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ルカ14・7―14
「客と招待する者への教訓」と題された今日の聖書の箇所を読んで、わたしは子どもの頃に聞いた一休さんのお話を思い出しました。一休さんといえばとんち話で知られていますが、室町時代に京都大徳寺の住職を務めた高名なお坊さんです。当時の仏教界の堕落に対して、痛烈な風刺をおこなった人だということです。
わたしが思い出した話というのは、皆さんもお聞きになったことがあると思います。ある時、京の大店の主人が、お食事を差し上げたいと一休和尚を招待します。将軍とも付き合いがある高名な和尚を迎えるとあって、玄関を掃き清め、打ち水などをして主人を筆頭に、店のものが揃って、和尚の到着を今か今かと待っていました。そこへみすぼらしいなりの僧侶が玄関を入ろうとしました。店のものは慌てて、「今日は大事な、偉い和尚様をお迎えするのだからお前のようなこじき坊主の来るところではない。早く出て行け」と、わずかばかりの小銭を渡し、追い出してしまいます。ところが、一休和尚は約束時間を過ぎてもあらわれません。店の主人は使いの者を催促にやります。一休和尚は直ぐに伺う旨を告げ、使者を帰らせます。そして小僧さんに金襴の袈裟だけを持たせ、一休和尚の座る座布団の上にこの金襴の袈裟をおいたのでした。
小僧さんはいぶかる主人に話します。「和尚様は、先ほど此のお店のほうへに参りましたら、玄関先で、直ぐにお布施を頂き、帰る様にいわれましたので、もどって来たとのことで、また使いをよこされたと言うことは、一休本人より、この金襴の袈裟の方に来てほしかったのだろうと、私にこの袈裟を持たせたので御座います。」
今日の聖書の箇所には、招待を受けた客が上席を選んで座る様子が述べられています。おそらく招待する側も、客の身分などを調べ上げて、どちらが上、どちらが下と序列をつけていたことでしょう。これと同じことが、わたしたちの周りで、今日でも当たり前におこなわれています。結婚式や葬儀では、座席の順序を決めるのに一苦労します。でも、教会での式は、親族の席と一般の席を分ける程度で、それ以上のことはしません。何かの記念式典に出席すると、来賓が紹介されたり、来賓の挨拶を受けたりするのですけれど、ところが実際に来ているのは、その人の代理であることが少なくありません。代理として来ておられるかたには申し訳ないのですけれど、それはちょうど、金襴の袈裟のようなものだと、わたしなどは思ってしまいます。
今日の箇所の後半には、昼食や夕食の会を催すときに、兄弟や親戚や金持ちを呼ばずに、むしろ貧しい人や体の不自由な人を招きなさいということが述べられています。これもまた、少々無茶な話です。でも、ここで言われていることは、お返しをされるようなことはするな、誰かを招待するならば、お返しのできない人に、そしてお返しを当てにせずに、招き、接待しなさいということです。
京都の大店の主人は、一休和尚を招いたとなれば、この店の名前に箔がつく、ひょっとしたら将軍様にも紹介してもらえて、商売も大きく広がるかも知れない。そんなことを考えたのでしょう。この店の主人はけっして悪い人ではありません。みすぼらしい身なりのお坊さんがやってきたときに、ただ追い返したのではなく、小銭とは言え、ちゃんとお布施を渡しています。この主人が良い人か悪い人かと言えば、きっと良い人なのです。でも、結局、人が何を着ているか、何を肩書きとしてもっているかで判断してしまいました。そしてこのお話が本当に厳しいのは、わたしが同じ立場であったとすれば、やはり同じ対応をしてしまっただろうということです。
今日の聖書の箇所は、何をわたしたちに教えようとしているのでしょうか。話の背景としては、当時の社会において尊敬されるべき立場であった律法学者やファリサイ派の人々への風刺があるのは間違いありません。彼らは礼拝のために会堂に入ったときに上席に座ることを好み、また人々から挨拶されることを好んでいました。そのことはルカ11章43節に、「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ」と書かれていることからも明らかです。でも、今日の箇所は何も、招待されたときの座席の選び方といった社交のマナーが教えられているわけではありません。昼食会を開く時の客の選び方が教えられているわけではありません。あるいは一休さんの話で言われているように、人を見かけで判断してはいけないということが教えられているわけでもありません。主イエスが言われたのは、どうもそういったことではないようです。
7節以下の前半の話は、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」という言葉で締めくくられています。12節以下の後半の話は、「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」という言葉で終わっています。この最後の14節の言葉はかえって難しく感じてしまいますが、要するに、この世でお返しをしてもらえなくても、神さまはあなたのしたことを覚えていてくださるということでしょう。つまり、社交上のマナーやルールが教えられているのではなく、人間の高ぶりや、他の人から賞賛されることを求める気持ちというのが、いかに神さまの御心から離れていることかが、とても分かり易い譬を用いて語られているのです。
そして今申しました人間の高ぶりということには、個人的な面と、もっと大きな人間社会全体という面があると思います。個人的な面というのは、簡単に言って、あの人は偉そうにしているなといった、一人の人間としての態度や姿勢です。強圧的なものの喋り方とか態度とかです。でも、人間の高ぶりというときに、そんな個人的な面だけではなく、もっと大きな側面があるはずです。それは、わたしたちの社会が、より豊かになろうとし、より便利に、より文化的になろうとして、かえって人間としての大切なものを多く失ってきたことに表われており、しかもそれは今やますますはっきりしてきたのではないでしょうか。
このところ、アメリカからの牛肉の輸入はストップしたままです。鶏についても大問題になり、特に西日本では日常生活において深刻な事態に陥っています。鳥インフルエンザについて、最近わたしは、笹村さんという養鶏家のかたが書かれた文章を読みました。笹村さんは、現在の対応が、自然界を消毒して病原菌のいない世界にしようということであって、それは天に唾を吐く発想だと言われます。ケージに入れられた鳥たちは、病気にならないようにとさまざまなワクチンが投与されています。でも、ワクチンで対応できない病気は無数にあるのです。そしてケージに入れられていますから、一羽が感染すると、あっと言う間に感染が広がります。笹村さんは、自然養鶏をしています。自分のところの鶏は、感染をしても、発病しない自信があると言われます。このあたり、当然専門家によって意見の違いはあるでしょうし、反論もあることでしょう。でもわたしは、このかたのおっしゃることに多くを教えられました。
そして笹村さんは、本当に恐ろしいことを言っておられます。「鳥を野鳥から遮断しようと言うのが今の防疫の発想です。ウインドレス鶏舎で、できるだけ無菌状態で閉鎖した飼育をして行こうという流れです。・・この先待っているものは、人間がウインドレス室でしか生きられない世界です。今畜産で起きていることは、必ず人間におきてくることの前触れです。SFの世界ではありません。今起きていることは人類の史上初めての事態です。」
わたしたちの周りは、何もかもが便利になりました。わたしたちの周りは清潔で、衛生的です。何年か前から、抗菌グッズと呼ばれるものが出回っています。でも、わたしたちは昔と比べて健康的になったとは必ずしも言うことができません。かえって、ひ弱になってきているように思えてなりません。エイズにしても、サーズ、あるいはBSEにしても、近年わたしたちの生存そのものがおびやかされています。原因がはっきりしない病気や伝染病、毒性の強いウイルスなど、どうやらそれは、突然に起こった出来事ではなく、わたしたちの社会が作り出してきたもののようです。
今申したようなことだけではなく、ほかにもわたしたちを脅かすものがたくさんあります。テロとか戦争もそうです。日本教育新聞という新聞に、映画作家の大林宣彦さんというかたが、9・11のニューヨークでの事件について、あれは映画を作る人たちが夢見てきたパワーのある映像だった、それが実際に使われてしまったと指摘しておられました。夢見ることは大事でしょう。映画を作る以上ヒットさせようとするのは当然でしょう。でも、それが過剰なまでの殺戮と破壊の映像となり、しかもそれが現実となってしまったのでした。そして、大林さんは次のようなに書いておられました。「人づくりも、国づくりも、自分らしく、自らの夢や願いが叶えられるような人や国をつくるということですね。ところが、・・皆が皆、同じことを願い、考えているわけではないから、結局は強く、大きな、力ある側につく。皆で寄ってたかって、弱いものいじめをする。」
わたしたちが求めてきた自己実現なるものが、結局多くの人にとっての不幸や、破壊となりうるのです。大林さんはまた、「自分の夢よりも、他人の夢を、自分の願いよりも他人の願いを大切にする」ということを言われます。これは大林さん自身が、お父さんから教えられたことだそうです。
主イエス・キリストが、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言われたとき、それは具体的には、律法学者たちの思い上がりが問題とされていたのだと思います。今申し上げたことは、婚宴の席で上席を求める人たちの姿、目に見える賞賛を期待して昼食会や夕食会に人を招く姿、今日の聖書の箇所に書かれている人々の姿から比べれば、話が大きく広がりすぎていると思われるかも知れません。しかし、主イエスが教えられたこの言葉は、律法学者の一個人とか、ファリサイ派の一個人の問題ではなく、もっと大きく、わたしたちが何を求めて生きているのか、どのような社会を作り出そうとしているのかを問い掛けているのだと思います。
他人の夢などどうでもよく、自分の夢の実現のために働き、他人の願いを踏みにじってまで自分の願いを通そうとしている社会。一人ひとりは悪人ではないとしても、そして、誰もが良いものを求めていきながら、結果として人間に都合の悪いものを排除しようとしているのが今のわたしたちの社会です。映画作家の大林さんは、国づくりも人づくりも、まず、他国や他人の夢や願いを大切にすることであるにもかかわらずと言われます。大林さんはまた、わたしたち人間もまた、自然界の農作物の一つだと言われます。ところが自然界の農作物の一つである人間が、雨や風のことを邪魔者扱いし、雨や風を共存共生するものとしてではなく、敵として扱っていると言われます。
人間も自然界の農作物の一つ、これは面白い言い方だと思います。聖書の言葉で言うならば、人は神さまの被造物のひとつだということです。わたしたち人間が、この自然とわたしたち人間自身を神さまが造ってくださったということへの畏敬、畏れ敬う心を失っていること、ここに高ぶりの本質があります。人間の思い上がり、高ぶりの根本には、被造物としての人間の謙虚さの喪失があるのです。
さて、以上のように主イエスが語ってくださった譬話の持つ意味についてお話をしてきましたけれど、今ここでもう一度、ではこの譬話は何をわたしたちに教えているのかということに立ち返りたいと思います。教えの意味内容については既に申し上げました。宴会に招かれたときのマナーが語られているのではありません。もっと根本的な人間の生き方が問われていました。しかし、主イエスの譬話は、さらに大きな意味を含んでいるとわたしは思います。
普通わたしたちが譬話を語るとき、それは難解な話を分かりやすくするために譬を用います。抽象的で観念的な事柄を、なにか具体的なことに例えて話すのが譬話です。ところが主イエスの譬話は、必ずしもそうではありません。マタイ13章で言われているように、主イエスの弟子たちは、主が譬を用いて語られることを聞いて理解できません。そこで「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と質問をしますと、「だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と、主は返答をしておられます。この問答自体が難しいものでありますが、要するに、主イエスの譬というのは、わかりやすく語るというよりは、むしろ、主イエスご自身が生きられたその命というか、生きざまがかかっているのだと思うのです。そして、そこで表わされている主イエスの生きざまが、聞く一人一人の生きざまに対して、厳しく問いかけをしている、主イエスの譬話の難しさというのは、そこにあると思います。
今日はルカ14章を読みましたが、次の15章では、「見失った羊の譬」、「無くした銀貨の譬」、「放蕩息子の譬」、16章では「不正な管理人の譬」と続きます。これらは、どの譬を読んでみても、この世の価値観とは正反対とも言えることが語られています。見失った1匹の羊を探すために、他の99匹を野原に残しておくなど考えられないことです。銀貨1枚を見つけたからと言って、友だちや近所の人を呼んで一緒に喜ぶなど考えられないことです。けれどもここでは、そのような世の中の常識が教えられているのではありません。ヨハネ10章11節には、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と教えられています。主イエスの譬は、ただの教訓や、分かり易くするためのお話なのではなく、大切なことは、失われた1匹のためにはご自身の命をも捨ててくださる主イエスの生きざまが語られているということです。
話を今日の箇所に戻し、今日の箇所の譬話も、マナーとか教訓ではなくここには主イエスの生きざまがかかっています。前にルカ9章についてお話をしたときに申しましたが、9章ではすでに、主イエスは御受難のためにエルサレムへの旅を出発させておられます。今や十字架に向かっての旅をなさっているのです。今日のページの上の段には、「エルサレムのために嘆く」という話が書かれています。このような受難に向けての旅のさなかに語られたのです。それを思えば、主イエスが、14章10節で、「むしろ末席に行って座りなさい」と言っておられることが、ご自分の行く手を表わしていることがよくわかります。13節で、「宴会において、貧しい人、体の不自由な人を招きなさい」といわれていることも、主イエスがなさったことそのままです。
「むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」このことは、11節の「へりくだる者は高められる」を言い表しています。最初に一休さんのことを話しました。汚い服を着ていったら追い払われ、そこで金襴の袈裟を持っていった。とても分かり易い話です。でも、わたしはこれもまた、ただ人を外見で判断してはだめだという教訓として聞いてしまうと、不十分な気がします。大切なことは、一休和尚がこじき坊主の姿をして飾らずに生きたということではないでしょうか。残された肖像画を見ると、どこか頼りなげで、むしろ貧相な表情に見えます。
フィリピ2章にキリスト賛歌と呼ばれる歌があります。「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」わたしはこのキリスト賛歌を思い起こします。新共同訳聖書は、「客と招待する者への教訓」と見出しをつけていますが、わたしはこれを「教訓」とは思いません。「教訓」ではなく、自らが末席についてくださった主イエスが、わたしたちに与えてくださった、キリストの道への招きだと思います。

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