわけではありませんが、しかし聖霊ということは、わたしたちが信仰者である限り、極めて単純で自明なことだと言うことができます。」聖霊とは、わたしたちが信仰者である限り、極めて単純で自明なことだと、井上先生は言われるのです。どうしてか。それは、わたしがこうやって信仰を持っている、わたしがこうやって信仰を求めている、そのこと自体が、わたし自身の力ではなく、神さまの働きかけであるからです。そしてこの働きかけのことを、聖霊と呼ぶのです。

(2004年5月30日 聖霊降臨日礼拝説教)