番町教会説教通信(全文)
2004年12月 「神は我々と共におられる」       牧師 横野朝彦


マタイ1・18―25

 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」 この聖書の御言葉は、クリスマスの中心的なメッセージだと言うことができます。

クリスマスとは、神さまがいつもわたしたちと共にいてくださるという恵みの出来事です。インマヌエルと呼ばれる幼子、それは直接には、旧約聖書イザヤ書7章14節の預言の実現です。イザヤ書には、「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」と記されています。神さまが御独り子をわたしたちに与えてくださる、それは神さまがわたしたちと共にいてくださしるしなのだと預言され、そして時満ちてユダヤのベツレヘムに幼子が生まれた。それがクリスマスのメッセージであり、喜びの知らせ、福音なのです。

それでは、神さまがわたしたちと共にいてくださるとはどういうことでしょうか。順調にものごとが行っており、自分に自信満々の人にしてみれば、神さまが共にいてくださると言われても、それほど喜びとはならないでしょう。神さまがおられますと言われても、うっとおしいぐらいにしか思わないかも知れません。わたしには宗教は必要ないという答が返ってくるかも知れません。はっきりと言えることは、神さまが共にいてくださるという知らせは、自分ひとりでは生きることができないという恐れと不安のなかにいる人にとってこそ喜びの知らせだということです。お読みしたマタイ1章の天使の言葉も、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と、「恐れず」という言葉で始まっています。この言葉を聞いたとき、ヨセフの心には恐れがありました。だからこそ、これは福音なのです。

キリスト教カウンセリングセンターの賀来周一先生は、「クリスマスの風景」という本のなかで、中国を訪れたときのことを書いておられます。キリスト教会を訪れると、いくつもの教会の正面になにやら漢字で同じ4文字の言葉が書かれている。「以馬内利」、これはどんな意味かと聞いてみると、インマヌエルだというのです。

教会の会堂の正面にインマヌエルと書かれている。少なくともわたしの知る限りでは日本の教会で会堂の正面にそのような文字を書いているところはありません。そこで賀来先生は、なぜインマヌエルなのですかと質問をしたところ、それは1966年から10年間続いた文化大革命のとき、教会は苦難のときを過ごさなければならなかった、その時のことを思い返すためだというのです。

中国は現在でも宗教に対して独自の政策を取っていますが、文化大革命のときにはすべての宗教に対して厳しい弾圧がありました。仏像なども多く破壊されました。しかし、そのような苦難の時を乗り越えることができたのは、インマヌエルなるお方を信じることが出来たからだと、だからこそ会堂の正面にこの文字を掲げているのだというのです。

賀来先生は牧師であり、またカウンセリングの専門家でありますが、死に行く人たちへのケア、ターミナルケアにおいての「共にいる」ことの大切さを次のように述べておられます。「患者さんから『もう死んでしまいたい』などの深刻な質問をされたときには、どれほどカウンセリングの知識や技術を持っていても役に立たない・・もし患者さんから深刻な答えに窮するような質問を受けたときは、その人は患者さんから見れば、なくてならぬ重要な存在だからだ。その人の存在そのものが患者さんに必要なのだ」と、このように述べておられます。

よく言われるように、「もう死んでしまいたい」とは、もっと生きたいという思いの表われなのでしょうが、それと同時にこの言葉には、共に生きることへの強い願いがこめられているのだろうと思います。ですから、相談を受けた側にしてみれば、それに対応する適当なマニュアルなどはないし、そのときはこう答えたらよいなどという模範解答はありえません。賀来先生によれば、ただ出来ることがあるとすれば、それは「語る言葉をもたずに立ち尽くす」ことだということです。しかしそのことさえ、どれほど難しいことでしょうか。

もうひとつ別の例をあげます。わたしたちの教会は昨年来、タイにあるエイズ患者・HIV感染者の施設バーンサバイとつながりを持たせていただいています。昨年一度こちらから訪問し、またスタッフの早川さんが一度、青木牧師が何度も番町教会に来てくださり、礼拝説教や祈祷会での話をしてくださいました。数日前にバーンサバイのニュースレターが届きまして、これは教会の集会室に置いていますからぜひご覧いただきたいと思いますが、ここにデーンさんというかたの手記が掲載されています。

「デーン・プラスート波瀾の人生の記録」と題され、前号から2回にわたって連載されたものです。前の号では宗教学の大学に入学をした自分にとってエイズなどは関係ない話だと思っていたこと、そんな自分が徴兵制によって軍隊に入ったこと、軍隊の先輩たちに誘われて売春宿に行ったこと、同じ時期に事故に合い、非加熱の血液を6本も輸血したこと、そしてHIVの感染がわかったこと、自分としては輸血による感染だとは思うが、そうは言い切れないこと、こういったことが書かれていました。

今号には、デーンさんが自分の余命がいくばくもないならば、残された人生に何をすべきなのかを考えて、し始めたことが書かれています。それは自分と同じようにHIVに感染した人たちの家を訪ね、彼らをサポートする仕事でした。なぜそのようなことを始めたのかというと、HIVやエイズという病気は感染した人を肉体的な病気に陥らせるだけではなく、もっと根本的に人と人とのつながりを断ち切るからです。デーンさんの言葉によれば、「彼らは、村の人たちから受け入れられず、自分の村を出なければなりませんでした。また、彼ら自身も自分を受け入れることができずにいました」ということなのです。

エイズというのは免疫抵抗力をなくし、生命力を失わせる病気でありますが、周りの人たちから受け入れられない、そればかりではなく、自分で自分を受け入れることができないとなると、ますます生命力は失われるばかりだと思います。そのため、抗HIV薬を飲んで病気の発症を抑えなければなりませんが、問題は、薬だけのことではなく、もっと根本的なところで、人と人とのつながりを回復させること、今日お話をしてきたことでいえば、共に生きることをどのように作っていくかということなのです。

先日わたしはまた、こんな話を聞きました。それはエイズにかかった男性が、その悩み苦しみを聞いてもらいたいと、ある教会を訪ねたのでした。ところが、その教会の牧師は、ひとこと「悔い改めなさい、そうすれば病気は治る」と言うだけであったそうです。なんとも悲しい、情けない対応の仕方です。この牧師には、エイズに対する偏見があったのでしょうか、あるいは無知だったのでしょうか。この人がするべきことは、「悔い改めなさい」と言うことではなく、先に紹介した賀来先生の言葉を用いれば、「語る言葉をもたずに立ち尽くす」ことだろうと思います。

「語る言葉をもたずに立ち尽くす」こと、それはなんだかとても頼りないことのように聞こえるかも知れません。けれどもそうではないのです。何か気の利いた言葉が語られるわけではなく、特効薬が処方されるわけでもない、けれども、悩み苦しみのなかにある人の傍らにいて立ち尽くすことは、場合によっては、医療やカウンセリングの知識や技術よりも大事な働きをすることがあり、あるいは抗HIVの薬よりもその人に生命力を与えるのではないでしょうか。

インマヌエル、神がわたしたちと共にいてくださるとは、まさしくそのように、恐れと不安のなかにある人々にとって、大きな喜びであり、福音でありました。そして聖書は、神さまがわたしたちと共にいてくださるかたであると繰り返し伝えています。聖書を紐解くならば、同様の言葉があまりにも多く出てくるのに気付かされます。言い換えれば、それが聖書の核心となるメッセージだということです。

創世記26章にはベエル・シェバにいるイサクのもとに神さまが現われて言われます。「わたしは、あなたの父アブラハムの神である。恐れてはならない。わたしはあなたと共にいる。」 ヨシュア記1章では、モーセの後継者ヨシュアに対して神さまは言われます。「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」 同じくヨシュア記1章に、「あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と言われています。イザヤ書41章には、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神」と語られています。

ほかにもたくさんありますけれど、今ここで引用した言葉をみると、そのどれもが、「恐れてはならない、うろたえてはならない、おののいてはならない、たじろぐな」といった言葉と一緒に用いられていることがわかります。このことを言い換えれば、「わたしはあなたと共にいる」という知らせは、ほかならず、恐れている人、うろたえている人、おののいている人、見放されていると思っている人、見捨てられていると感じている人、たじろいでいる人、まさしくこのような人々に向かって語られた言葉だということです。そして彼らが、「わたしは共にいる」という言葉を聞いたとき、その恐れは取り去られたのでした。

そして「わたしはあなたと共にいる」と言ってくださる神さまは、救い主到来の預言の約束にしたがって、その独り子を与えてくださった、それが「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というかたでした。インマヌエルなる主イエスは、福音書に書かれているとおり、この世の重荷を負う人、病める人、苦しむ人と共に生きてくださいました。社会のシステムのなかで疎外されている人、周りから受け入れられない人、自分で自分を受け入れることができない人の友となられました。マルコ5章に悪霊につかれたゲラサ人の話が書かれていますが、あの物語でゲラサ人は人里離れた墓場を住みかとしていました。そして石で自分を打ち叩いたりしていたのでした。これこそ周りから受け入れられず、自分で自分を受け入れられず、悩み苦しんでいる人の姿だと思います。主イエスはこのような人と出会ってくださったのです。

神さまがくださる喜びの知らせのことを福音と言いますが、先日本を読んでいると、こんなことが書いてありました。「福音とはなにか、10語以内で聞かせてくれ」と問いただす人に対して、ある伝道者は次のように答えたのだそうです。「わたしたちは皆ろくでなしだが、それでもとにかく、神はわたしたちを愛している。」これは福音とはなにかをあらわす適切な解答だと思います。古くから言われている、キリスト教的な、信仰的な表現を用いるならば、いさおしのないままに神はわたしたちを愛してくださっているということです。相手が立派な人だから愛するとか、相手が自分に都合のよい人だから愛するとかというのではなく、たくさんの問題を抱えていながら、なおその存在を認め、共にいてくださったのです。

昨年11月に本所緑星教会の森山牧師が天に召されました。森山牧師は平和運動などにとても熱心な活動をしておられました。わたしには活動家という印象がありました。ところがわたし自身が東京に住むようになって、森山牧師に親しくお会いする機会ができて気付いたことは、とても温厚で、わたしなど足もとに及ばないジェントルマンだということでした。いっぽうで社会活動に熱心で、急進的な党派の人たちの救援にもかかわっておられました。森山牧師が天に召され、わたしは前夜式に出席をしましたが、そのとき、ひとりのかたが森山牧師の生きざまについて紹介されました。ああいう党派の人たちの救援にかかわると、あの党派の仲間だと思われるという忠告に対して、森山牧師は、自分と同じ意見の人を助けてもそれは救援活動とは言わない、救援とは自分と違う意見の人に手を伸べることだと、正確な言葉は忘れましたが、このような趣旨の返答をされたそうです。

わたしはこの言葉を聞いてはっと気付かされるような思いがし、また、心打たれました。と同時に、あぁ到底わたしには真似のできない生き方をされたのだと思わされました。主イエスは、山上の説教のなかで、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。・・自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか」と教えておられますが、わたしたちはどうしても、自分を愛してくれる人だけを愛し、自分の兄弟だけに挨拶をしてしまいます。そしてそれ以外の人に手を差し伸べたりすると、あの人はあの党派の人たちの仲間だと、レッテルをはってしまうのです。これこそまさしく、主イエスが「あれは徴税人や罪人の仲間だ」と言われたのと同じことだと思います。

主イエスはまさしくそのように社会において疎外されている人と共に生きられ、そしてご自身が社会から捨てられたのでした。そしてその行き着く先に十字架があったのです。主イエス・キリストが、インマヌエル、神我らと共にいますかたであるということは、ただなんとなく一緒にいるのでないのは言うまでもありません。お話をしてきたように、わたしたちが周りから受け入れられないときにも、そして自分で自分を受け入れられないときにも共にいてくださるということです。そして仮にわたしたちがどこかへ迷い出たときには、岩山、荒れ野を探し求め、失われたものを見出してくださるのです。わたしたちの正しさとか、行いによらず、わたしたちの罪をそのままに赦し、共にいて、愛を注いでくださるのです。

そしてこのように共に生きてくださった主イエスは、今もわたしたちと共にいてくださっています。マタイによる福音書は、1章の今日お読みした箇所で、インマヌエルなるかた、神我らと共にいますかたの誕生を告げています。そして主イエスの公生涯を描き、その教えと働きを述べ、十字架と復活を証言しています。そして28章30節、マタイによる福音書の一番終わりに書かれた言葉は、復活の主イエスが弟子たちに与えられた最後の言葉です。それは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」という言葉です。マタイによる福音書はこのように、主イエスこそが神さまから遣わされたインマヌエルなるおかたであることを証言し、そして今もわたしたちと共にいてくださることを告げているのです。

さて、神さまがいつもわたしたちと共にいてくださることを聞いたわたしたちは、この福音に生かされて、わたしたちもまた他者と共に生きる道を歩むことを促されています。ヨハネ第一の手紙4章に、「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」と教えられているとおりです。しかしながら、このことは決して簡単なことではありません。わたしたちはどうしても、共に生きる相手を選んでしまいます。「あれは徴税人や罪人の仲間だ」と言われるのを恐れてしまいます。そしてまた、共に生きようとする相手の抱えている問題の重さにたじろぎ、言葉を失い、何もできず、何も言うことができず、立ち尽くしてしまいます。他者と共に生きるなど、口では言えても、本当のところ何もできないのがわたしの姿なのです。

そんなわたしに対して、最初に紹介した賀来周一先生が次のように述べておられます。「語る言葉をもたずに立ち尽くす、そのかたわらにインマヌエルなる方はおいでになる、だからこそ、そばにいることが許されている、『共にいる』とは、そういうことではないでしょうか。」

わたしが誰かと共にいることなど、わたし自身の力ではできない、けれども、インマヌエルなる方がそのかたわらにいてくださるがゆえに、わたしもまた誰かのそばに立ち尽くすようにしておらせていただくことができる。福音を聞き、福音に生かされるとは、まさしくそういうことなのだと思います。

(2004年12月19日 クリスマス礼拝説教)