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コリント二 13・4−10
テレビの番組で、影絵を映してそれが何であるかを当てるクイズをしていました。例えば、円筒形の入れ物の場合、真上から見ると丸に見えますが、真横から見ると四角に見えます。ものごとをどの視点から見るのかによって、見え方は違い、判断されるところも違ってきます。それは誰にでも分かっているはずのことです。けれどもわたしたちは、自分の見たこと、聞いたことに固執し、他の見方を受け入れようとしません。他の人から見れば明らかに円筒形なのに、これは四角だと言い張ることも起こります。
目の見えない人が象の体の一部にさわって、これは何々のようだと、いろいろなもの名前を言ったという話がありますが、それと同じでわたしたちはともすれば一部を見て全体を見ていないのです。木を見て森を見ないという言い方もあります。象の体の例話は、もともと仏教の経典に出てくるお話ですが、けっして目の見えない人のことではなく、むしろ、主イエスがヨハネの福音書9章で言われているように、「あなたがたが見えると言い張るところに問題が」ある、ということです。
わたしはこのごろ、つくづくと思うのです。それは、同じ一つの出来事を見ても、それを強い立場から見るのと、弱い立場から見るのとでは、それこそ天と地ほどの開きがあるということです。先月の礼拝でしたか、いじめの問題についてお話をしたことがあります。いじめられている子どもを見て、ある人は、それはその子がもっと強くなって相手の子に言い返す力をつけなければいけないと言います。ある人は、いじめられている子の弱さを受け入れようとされます。そればかりか、いじめている側の子にも、何か愛情の足りない環境があることを憂慮されます。こういう受け止め方の違いは本当に大きなものがあると思います。
前にわたしはある人と、野宿する労働者やホームレスの人たちへの支援について話をしていました。その人の言うことは、きわめて明快でした。それは、野宿したり、家がないというのは、その人にやる気がないからだということでした。確かに、やる気がない人もいるのでしょう。その人に問題があるということもできるのでしょう。でも、そのように簡単に言い切ってしまうことは、やはりその人が順調な人生を送ってきたからだとわたしは思います。わたし自身、野宿労働者やホームレスの人たちの立ち場にたってものごとを見ることができるなど、夢にも思いません。わたしはどこまでも傍観者だと思います。そしてまた、わたしはこのことに、小さな支援はできても、それ以上何もできない自分の限界を知っています。でもわたしは、少なくとも、あの人たちが悪いと言ってしまう人間にはなりたくないと思っているのです。
これに似たことはほかにいくらでも言えるでしょう。例えば、鬱にかかっている人に、「がんばりなさい」というのは禁句です。頑張らなければと、一番思っているのは本人です。しかしそれができないからこそ苦しんでいるのです。けれども、これまで順調に来た人にとっては、その気持ちはわかりません。何をしているのだ、それは本人の努力が足りないのだと、本人を責めることに先走ってしまいます。先程言ったのと同じように、わたしもその気持ちはわかりません。でも、少なくとも、苦しんでいる人を責める人間になりたくない。そう思っています。これもまた、強い側に立って見るのか、弱い側に立って見るのかの違いがあらわれているように思います。強い、弱いではないとしても、頑張れる人間が見るものの見方と、頑張れなくて苦しんでいる者の見方は違うはずです。
こういったことは丁度、病気になった人が、病気になってはじめて病気の人の気持ちがわかったと言われるのと同じです。健康な人間が見る目と、大きな病気を体験した人が見る目とは、おのずから違うはずです。
もう一つ、幾分政治的なこととからめて話します。先週22日、イラク大統領の二人の息子が長時間の銃撃戦のすえに死亡したというニュースが流れました。戦争というものがいかなる大義名分を持っていたとしても、これが殺し合いなのだということを思わされます。このニュースを見ていると、日本の政府高官が記者会見で、「大変喜ばしいことだ」と発言していました。わたしはぞっとしました。喜ばしいと言ったのは、殺害そのものではなく、そのことによってもたらされる治安の回復などをさしたものかも知れません。でも、この言葉を聞いたとき、わたしは言いようのない思いがしました。
イラクの問題について今話そうとしているのではありません。でもわたしはここで、二人の人が亡くなったことの政治的な意味とか影響ではなく、なによりも人の命が奪われたことを悼む心を失いたくありません。わたしが言っているようなことは、おそらく、政治的には幼稚な考え方なのだと思います。あるいは、笑われるような程度の低いことをわたしは言っているのかも知れません。けれども、神さまの御言葉を聴き、神さまに仕えることを願っている者として、この幼稚な考えをわたしは大事にしたいと思います。これを聖書の言葉を借りるならば、パウロが第一コリント1章で言っている、「宣教の愚かさ」なのだと思います。
強い者の立場で見るのか、弱い立場で見るのか、成功してきた者の視点で見るのか、それによって、見ている対象は同じでも、目に映る姿、心に映る姿は大きく違うのだと思います。そしてわたしは、それならば、頑張って、他者にも頑張りを要求する人間ではなく、頑張れなくって弱っている者の側から、ものごとを見て、その弱さに少しでも寄り添える人間でありたいと思うのです。なぜなら、それは、これまでにも何回もお話ししてきたように、主イエス・キリストが歩まれた道だからです。先週ご一緒にお読みした第二コリント8章9節に書かれていました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」
パウロは、このような主イエス・キリストへの信仰を持っていたために、パウロ自身の持っている弱さを、マイナスとしてではなく、むしろ誇りとすることができました。自分の弱さの中に、キリストが宿ってくださるということをパウロは知っていたのです。自分の弱さのなかに、キリストご自身が弱くなって、寄りそってくださっているということを彼は知っていたのです。
第二コリント12章で、パウロは自分自身の肉体に与えられたトゲについて述べています。これについては、いくつかの病気の名前が具体的に推測されていますけれど、彼は当初このことを自分の恥ずかしい面、人には言えない面だと思っていました。そしてこのトゲを自分から取り去って欲しいと祈っていたのです。けれどもその祈りは聞き入れられることなく、彼はますます弱く落ち込んでいきます。ところがそのような弱さのなかで、パウロは思いもかけない声、神さまからの御声を聞いたのです。口語訳で読みます。「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」弱いところにこそ、キリストの恵みがあるのだ。パウロはそのことを悟りました。そしてそれ以来、彼は自分の弱さを隠そうとはしませんでした。「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と、そのことを誇りとしていったのです。
そして今日読んでいただいた13章4節にも、「わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」と書かれていました。キリストの十字架は弱さの象徴的なものです。けれどもキリストは今も生きておられ、わたしたちと共にいてくださいます。それと同じように、わたしたちもキリストに倣う弱さのなかで、神の力に生かされていると、パウロは語ります。パウロは自分の弱さを隠さず、恥じず、かえってそれをキリストに倣うこととして、喜ぶのです。そしてその弱さのなかに、キリストが共におられ、神の力が与えられていることを喜んでいるのです。
パウロが第二コリント4章で、土の器と言っていることもこれと同じです。器に例えるならば、パウロは自分が素焼きの値打ちのない器であることを承知しています。値打ちの高い陶器や磁器ではなく、ただ土をこねて焼いただけの、捨てられても不思議ではない器だと彼は自分のことを考えています。しかしパウロは、自分が土の器であることを喜んでいます。4章7節、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」まったく弱く、もろく、価値のない、この土の器に、神さまが宝を入れてくださっているというのです。
もしこの器が、高級陶磁器であるなら、どうだ自分はこんなに立派な器なのだと、自らを誇ったことでしょう。しかし、今読んだように、「この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために」、パウロは自らの弱さを誇るのです。わたしたちは普通一般に、自分の弱さを隠そうとします。恥ずかしいというのが一つの理由。もう一つは、弱みを見せたならばこの世の戦いに負けるという意識があると思います。けれども、パウロはその点、良い意味での開き直りを持っていました。弱さを堂々と示していました。だからこそ、土の器に神の力が宿っていると言ったすぐ後で、「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言うのです。まさしく弱さからこそ与えられている力です。
神谷美恵子さんの著作集第2巻、「人間を見つめて」のなかに、「うつわの歌」という歌が紹介されていました。「私はうつわ 愛をうけるための。うつわはまるで腐れ木だ、いつこわれるか わからない。 でも愛はいのちの水 大いなる泉のものだから。あとからあとから湧き出でて つきることもない。 愛は降りつづける 時には春雨のように 時には夕立のように どの日にもやむことはない。・・・うつわはじきに溢れてしまう そしてまわりにこぼれて行く こぼれてどこへ行くのだろう。――そんなこと、私は知らない。 私はうつわ 愛をうけるための。私はただのうつわ、いつもうけるだけ。」 神谷さんが紹介していたこの詩の作者は、ハンセン病の患者さんでした。自分自身のことを、わたしはうつわだと言い、うつわはまるで腐れ木だと言っている。けれどもこのかたは、自分はうつわだが、それは愛を受けるうつわだと言います。そして注がれる愛は、うつわから溢れてしまうほどだと言うのです。わたしはこの溢れてこぼれるという言葉を読んで、詩編23の、「わが杯は溢るるなり」という聖句を思い出しました。
神谷さんは書いておられます。「この歌をうたった人は・・・病をわずらい、一般社会から疎外されてもいた。それでもなお、この人には、いきいきしたものがあふれていた。わたしはそれをこの眼で見たから、うたがうことはできない。」
そして神谷さんは、人間というものはなにかしら、人間を越えたものが自分と世界を支えているという信頼感があって生きているものだと言います。普段はそのことに気づかずに生活をしています。けれどもいったん何かがおこるとその信頼感がゆらぎ、世界は安住できないところになってしまう。神谷さんの文章を読みます。「こういうとき、苦しみをまぎらわすために、アルコールや麻薬や快楽追求などの道をえらぶ人もある。心の病に逃げ込む人も多い。しかし、じっと踏みこたえて光を求めているうちに、ひとは初めて、自分の生を外側から、そして内側から支えてきたものに思い至るであろう。自分ひとりで生きてきたつもりでも、じつは、どれほど多くの配慮と許しと助けが自分の上に注がれてきたか、ということに気づくであろう。」
わたしたちは、普段は自分が器にすぎないと思ってはいても、そこに神さまの恵みが注がれていることに気づかないのです。そのなかに宝が入れられていることに気づかないのです。自分がもっと上等の陶磁器であればよかったのにと、不平不満をもらしているかぎり、自分のなかに入っている宝に気づくことはないでしょう。上等の器であれば、なかに何もなくても、ただ飾っておくだけで充分です。けれども、土の器は、自分の弱さを自覚するなかで、内なる宝が輝き始めるのです。そして、「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」と言い、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と言うことができるのです。
わたしは7月の礼拝で、コリントの信徒への第二の手紙をとりあげてお話をしてきました。長い手紙をわずか4回で語るのは無理でありますが、この手紙の特色を繰り返し語ってきたつもりでいます。第1章をとおして語ったことは、この手紙においてパウロが自分の受けてきた苦難や弱さを包み隠さずに語っていること、そしてこのような弱さを共に苦しまれたかた主イエス・キリストの愛がわたしたちに注がれているということでした。第5章を通して語ったことは、このような弱いわたしたちに、主イエスは律法からの自由を宣言してくださっている。それは、強くあろう、立派であろう、偉くなろうという自己努力の棘から解き放たれることだと、申しました。先週第8章を通して語ったことは、パウロが熱心にすすめていた献金運動についてであり、それは献金ということではなく、主イエスの恵みを分かち合うことであったということでした。
そして今日読んでいただいたのは、13章、この手紙の最後の章です。ここでパウロは、この手紙全体を要約するかのように言います。それが4節です。「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。わたしたちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています。」このように述べたあとで続けてパウロは、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と言います。この言葉は、しばしば誤解されて読まれています。前後関係をいっさい抜きにして、「信仰を持って生きているかどうか自分を反省し、自分を吟味しなさい」と言われれば、わたしたちは誰でも、いや自分は信仰が足りなくてと、反省するしかありません。そしてもっと努力しなければ、もっと信仰を持たなければと考えてしまいます。しかし、人はそのような自己努力によって救われるのではないというのが、パウロがこの手紙で主張していたところであったはずです。パウロはここで、もっと信仰を持てとか、もっと頑張れとは言いません。ただひとこと、言っているのは、「あなたがたは自分自身のことが分からないのですか。イエス・キリストがあなたがたの内におられることが」ということです。この事実に気づきなさいという勧めなのです。
6節以降で、パウロはコリントの教会の人々に、善をおこなうようにと勧めています。このことは、コリントの教会がキリストの体としての役割を回復することを求めたパウロの願いです。コリントの教会がなにかとごたごたとしていたこと、第一の手紙で繰り返されていました。わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくといった人たちがいました。そして第二の手紙でパウロは、キリストの恵みを共に分かち合いなさいと勧め、わたしたちには和解の任務が与えられていると語っていました。そのことを実行していきなさいという勧めです。けれどもそのことが可能になるのは、どこまでも、神さまからの愛と恵みによるものなのです。
9節に、「あなたがたが強ければ」、「あなたがたが完全な者になることを」と述べられています。これはすなわち、弱さのなかに宿るキリストの恵みによって強く、弱さの中に宿るキリストの愛によって完全に、という意味にほかなりません。自らの弱さを知る。そこからすべては始まっています。強い人間には気づかないことがたくさんあります。強がっているうちはわからないことがたくさんあります。なによりも、神さまの前に弱さを認め、打ち砕かれていくこと、そのとき、そこにキリストが共にいてくださることを悟ることができます。
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