番町教会説教通信(全文)
2004年2月 「その人は身を起こし」           牧師 横野朝彦

ルカ6・6―11

2月号の「こころの友」の一面に、坪井節子さんという弁護士さんが紹介されています。弓町本郷教会のメンバーです。坪井さんはおもに、子どもの人権について取り組んでおられます。坪井さんが書かれた本に、「子どもは大人のパートナー」、「子育て新発見」などがあります。「子どもは大人のパートナー」のなかに、広美さんという17歳の少女の話が書かれています。彼女の人生はわたしたちの想像を絶するものでした。彼女は中学のころから家出を繰り返し、暴力団員との交際を続け、小学校5年のころからシンナーを吸い、中学2年のときから覚せい剤を打っていたそうです。家庭環境は家庭とは言えない悲惨なものでした。ここではこれ以上詳しくは述べませんけれど、どうしてこんなことがありうるのかと思えることが坪井さんの本には書かれています。そして坪井さんは、「子どもたちを非行に追いやっているのは、わたしたち大人です」と言い切っておられます。そしてまたこのように言っておられます。「しかし17歳になるまで実の親にも満足な愛情が与えられず、誰からも大切にされた経験のない彼女に、自分を大切にすることがどういうことかを実感させるのは並たいていのことではありません。人が自分自身を大切にし、他者を愛し尊重することができるようになるには、幼いころから無条件に愛され、大事にされ、慈しまれた経験と記憶が不可欠です。」このような困難のなかで、坪井さんは懸命にこの少女にかかわっていきます。そしてあるとき、広美さんは坪井さんに向かって言うのです。「先生、わたしいい子になるよ。」そして、坪井さんは、次のように書いておられます。「広美の言葉を思い返すたびに、あなたは悪くない、変わるべきは大人であるという怒りが湧き起こります。」

今あげたような例は、ここにおられる方々にとって、おそらく特別な例であろうと思います。広美さんのたどった人生は特殊なものと思えることでしょう。でも、だからといって、わたしたちもまた、これはとんでもない子どもだということで、すませるのではなく、坪井さんが「変わるべきは大人である」と言っておられることについて、少しでもわかるようになりたいと思うのです。

今日読んでいただいた聖書の箇所について、みなさんはこれは何について書かれたところだと思われるでしょうか。新共同訳聖書の見出しには、「手の萎えた人をいやす」と書かれています。ですからこれが病人の癒しについて書かれた奇跡物語であるのは確かです。でも、読んでみると、単なる奇跡物語ではないことがわかります。「また、ほかの安息日に、イエスは会堂に入って教えておられた。そこに一人の人がいて、その右手が萎えていた。律法学者たちやファリサイ派の人々は、訴える口実を見つけようとして、イエスが安息日に病気をいやされるかどうか、注目していた。」ここでわかることは、これが奇跡物語であるというよりは、むしろ律法学者やファリサイ派の人たちとの間におこった論争物語だということです。それは、この話の直前6章1節以下が「安息日に麦の穂を摘む」という物語であり、主イエスの弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだことについて生じた論争が描かれていることからもわかります。今日の話は麦の穂の話の続きのようなものなのです。

ある安息日、人々は礼拝のために会堂に集まっています。主イエスがそこで教えておられる。何について教えておられたのかはわかりません。ただ、ルカ4章16節以下に記されているところによれば、主イエスはイザヤ書の御言葉、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」を読まれ、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言されたのでした。今日の箇所6章で記されている主イエスの会堂での教えも、これと同じような力強い福音のメッセージであっただろうと思われます。

そしてこの会堂に手の萎えた人が一人いたのです。律法学者たちやファリサイ派の人々は、主イエスと、手の萎えたこの人に注目しています。イエスがこの人を癒されるかどうか注目していたのです。素晴らしい奇跡が起こるだろうかという注目ではありません。そうではなく、「訴える口実を見つけようとして」と書かれていました。なぜなら、安息日はすべての労働が禁じられていたからです。

ユダヤ教では一日の数え方がわたしたちとは異なり、日没から日没までです。そして安息日は今日の暦でいえば、金曜日の日没から土曜日の日没までとなります。申命記5章には次のように定められています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」

安息日の由来は、出エジプト記20章によれば、神さまが天地創造のさいに、六日の間にすべてのものを造り、七日目に休まれたからだということです。でも申命記では、この日は、奴隷の状態であったエジプトから解放された日として覚えられています。この二つの由来は、どちらも大事なことでしょうが、わたしはむしろ人々が自由にされた日としてこの日を覚える、解放の日というのが大事なように思います。ところが、人間というのはなにごとも、規則というものが人間自身を縛り付けるものとなってしまいます。本来、人間が他の人と共に生きるために、生き易いようにというルールが作られると思うのですが、作られたルールはしばしば一人歩きをして、人間を縛り付けます。

ユダヤ教の学者たちは、安息日に労働をしてはいけないというが、それなら歩くのはどの程度はいいのだろうかを真剣に考えていました。使徒言行録1章12節に次のような記述があります。「使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。」ユダヤ教で決められた安息日に歩ける距離は約1kmです。ほかにも、物を運ぶのはどの程度ならいいのだろうとか、人が井戸に落ちたなら、助けていいだろうかとか、あれこれ事細かに決められていました。このように細かく決められていると、確かに便利と言えば便利です。でも、それによって、あの人は決められた距離よりも100m多く歩いたとか、荷物を持っていたからあれは労働だなどと、今日のわたしたちからすれば、少々滑稽に思えるほどに、規則が人間を縛り付けていたのです。

本来、安息日は人間解放の日だ、だからすべての仕事を休んで、神さまを礼拝しよう、それが安息日の由来でした。ところが、先程見たように、律法学者やファリサイ派の人たちは、主イエスが手の萎えた人を癒すかどうかをうかがっています。もし癒されたならば、安息日に労働をしたということで訴えようというのです。これなどまさに本末転倒で、なんのための解放の日なのかわからないありさまです。

さて、会堂のなかにはこのように、福音を語られる主イエス、それを聞く手の萎えた人、そしてイエスを訴えようとしている人々と、なんとも言えない人間社会の縮図があります。皆さんはこの話のなかで、救いを必要とするのは誰だと思われるでしょうか。手の萎えた人が救いを必要としている、それはそのとおりです。でもそれだけではありません。むしろ、ここで問題とされるべきは、人が癒されるのを口実に、イエスを訴えようとしている律法学者たちの心の汚さや愛の無さではないでしょうか。その当時、体の障がいや病気やその人が罪を犯したためであると理解されていました。手の萎えた人は、何か神さまの前によからぬことをしたためにこのようになった罪人だと理解されていたのでした。でも、今日の物語で、罪人ということで言えば、わたしにはむしろ、イエスを訴えるために主が癒されるかどうかを伺っていたという人たちこそ、罪が深いと思います。そのため、今日の箇所の並行記事であるマルコ3章5節では、「そこで、イエスは怒って人々を見回し」とあります。このような人々の汚い心に主イエスは怒られたのです。弁護士の坪井さんの言葉を借りれば、「あなたは悪くない、変わるべきは大人であるという怒りが」主イエスにあったのです。「あなたは悪くない、変わるべきはここにいる律法学者やファリサイ派の人たちであるという怒りが」主イエスのなかには渦巻いていたのではないでしょうか。

福音書に描かれている人たち、特に病気の人たち、体の不自由な人たちは、多くの場合、それがたんに肉体的な病、肉体的な障がいと言うよりは、もっと社会的なものです。例えば、重い皮膚病を患っている人たちは、人と出会うと、「汚れています」といわなければならず、また町の外の宿営に住まなければなりませんでした。つまり強制隔離です。肉体が病んでいるかどうかではなく、宗教的に汚れているか否かで判断され、社会から捨てられたのです。主イエスの言葉とわざは、たんなる病気の回復ではなく、村八分にされた人々が人間として回復するために発せられ、行動されています。

そこで主イエスは、手の萎えた人に向かって「立って、真ん中に出なさい」と言われました。おそらく罪人と見なされていたこの人は、会堂の隅のほうで、目立たぬようにしていたのだと思います。しかし主イエスは、「立って、真ん中に出なさい」と言われます。言うならば、会堂のなかにいる人たちのなかで、中心と位置付け、つまり大事な存在として、真ん中に出るように促されたのです。この人は、「身を起こして立った」と6章8節にあります。なんでもないような記述ですが、わたしはとても大事だと思います。というのも、この人が主イエスによって呼びかけられ、促されるまで、この人は言うならば、身をかがめ、身を低くせざるをえない生き方を強いられていたと、この言葉から伝わってくるからです。

詩編44に、「我らの魂は塵に伏し、腹は地に着いたままです」と歌われています。あるいは詩編43には、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」と歌われています。わたしたち人間は、しばしば塵に伏し、腹は地に着いたままだというほどに、それこそうつ伏せになる状態、あるいはうなだれ、呻く状態に陥ります。手の萎えた人もまた、その場の雰囲気を察したのでしょう。それこそ居たたまれない、被差別、被抑圧の心境に打ちのめされていました。ところが主イエスは、そのような人に向かって、さあ、身を起こしなさい、立ちなさい、そして真ん中へ出てきなさいと、呼びかけを与えられたのです。

身を起こす、この言葉から聖書の御言葉をいくつか選ぶならば、パウロ、もとの名前サウロの回心を思い出します。彼は強い光に照らされ、地に倒れました。そしてひとたび地に倒れ、これまでの生き方が言うならば清算されたのち、彼は起き上がるのです。使徒言行録9章によれば、「サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け」たのでした。ルカ5章では、寝たきりであった人が、「皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」とあります。同じくルカ5章で、主イエスによって招かれた徴税人のレビは、「彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」ということです。主イエスの呼びかけによって、彼らは身を起こし、立ち上がったのです。それは、これまで座っていたのが立ち上がったという体の動きを表わしているだけではなく、生き方そのものが変えられ、これまでは周りの目によって、低くさせられ、苦しみを背負っていたのが、そこから解放されて身を起こした、それらから解き放たれて立ち上がったというべき出来事だと思います。そして主イエスはその人に向かって、「手を伸ばしなさい」と言われました。彼が言われたようにすると、手は元どおりになったのでした。

主イエスは、手の萎えた人をこのように癒されました。そして同時に、律法学者たちに向かって厳しい問を投げかけておられます。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」律法で定められたこの安息日の掟は、そもそもなんのためにあるのか、安息日はもともと人を解放するためのものではないか、旧約聖書の律法は、人に何を要求しているのか、よく考えてごらんなさいと言われています。今日の箇所の直前の麦の穂の論争で、並行記事であるマルコ2章では、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われています。イエスのこの言葉はいろいろと言い換えることができるはずです。この世の法律は人のためにあるのであって、人が法律のためにあるのではない。あるいは、この社会の文明やさまざまな道具は、人のためにあるのであって、人が社会のため道具のためにあるのではないということです。

どんなにそれが大事な掟であっても、どんなにそれが便利なものであっても、大事な約束事であっても、それは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。よく考えてごらんなさい。本当に癒しが必要なのは、手の萎えたこの人ではなく、むしろあなたがたなのですよ。生き方を変えるべきは、むしろあなたがたなのですよ。主イエスの言葉は厳しく彼らに突き刺さります。でも、彼らはそれを聞いて、あぁ自分たちが悪かったとは思いません。11節によれば、かえって、「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」ということです。

主イエスが心からの愛を、手の萎えた人にあらわされたとき、人々は主イエスを敵対者とみなしました。主イエスが十字架にかけられたのも、主イエスの生涯が十字架に至る道であったのも、愛をあらわすために、変わるべきはあなたたちだという言わば告発を、結果として律法学者たちに突きつけたことになったからです。

その意味で、今日の物語は、この社会で低いものとされていた人が身を起こす話であり、同時に、この社会で自分たちこそ高いと思っていた人たちが、身を低くさせられる出来事でした。これは今月11日の礼拝で、ルカ3章をとおしてお話をしたとおり、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」という出来事であり、またマリアの賛歌にもつながる重要なメッセージです。そしてイザヤ書40章には次のように歌われています。「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。」ルカ3章で、「谷はすべて埋められ」とあったのが、イザヤでは「谷はすべて身を起こし」となっています。そしてこれこそ、聖書全体をとおして、表わされている福音であり、それは主イエスがわたしたちのもとに来てくださったことによって実現をしたのです。

(2004年1月25日 礼拝説教)