番町教会説教通信(全文)
2004年5月 「キリストの愛から離れない」       牧師 横野朝彦

ローマ8・28―39

悩みを持っている人や、何かしら壁にぶつかっている人に対して、人生そんなに悪いことばかりではないのだから、きっと良いこともあるよ、といった慰め方をすることがあります。「朝の来ない夜はない」という言い方もあります。この世に生きるかぎり、たくさんの問題が起こり、そのなかには解決不可能と思えることも少なくありません。ですから、このことについて、たくさんの諺とか、格言があります。「朝の来ない夜はない」もそうです。「待てば海路の日和あり」とか、「禍いも3年」、「禍い転じて福となす」などと言われてきました。禍いにあったときに、そこで諦めてしまってはまったく先は開きません。たとえ禍いであっても、時がたてば幸福の種になるし、それをうまく活用すれば、かえって幸せになるという人生の知恵が、古今東西たくさんの言葉で伝えられてきました。中国の故事には、「人間万事塞翁が馬」という言葉があります。塞翁が飼っていた馬が逃げ出して悲嘆にくれていると、その馬が駿馬を連れて帰ってくるという話です。

パウロがローマの信徒への手紙8章、今日お読みいただいた箇所で「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と語っているのを、わたしたちは先にあげた格言と同じような意味で聞いてきたのではないかと思います。もちろん、ここには、神さまが万事を益としてくださるとの信仰があるのでして、そのうちなんとかなるという意味ではありませんけれど、でも、この聖句は、わたしたちが弱っているとき、わたしたちが行き詰まりを感じているときに、希望を与えてくれる言葉として聞かれ、また用いられてきました。

わたしはこれまでに、何度もこの箇所を朗読しました。それは教会にさまざまな悩みを持って訪ねてきてくださったかたのお話をお聞きし、話し合いの最後に、それでは聖書を読んでお祈りをしましょうと申し上げ、この箇所を朗読をして、お祈りをさせていただいたのでした。悩みの相談に来てくださったかたが、この聖書の箇所をどのように受けとめてくださったのか、どのように受けとめられたのかとは思いますけれど、きっとこの言葉は慰めとなり、励ましとなってくれたことと思います。

とは言うものの、万事が益となるとはどういうことなのでしょうか。今は行き詰まっているけれど、そのうちに海路の日和があるということでしょうか。益となる、つまりはそれが損得でいえば得になる、利益になるということでしょうか。あるいは、今はすべてを失ったけれど、そのうちに駿馬が自分のところにやってくるということでしょうか。そういう意味もあるだろうと思います。失ったものよりも、もっと良いものがもたらされるのかも知れません。でも、聖書が語るところの、「万事が益となるように共に働く」というのは、それだけではないと思うのです。この言葉はこれまで、この言葉を読む人の都合のよいように受けとめられ、聞かれてきたのかも知れません。万事がご利益になるといったように、自分中心に、自分に便利な言葉として聞かれてきたのかも知れません。しかしながら、ここで語られていることの意味は、人間が考えて都合の良いことを神が成就されるということではないはずです。

聖書は、神さまの救いの約束の書物であると言われます。神さまはわたしたち人間の思いを越えて、わたしたちに救いを与えようとしておられる、そのことへの信頼と希望こそが、万事が益となることの本来の趣旨ではないでしょうか。益となるとの言葉は、人間の願望から読まれるべき言葉ではなく、神さまの御心から聴かれるべき言葉です。

28節の聖句は、単にそのうちによくなると言われているのではなく、共に働くかたの存在が言われていることに注意をしたいと思います。実のところ、新共同訳聖書は、29節の聖句の主語がはっきりしません。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」読みようによると、「万事が働く」ということで、「万事が」というのが主語のように読めなくもありません。万事が共に働き、その相互作用で益となるというわけです。

しかしここではそのように言われているのではなく、前後関係からすれば「神さま」が主語であることは明らかです。カトリックのフランシスコ会聖書研究会が出している翻訳では、この箇所に注をつけて、「ともに『働く』の主語は、ギリシャ語テキストではあいまいである」と述べ、この主語は神さま、あるいは聖霊であると説明しています。万事が益となるように、神さまが共に働いてくださっているのです。そしてこの箇所を口語訳では、「神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている」と訳しています。

そのうちによくなるのでもなく、神さまが共に働いてくださっている。共にということはすなわち、行き詰まっている者、悩んでいる者、苦しんでいる者と共に働いてくださっているということです。今日はローマの信徒への手紙8章28―39節を読んでいただきました。これは日本キリスト教団の主日聖書日課が今日5月16日に読まれる聖書の箇所として指定したところに従ったものです。ということで今日は28節以下を読んでいただいたのですが、わたしとしては、28節の、神さまが共に働いてくださっているということの意味を充分に知るためには、前後に書かれた2つの言葉がとても重要だと思っています。それは26節と32節です。

26節が述べているのは、聖霊の執り成しです。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」18節以下で、現在の苦しみとか、被造物のうめきといったことが言われており、それを受けて26節で、聖霊もまたうめきをもってわたしたちの弱さを共にしてくださっているのだと述べられているのです。なお26節の「助けてくださいます」という言葉ですが、新約聖書の原語であるギリシャ語ではとても長い一つの単語です。分解すれば、「共に」、「代わって」、「重荷を担う」という3つからなるそうです。つまり、わたしたちを助けるとは、わたしたちと一緒にいて、わたしたちに代わって、わたしたちの重荷を担い、背負ってくださるという意味なのです。

そして32節では、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われている。ここでは御子イエス・キリストがわたしたちの重荷を担い、わたしたちの罪を担い、十字架の死に引き渡されたことが述べられています。さらに続けて、34節では、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」と書かれています。

キリスト教の神学的な表現で、三位一体という言葉があり、唯一なる神は、父、子、聖霊の3つの面をもっていると考えられているのですけれど、パウロは28節で、神さまがわたしたちと共に働いて万事を益としてくださっていると述べ、その前後の26節と32、34節で、聖霊がわたしたちと共にうめき、執り成してくださっていること、御子イエスが十字架の死によってわたしたちの重荷を担ってくださり、復活の主はわたしたちのために執り成してくださっていると語っているのです。このことによって、万事が益となるように共に働くということが、人間万事塞翁が馬といったことではなく、神さまからわたしたちに与えられた愛の出来事であることが明らかなのです。

だからこそ、新共同訳聖書が見出しをつけているように、31節以下のテーマは「神の愛」となるのです。神の愛がわたしたちに与えられている。しかもそれは上から下へ何かを施すような愛ではなく、神さまがわたしたちの低さにくだってくださり、悩み苦しみを共にしてくださる愛です。

話を変えて、イラクへの戦争が始まるとき、木村公一さんという牧師が人間の盾としてバグダッドに入りました。アメリカがイラクを攻撃することに反対しての行動でした。でも、木村さんが書かれた文章を読んでいると、当時のイラクの政府や反米を訴える人々への厳しい言葉が書かれているのに気づきます。アメリカ打倒を訴える人々のなかに、イラクを攻撃しようとする人々と同じような何か、共通するものがあると言われます。その意味で、木村さんがしたことは、どちらの国に加担するとか、どちらの側に立つというのではなく、民衆と共に生きるということだったのだと思います。木村さんの本には、現地で出会ったたくさんの方々のことが書かれていますが、そのなかには、今回イラクで人質となったかたのことも出てきます。

杉原千畝さんのことをご存知だと思います。1940年、バルト海に面した小さな国リトアニアの領事代理を務めているときに、ナチス・ドイツの迫害の手を逃れようとするユダヤ人の国外脱出を助けた人です。ユダヤ人たちがオランダ領のキュラソー島へ逃れるのに、日本を通過するビザを発給したのでした。杉原さんはこのとき日本政府に問合せをしたのですが、日本から返ってきた答えは、「ビザを発給してはならない」というものでした。しかし彼はこの命令に従わず、ビザを発給しつづけます。その作業のために、睡眠不足で、痩せて、顔つきまで変わってしまったといいます。そして発給したビザはわずか1ヶ月の間に6000枚でした。6000人の命がこれによって救われたのでした。

杉原さんが政府の命令にそむいてまでこのようなことをしたのは、どうしてでしょうか。それは、政治とか政治的判断ではなく、人の命を救いたいという一心だったのだと思います。そして杉原さんはキリスト者でした。わたしは、千畝さんの妻杉原幸子さんが書かれた文章を読みましたが、千畝さんの行動の原動力が聖書の示す愛であったとはっきり書かれていました。あのような時代に、政府の命令にそむいてする行動が、どれほど危険なものかは言うまでもありません。自分も捕らえられるという覚悟なしにはできないことです。ユダヤ人6000人の命を救う代わりに、自分の命が危うくなります。にもかかわらずそれを実行したのは、聖書に示された神さまの愛でした。

もう今から何年前でしょうか、「シンドラーのリスト」という映画が評判を呼びました。オスカー・シンドラーという人が、ポーランドにおいて、ナチスの大量虐殺から1200人のユダヤ人を救ったのでした。シンドラーという人は、政治信条とは無縁の人で、お金と女性が好きな、極めて泥臭い人物であったそうです。彼は実業家であり、ユダヤ人をただ働きさせているような人でした。にもかかわらず、強制収容所に入れられようとする人たちを、必要な労働者としてリストアップして、彼らを助けたのでした。次のような評論を読みました。シンドラーは、「ユダヤ人を救え、という信条などで行動したのではない。付き合っているうちに、信頼し、愛するようになってしまった個々の人間たちを、非人間的な死の淵から助けようとしたのだ。」彼は色欲と金銭欲たっぷりの人間でした。「そんな人間なのに」ではなく、「そんな人間だったから」救えたのだ、と評論に書かれていました。シンドラーの原動力は、信仰とか、神さまの愛とかではありません。けれども、社会全体が非人間的な状況にあるときに、そして国家や組織が人の命を奪おうとするときに、最後に残る大切なものは、政治信条などではなく、また正義感でさえなく、人を愛するということだったのだと思わされるのです。

わたしたちにとって大切なものはたくさんあります。でもそのなかで、何が一番大事なのかとなれば、パウロもまた言うように、「一番大いなるものは愛」なのです。そして今日の箇所でもまた、あらゆる艱難や、苦難、労苦、悩み、行き詰まりにあっても、わたしたちには神さまの愛が注がれている、聖霊が共にうめき、執り成してくださっている、主キリストが十字架に死に、復活してわたしたちのために執り成してくださっている。その愛によって、わたしたちは万事を益とされているのです。

万事が益となるということが、具体的にどのような形でわたしたちにあらわされるのか、人によって異なることでしょう。必ずこうなるとは言えません。ある人にとってはそれこそ駿馬がやってくるような体験があるかも知れません。でも今わたしが申し上げたいことは、どのような厳しい状況に置かれようとも、悲しみの底にあっても、嘆きの淵にあっても、そこに愛を感じることができる、このことこそ人を真実生かすものではないかということです。たとえ周りが自分を捨てようとも、自分を愛してくださっているかたがいるということを知る、そのときにこそわたしたちは力強いのだと思うのです。

このように、パウロは、滅びるべきはずのわたしたちと、共に働いて、執り成しをしてくださる聖霊や、主の十字架と復活について述べます。滅びるはずのものを生かしてくださる神の愛への確信があるからこそ、読んでいただいた箇所の後半で、パウロは強い表現の言葉を重ねています。31節以下では、パウロはいくつかの問題を投げかけ、自ら答えるという方法を取っています。31節、「だれがわたしたちに敵対できますか」、33節、「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」、34節、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」、35節、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」。

これらの問は、パウロが自ら体験してきたことです。彼は多くの敵対者たちに囲まれていました。ある人々は彼を訴えました。またパウロを捕らえて、罪に定めようとする人たちがいました。しかし、パウロは自分という弱い、滅ぶべき器に、神さまの愛が注がれていることを実感していました。そこで、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」という問を、最後に投げかけるのです。この問は、言い換えれば、誰も引き離すことが出来ないという39節の結論を、あらかじめ前提にした問であると言うことができます。

31節の問にも、「神がわたしたちの味方であるならば」という前提がありました。「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」このことは言い換えれば、「神がわたしたちの味方である」という結論を、この問と同時に答えているということです。そして32節の、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」という言葉は、「神がわたしたちの味方である」ことの根拠を示しています。

次の35―36節には、わたしたちに降りかかる艱難が述べられていまして、それらの苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣といったことは、パウロが体験してきたことでした。しかしそれらの体験をとおして、パウロは聖霊の執り成しを確信し、主キリストの十字架と復活による執り成しを確信し、このような自分に神の愛が注がれていることを確信するのです。どんなときにも注がれているキリストの愛に気づいたがゆえにこそ、キリストの愛から離すものは何もないという強い確信と、万事は神さまの御心のままに益となるという信頼がここにあります。

祈ります。神さま、わたしたちは多くの困難のなかを生きています。個人的な艱難や悩みがあります。生きる限り負わなければならない重荷や、罪との戦いがあります。そればかりか、パウロが言うように、被造物全体がうめいています。このようなわたしたちに、あなたの愛が注がれていることに気づかせてください。この信頼のうちに、今こそ、愛によって生き、愛によって行動するわたしたちとならせてください。  

(2004年5月16日 礼拝説教)