番町教会説教通信(全文)
2003年9月 「自分を愛するように」           牧師 横野朝彦

ローマ13・8―10

わたしは先月18―22日、教会から遣わしていただく形で、タイを訪問しました。タイ北部、チェンライという町にあるサハサースクサ・スクールに、子どもたち3人の奨学金を届けるためです。ここに奨学金を送るのは、これで4年目になります。このことについては、多くのかたがご存知のことですが、今一度整理するためにも、説明をさせていただきます。

以前、番町教会ではある団体をとおして第三世界の子ども二人の里親になっていました。それはそれで良い働きであったと思います。ただ、いくつか問題がありました。一つは、お金を出して、向こうから年に一度手紙なども届くのですが、実際には相手の国がどこにあるのか、そこがどんなところなのかもほとんど知らない、分からない、まあ積極的に知ろうとしなかったという問題があるでしょうけれど、結果としてはそれを扱っている団体にお金を出すだけの関係ということでした。もう一つの問題は、わたしたちが出しているお金のおそらく半分以上は、その団体の活動費になっているということでした。それは悪いことではありません。実際そのように活動費が必要なのだと思います。でも、もう少し、良い交流ができないだろうか、そんなことを考えているときに、同志社神学部の原誠先生から、タイの山岳民族の子たちに奨学金が必要だと聞いたのです。

タイの山岳民族と言いましたが、もともとは、タイ、ビルマ、ラオスにまたがって住む、その地での先住民です。ところが、お聞きになったことがあろうかと思いますが、タイ、ビルマ、ラオスの3つの国が接するところは、ゴールデントライアングル、別名魔の三角地帯と言われます。麻薬の栽培地です。番町教会で、「教会のコーヒー」という名前のコーヒーを販売していますが、これは魔の三角地帯で、麻薬が作られていたところで、コーヒーを栽培してもらって、生活自立の支援をしているNGOのものです。また、山岳民族の女の子たちが、貧しさのゆえに町に売られ、なかには、遠く日本まで売られてきているという現実があります。そういう状況のなかで、親たちは、なんとか子どもに教育をつけさせたいと考えるのですが、教育のためのお金がありません。そんなことから、奨学金をという話がわたしたちのところに届いたのでした。

そして、今から3年前、2000年の夏に開かれた教会修養会で、原先生に講師としてきていただき、主題「国際交流から学ぶもの」、副題として「タイの山岳民族のクリスチャン」という題で話をしてもらいました。そしてその年の9月半ばに、わたしと今田淳一さんの二人がタイを訪問し、サハサースクサスクールに奨学金を届けたのです。そして翌年は外崎厚さんとわたしの二人が行きました。

訪問することになったとき、ちょっと戸惑いもありました。というのは、最初の年には二人分の奨学金だったのですが、それよりも、一人分の旅費のほうが高かったからです。そのお金を奨学金にまわせば、もっとたくさんの子が学校に通えると思いました。でもそれならば、まるで見も知らぬ国の、見知らぬ学校の、会ったこともない子どもにお金を送っているだけの一方的な関係になってしまいます。交流というのは一方通行ではなく相互の関わりだと思いますし、また片方があげる、片方が受け取るという関係ではなく、互いに覚え、互いに支えあう双方向の関係でありたいと思ったのです。

聖書は、わたしたちに「あなたの隣り人を愛しなさい」と教えてくれています。今日読んでいただいた箇所にも、隣り人を愛するということが、律法をまっとうすることだと言われていました。旧約聖書に書かれている律法には、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、たくさんの掟が書かれています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」というのは十戒のなかの4つの戒めですけれど、聖書にはほかにもこと細かく掟が記されています。また、ユダヤの人々はそれだけでは足らないと、ミシュナーと呼ばれる律法の解釈書をまとめて、日々の生活の細かいことまでこれは良い、これは悪いと決めていったのです。そして今日読んでいただいた聖書の箇所では、そんな細かい掟をいちいち言わなくとも、律法というものは、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されるのだと述べられているのです。

この、「隣人を自分のように愛しなさい」とは、もともとは旧約聖書のレビ記に出てくる言葉です。19章18節に、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」と書かれています。また言葉の直後34節に、次のように言われていることも大切だと思います。「あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」この言葉は、本当に大事な教えとして覚えられ、新約聖書にもなんども引用され、今日の箇所ではこれは律法を要約するものだと言われているのです。

ヤコブの手紙というのは、わたしたちの信仰がおこないを忘れたものであってはならないと教えている書物ですが、この手紙の2章8節に、次のように書かれています。「もしあなたがたが、聖書に従って、『隣人を自分のように愛しなさい』という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。」これはちょっと皮肉っぽい言い方で、実は実行できていないのではないかと言っているのですけれど、ここでは「隣人を自分のように愛しなさい」が、「最も尊い律法」と表現されていました。

さてこのように、隣人を自分のように愛することの大切さはわかるのですが、それでは、隣人とは誰のことでしょうか。ルカによる福音書10章に、いわゆる良きサマリア人の譬話があります。一人の人が主イエスを試そうと、質問をします。彼は律法の専門家ということですから、律法学者なのでしょうか。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と質問をします。すると主イエスは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われるのです。質問をした人は、律法の専門家ですから、「何と書いてあるか、どう読んでいるか」と訊かれて、「知りません」と答えるわけにはいきません。そこで彼は答えるのです。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」そして主イエスは言われます。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」このように言われると、せっかくイエスを試そうとしたのに、すっかり攻守逆転してしまっています。そのため彼は自分を正当化するために更に質問するのです。「では、わたしの隣人とはだれですか。」

このあとで語られる、いわゆる良きサマリア人の話は皆さんよくご存知だと思います。強盗に襲われた人のそばを、祭司が通り過ぎます。レビ人も通り過ぎます。祭司、レビ人というのは、教会の牧師と熱心な信徒とでも考えればよいと思います。ところが、3番目に通りかかったサマリア人が強盗に襲われた人に近寄り、助けたのでした。サマリア人は、ユダヤとは犬猿の仲、むしろ被差別の対象であったと言ってよいと思います。ところが彼は、「その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」のでした。物語の終わりの部分を読みます。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。』律法の専門家は言った。『その人を助けた人です。』そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」

ここで主イエスは、誰が隣人になったかと質問をしておられます。この聖書の言葉は、皆さんよくご存じのところで、何度も読まれたことと思います。で、ここでも主イエスは、律法の専門家の質問とは視点をひっくり返したような答をしておられるのですね。おわかりでしょうか。律法の専門家は、「わたしの隣人とは誰か」と訊いているのです。わたしの隣人、つまり、強盗に襲われた人はわたしの隣人にあてはまるか、あてはまらないか、そういう質問です。ところが、主イエスは、「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と訊いておられるのです。つまりこのを言い換えれば、「あなたは誰の隣人になっているか」という質問だと思います。「わたしの隣人は誰か」ではなく、「あなたは誰の隣人か」なのです。そしてこの隣人ということで興味を覚えるのは、もともとこの単語の意味は、近づくということなのです。世の中の人が、あの人は隣人、あの人は隣人ではないというような、そんな色分けで人が存在するのではなく、あなたは他の人に近づいていますかというのが、主イエスの言葉の意味だと思います。

もう一度、山岳民族の子どもたちのことに話を戻しますが、わたしたちが僅かながらも奨学金を届けているのは、そこに隣人がいるというよりは、わたしたちのほうが隣人にならせていただくことだと思います。そしてそのことによって、わたしたちのほうが、なにかを与えられているのだと思います。

8月の終わりに、わたしはたまたまテレビのチャンネルを廻していましたら、聖学院の高校学校がおこなっている、タイ、ミャンマー、ラオス、ボランティア体験ツアーというのが紹介されていました。わたしたちの訪ねたチェンライの町を拠点にして、タイ、ミャンマー、ラオスにまたがる、つまり山岳民族の人々の自立支援として、村に水道を作るボランティアなどをしているそうです。この番組でわたしの心に残ったのは、このツアーに参加した高校生たちのなかに、自分を作り変えるような何かを生み出しているものがいるということでした。出会いというのは、そもそも、自分が変えられるほどの力を持つものだと思います。それは、主イエスに出会ったものが、自らの人生や価値観を変えていったように、出会いというのはそのような力を持っています。誰かに会ったけれど、自分は何も変わらなかったというのでは、本当の出会いではなかったのかも知れません。

原誠先生も、次のように書いておられます。「出会った以上、わたしたちの内に変化が起こる。そしてどうすれば文化や言語、政治、経済、その他多くの点で違いがあり落差がありながら、なおともに生きていくことができるかを問い始める。わたしはこれは本当に生きた神学の問題、神学的問題だと考えている。」原先生は、このことを神学的問題と言いましたが、わたしはまさに信仰の問題だと思います。さまざまな違いを持つものが出会い、なおともに生きていくことができるかを問い始める、そして、あの人は自分の隣人かそうではないかではなく、わたしはあの人の隣人になっているかどうかが問われるからです。

一昨年、ラムさんという当時10歳の生徒と、チェンライの空港で1時間近く話し合うことができました。2年前、奨学金の対象を2人から3人に増やしたのですが、3人目が誰になるかが手違いもあって決っていませんでした。わたしたちは、せっかくやってきたのに、誰か分からないでは困ると強く要請をして、急遽帰り間際の空港で会うことができたのでした。長い時間をかけて話しあっていると、その子が言ったのです。なぜ自分がここに呼ばれてきたのかがわかった、と。

突然呼び出されて、知らない国の知らない男たちに囲まれて、あなたに奨学金をあげる、ついては、どんな家に住んでいるか、好きな科目は何かと問い詰められるように質問されては戸惑うのが当たり前です。長い時間をかけて話をしているうちに、そのあたりの隔てが少しだけ取れてくれたようでした。わたしたちは、奨学金を送っている相手のことをもっと知りたいと思い、手紙をくれるように要請したりしているのですけれど、考えてみれば、わたしたち自身のことを知ってもらうために、何をしてきたのかと反省をしています。隣人を愛する、それはこちらが相手のことを隣人だと思うのではなく、なにより、わたしたち自身が隣人となって、近づいていかなければならないと思うのです。

先程の聖学院高校の話で、もう一つわたしの心に残った言葉がありました。それは、「相手にとって自分たちは異文化だ」という言葉でした。頭の中でわかっていたことでしたが、言われてみて、改めて確認をしました。相手に近づくときに、自分の価値観や、自分の文化をそのまま持ち込んで、相手に押し付けることになったならば、それは好ましいことではありません。そうではなく、相手に近づくときに、相手の価値観や文化、考え方を尊重していくことが欠かせません。フィリピの信徒への手紙2章で、主イエス・キリストが、己を低くされたと記されているのは、まさにこのことではないでしょうか。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。」主キリストは、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられたのです。このことは、主キリストご自身が、わたしたちの隣人になってくださったことだと思います。神の子としての力や権威を押し付けるのではなく、わたしたち一人ひとりの立場に下りてきてくださった。まさに、主はわたしたちの隣人になってくださったのです。

さてこのように、わたしたちは隣人を愛すること、言い換えれば、わたしたち自身が隣人となって他者を愛することが問われているのでありますが、そのことについて、一つの前提というか、断り書きがありました。それは、「自分を愛するように」ということでした。

誰でも、自分がかわいいものです。誰でも自分の体が傷めば痛いと思い、誰でも自分が疎んじられれば辛いと思うものです。それと同じように、他の人のことを大事にしなさい、それと同じように、他の人が痛んでいること、他の人が疎んじられていることに気づく感性を持ちなさい、自分を愛するように隣人を愛するとはそのようなことでしょうか。第一コリント12章に、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」とありますが、他者の苦しみや喜びを、自分の体のように感じることなのだと思います。

しかしここで考えてみれば、今のこの社会、この世界に、自分自身を大切に思えない人が少なくないということです。自分自身を愛することができない人が少なくありません。自分を肯定的に見ることができず、なにか不安な人がいます。そういうことであれば、どうして他を愛することなどできるでしょうか。児童虐待が問題となっていますが、自分の子を虐待する親の多くは、自分自身がそのようにされた体験や、愛を受けることの少なかった体験があると言われています。それだからこそ、聖書は、ただ「隣人を愛しなさい」と言うだけではなく、「自分を愛するように」と教えてくれているのではないでしょうか。隣人を本当に愛することができるのは、自分自身を大切に出来る人だと思うからです。

ところで、何かボランティア活動をしようとしたときに、必ずといってよいほど出てくる意見があります。それは、「そんなことは自己満足ではないか」、「自分のためにやっているだけではないか」という意見です。わたしはこの意見に間違いはないと思います。わたしたちは、実際のところ自己満足的なことしかできないのだと思います。自分は少しも嬉しくなく、他の人だけを喜ばすなど出来ないのです。母親が子どもにおいしい食べ物をあげて、自分は食べないとしても、それはそれが母親の喜びであり、満足になるからです。

人に親切にして、喜んでもらえるのは嬉しいことです。困っている人になにかをしてあげたとき、あぁ、こんな自分でも、人の役に立っている。こんな自分が喜ばれた、それがたとえ程度の低い満足であったとしても、それは他に手を差し伸べる原動力になります。そしてそこで得た喜びは、また次の段階へと人を運んでくれます。それはつまり、先に述べたとおり、出会いから生まれるさまざまな自分への問いかけです。

主キリストがなさったように、本当に相手の立場にたつにはどうすればよいのだろう、どうすればそれができるのだろう。他を愛することは、自分を変えていただくことです。自分を本当に大事にできる人間が、他を愛することができます。他を愛したとき、自分を本当に大事にできます。「隣人を自分のように愛する」、それはまさにわたしたちの生き方の、まさに要約のようなものです。

(2003年9月7日 礼拝説教)