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詩編139・1―10
ローマ11・33―36
先ほどご一緒に讃美歌の463番を歌いました。「わが行く道 いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主は御心 なしたまわん。」わたしたちの歩む道が、いつどのようになるのかは分からない。けれども神さまはわたしたちを助けてくださる。神さまの御心をあらわしてくださると歌われています。
わたしが学んだ学校の建物の一つに、言葉が刻まれていました。「行け、行け、平和のうちに行け、強くあれ、神秘の御手があなたを導くであろう」と、英語で書かれていました。学校の創立者が第一回の卒業式のときに英語で語った言葉だと記憶しています。入学をして間もないころのわたしは、この言葉がとても気にいりまして、とても励まされたのを思い出します。そして、今卒業をして何十年も経って、考えてみれば、まさしくこの言葉のとおり、神秘の御手の導きが自分に与えられていたことを思わされます。
別の建物にはまた、一艘の船がレリーフになっていました。それは創立者である新島襄が、鎖国の時代に禁をやぶってアメリカに渡った船でした。その船のレリーフは、あたかも、福音書に記されている嵐の中の船を思わせるものでした。いったいこの船はどこ行くのか、どこへ流されるのか、そのような思いにさせられることの多いわたしたちの人生でありますが、しかし、神秘の御手がわたしたちを導いてくれている。このことを信じて行きたいものです。わたし自身、もちろんこれからも、嵐に出会うことでしょうし、船が思いがけない方向に流されることもあるでしょうが、けれどもそれは必ず、神さまの導きのうちにあるのだと思います。
旧約聖書創世記に書かれているヨセフ物語は有名ですからご存じだと思います。ヤコブの息子たちの一人ヨセフは、お父さんの偏愛を受けていました。それをねたんだお兄さんたちは彼を穴に突き落とし、彼を外国に売ってしまうのです。ヨセフはその後エジプトの地で重要な地位につきます。そこへお兄さんたちが飢饉のために食料を求めてエジプトへやってくるのです。そこでヨセフは言います。「神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です。」ヨセフは、現実には兄たちに売られ、エジプトでも無実のままに牢に入れられるという体験をしてきたのですが、神さまはわたしたちを大いなる救いに至らせるためにわたしをこのように先に遣わされたのだ、「わたしをここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と語るのです。まさに神秘の御手をもって、神さまはわたしたちを導いておられると言います。
その後、時代が流れ、彼らの先祖たちがエジプトで奴隷の状態に置かれたときに、神さまは彼らをエジプトから脱出させる、出エジプトの出来事がおこるわけですが、このことは神の民とされたイスラエルのすべての生活の基盤とも言える出来事でした。神はエジプトから民を導きだされた、この言葉は、旧約聖書のキーワードです。調べてみましたところ、「導く」という言葉が旧約聖書全体で200数十回使われているのですが、その半数近くが、エジプトから導きだすというように使われているのです。
出エジプト記13章には「主が力強い御手をもって、我々をエジプトから導き出された」とありますし、申命記5章では、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない」とあります。ほかにも数え切れないほど例をあげることができます。これは旧約聖書の信仰の原点なのです。この信仰があるからこそ、詩編23で、「主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」と言うことができるのであり、詩編107で、「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから導き出された」と言うことができるのです。そしてこのことは、今日読んでいただいた詩編139でも歌われているところです。10節にあるように、神さまは「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」のです。この信仰と信頼に生きてきたのが、詩編の詩人であり、また、神の民とされてきた人々の歩んできた道でありました。
最初に少し話をした新島襄について申しますと、彼はともかく外国で勉強をしたいという一心で函館から、密かに船に乗り込みます。もし見つかれば幕府から極刑に処せられるでしょうし、また乗り込んだ船で外国人たちが自分を守ってくれる保障などありません。彼はこうして上海に渡ります。彼は船に乗せてもらうお礼として、身につけていた大刀を船長に差し出しました。武士である彼が刀を差し出したのでした。そのとき、船長は彼に一冊の聖書を与えました。そして上海から香港を経てボストンに渡り、いよいよアメリカの土を踏みます。函館を出てから1年と1ヶ月の旅でした。このときの彼のことを当時の人は、「言葉の通じない無一文の亡命者」と言っています。
それでも、船に乗っている間に、片言は話せるようになっていたようです。アメリカについて間も無く、まだ船が岸壁につながれているときに、彼は古本屋さんで「ロビンソン・クルーソー漂流記」を買っています。もちろん英和辞典など無い時代に、彼はそれを熱心に読んだそうです。新島自身が後の時代に書いた文章に次のような一節があります。「ロビンソン・クルーソーは、最初に、祈ることをわたしに教えてくれた。・・難破したかのロビンソン・クルーソーは、苦難の中で神に祈った。どうしてわたしが祈らないということがありうるだろう。このようにして、わたしは毎晩、寝床にはいると、どうかわたしをみじめな状態の中へ投げすてないでください、どうかわたしの大きな志をとげさせてください、といって神に祈った。」
アメリカで教育を受けたいという希望はあっても、お金はない、言葉も通じない、前途の当てがなく、不安で、孤独で、まるで孤島に流れ着いた漂流民のような状態であったと思いますが、新島はこのとき、神さまへの信仰とは言えない程度のものであったとしても、祈ることを始めたのでした。
詳しいことは申しませんが、その後新島は、ボストンの学校で学び、次に大学を卒業し、さらに神学校を卒業し、牧師としての資格を得ています。函館を出てから10年の歳月です。このような歩みをみると、「行け、行け、神秘の御手があなたを導くであろう」というのは、彼自身の体験から来た言葉であることがよくわかります。ロビンソン・クルーソーのように、ただ神に祈るしかすべのない状態で彼は祈り、そして神秘の御手の導きを体験したのでした。
詩編139について少しお話をします。この詩は、注解書によれば「信頼の歌」と説明されていました。「主よ、あなたはわたしを究め、わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り、遠くからわたしの計らいを悟っておられる。」このように、神さまがわたしたちのすべてを知っておられることが、信仰の告白として歌われています。この場合にひとつ注意をしたいのは、「知っておられる」という言葉の意味です。神さまはわたしたちの一挙手一投足を知っておられるとすれば、考えようによれば、これはいつも監視されている囚人のようなものです。何か悪いことをするのではないか、もし悪いことをしたら懲らしめてやろうと、じっと見張られている。「知っておられる」というのはそういう意味ではありません。
「聖書大辞典」という本で「知る」という言葉を調べてみました。すると興味深い説明がされていました。旧約聖書の言葉で「知る」とは、知的、理性的な意味で使われることはごくまれで、ほとんどは「感ずる」、「注意を向ける」という意味だというのです。そしてもう一度聖書注解書を見ると、「知るとは、この場合、人に関心を持ち、人生のあらゆる歩みに同伴して人を守ること」と書かれていました。わたしはこれを読んで、なるほどと思い、詩編139で歌われていることの大きな意味を教えられたのでした。
3節、「歩くのも伏すのも見分け、わたしの道にことごとく通じておられる。」わたしたち自身は自分の道をわかっていないことがしばしばですけれど、ここでは神さまがわたしたちの歩むべき道をすべて知っておられる、それも知識としてではなく、わたしたちの同伴者として関わってくださっているということでしょう。4節、「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」わたしはこの言葉を読んで、マタイ6章で主イエスが祈りについて教えられ、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と語られたことを思い起こしました。
さて、7節以下で詩人は「どこへ行けば、あなたの霊から離れることができよう」と歌います。天に登ろうとも、陰府に身を横たえようともと、どこへ行っても神さまから逃れることができないと言うのです。詩人は神さまから逃れたいと思っているのでしょうか。そのために一説によれば、この詩の詩人は罪の自覚にさいなまれ、裁きから逃れたいと思っていたのだと解説されます。でもわたしは、そういうことでもないだろうと思っています。旧約聖書の預言者ヨナが、預言者として召し出されたときに、そのような重い任務につくことはできない、そんなことは自分にはできないと、船に乗って逃げ出しましたけれども、大きな魚に呑まれるという体験を経て、与えられた使命を果たしにニネベの都に向かったように、神さまはわたしたちの思いや計画をはるかに超えて導きを与えておられるというのが、7節以下で言われているところだと思います。
さて今日は、詩編と共に、ローマの信徒への手紙11章を読ませていただきました。これは日本基督教団の聖書日課に従ったものです。パウロはローマ11章で、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と述べ、神さまがわたしたちの思いを遥かに超えたかたであると述べています。第二イザヤは、イザヤ書55章で次のように言っています。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」パウロの念頭には、イザヤのこの言葉があったのかも知れません。というのは、「道」という言葉が似ているだけではなく、もっと内容的な類似があるからです。それはすなわち、「神の道」という言葉の意味です。神の道とは、神さまが歴史において遂行される救いの道筋のことなのです。
イザヤ書は大きく書かれた時代が3つに分かれますが、イザヤ55章は第二イザヤの最後の章です。第二イザヤは捕囚の民とされた人々が故国に帰還することが述べられます。そして何より重要なことは、そこで神さまが「主の僕」、「苦難の僕」を遣わして、人々の重荷を担い、人々の病を担い、それによって救いを表わされると語っているのです。このような神さまの救いの不思議さが述べられたうえで、「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり」と述べられている。つまり、神さまの救いはわたしたちの思いを遥かに超えて実現されると述べられているのです。パウロがローマ11章で述べていることも、イスラエルの救い、異邦人の救いが述べられたあとで、「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」と述べられているのです。
以上のことから、わたしたちは今、二つの観点から考えていかなければなりません。それは一つに、わたしたちの生きる道、人生という道です。そしてもう一つは、神さまがわたしたちに用意しておられる救いの道、信仰の道ということです。人生という道についてはすでに申し上げました。わたしたちは人生の道の計画を立てます。それがそのとおりに行くとは限りません。またわたしたちは人生の道を歩むときにさまざまな患難辛苦に出会い、不安に陥り、孤独に陥ります。けれども、「わが行く道 いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主は御心 なしたまわん」と歌われているとおりに、神さまはわたしたちにもっともふさわしい道を、ふさわしい時を備えて与えてくださっているのです。そして時にはわたしたちの意に添わない道を歩まなければならないでしょうけれども、それでも神さまは「御手をもってわたしを導き、右の御手をもってわたしをとらえてくださる」のです。
もう一つ、信仰の道について申し上げるならば、パウロはローマ書で神の民とされてきた人たちの救いについて述べ、異邦人とされてきた人たちの救いについて述べています。あの人たちは神さまに近いと思われていた人たちがそうではなく、あの人たちは神さまから遠いと思われていた人たちが近いというように、人間や、あるいは宗教というものが人を選別してきたことについて、神さまはわたしたち人間の価値判断とは違うところで救いを用意されているのだと言います。
教会に集い、キリスト者となられるかたの歩みにしてみても、千差満別です。ある人は長い信仰をもっています。ある人は来始めたばかりです。ある人は聖書を研究したいと思いました。ある人は讃美歌が好きでした。ある人は何かの苦しみを体験して救いを求められました。ある人はなんとなく教会に来始めました。なんとなくというと言葉はよくないかも知れませんが、でも、そういった違いは優劣ではないのです。主イエスがマタイ19章ほかで教えてくださっているように、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」のです。そして、わたしたちの思いを超えたところで、神さまの御手はわたしたちを導いてくれているのです。
以上のように、神さまは、人の歩みについても、そして救いの道についても、わたしたちの思いを超えたところで備えをしておられる、それが聖書の語るところです。パウロは第一コリント10章で、神さまは「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」と語っています。あるいはローマ8章で述べているように、神さまは「万事が益となるように共に働」いてくださっているのです。そして何よりも、神さまが共に働くとは、主イエス・キリストによって、神さまご自身がこの世の痛みや苦しみを負う道でした。
そうであるならば、わたしたちがさまざまな困難に出会うときに、必要以上に恐れたり、不安に陥らないようにしたいものです。恐れや不安は避けられないことです。でも、それがわたしたちの歩みを止めてしまうような、そんなことにならないようにしたいものです。
今日は、讃美歌463番から話を始めました。この後ご一緒に歌う讃美歌は、469番です。これはディートリッヒ・ボンヘッファーが獄中で書いた詩がほぼそのまま讃美歌の歌詞になっています。「善き力にわれかこまれ 守りなぐさめられて 世の悩み 共にわかち 新しい日を望もう」 とても安心感に満ちた、平穏な心と、明日への希望にあふれた言葉で、わたしはこの歌が大好きです。でも、この詩が書かれたとき、ボンヘッファーは獄中にいました。孤島に流れ着いたロビンソン・クルーソーとはまた違った意味で、孤独で不安でした。けれども、彼は神がいつも共にいて、わたしたちも守り導いてくれていることを知っていました。そしてだからこそ、469番の3節にあるように、「たとえ主から差し出される杯が苦くても、恐れず感謝をこめて 愛する手から受けよう」と歌ったのでした。
わたしたちの歩みは、まさしく「わがゆく道いついかに」なるかはまるでわかりません。時に苦い杯をも受けねばならないでしょう。しかし、神さまはわたしたちの歩くのも伏すのも見分け、わたしたちの道にことごとく通じておられ、神秘の御手をもってわたしたちを導いてくださっている。そのことを信頼して歩みを進めたいと願います。

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