番町教会説教通信(全文)
2003年7月 「施す豊かさ」            牧師 横野朝彦


コリント一 10・23―11・1

バプテスト教会の木村公一牧師が、3月14日から33日間、イラクに人間の盾として行かれたことは、木村牧師の日本出発の頃にお話ししました。先月末に、新教出版社から「人間の盾」と題する本が出され、そこには、木村牧師が家族に宛てた手紙を中心に詳しい報告が書かれています。わたしはその末尾に掲載された「パックス・アメリカーナとキリストの平和」という論文を読みました。そこで木村牧師はイラクへの戦争について、アメリカは戦闘には勝利したけれど、戦争には敗北したと述べておられました。つまり、戦いには勝っただろうが、人道や人類の良心に対して敗北をしたというのです。このことは、戦争が終わったはずのイラクで、今も犠牲者が出ていることからも言えると思います。

わたしが読んだこの論文は、「パックス・アメリカーナとキリストの平和」という題でしたが、この言葉が、古くから言われる、パックス・ロマーナという言葉からきているのはお分かりだと思います。日本語に訳せば、ローマの平和です。その昔、ローマ帝国は強大な力をもって世界を支配していました。力によって支配された偽りの安定。それがローマの平和でした。ローマに従順なものには安全が与えられるけれども、これに逆らうものには容赦なく弾圧が加えられました。パックス・ロマーナとは、このような偽りの安定、偽りの平和を表わす言葉です。

木村牧師は論文の中で、「パックス・ロマーナとは、古代ローマ皇帝が『恵み』としてその臣民に与える『平和』であった」と述べます。そしてそれに対して、木村牧師はパウロがおこなった福音宣教について論じています。そしてパウロの重要性は、「パックス・ロマーナの世界観に代わる新しい世界ヴィジョンを福音の本質に裏付けられた時代的なメッセージとして語ることができたこと」であると述べておられます。ローマの平和に代わる新しい世界観、それはほかならず、キリストの平和です。そしてそれは、「キリストの恵みと信仰によって神との和解に与れる」ことであり、「その和解に与った者たちは、宗教、文化、民族、性別、主人と奴隷との相違を越えて」和解の共同体を形成するというヴィジョンだと、木村牧師は論じています。

木村牧師が人間の盾としてイラクに赴いたのも、キリストの恵みにより、宗教をも越えて人類が和解する、このヴィジョンのもとにおこなわれたことであると思います。わたしは木村牧師のことをよく知りませんでしたが、経歴を見ると、インドの大学で神学博士の学位をとり、インドネシアの神学大学で教えるなどしておられます。ヒンズー教やイスラム教の人たちの多いところで、キリスト教のありかたを実践的に考えてこられたのだと思います。新しく出された「人間の盾」という本のなかで、わたしが読んだのは最後の論文だけで、あとは丁寧に見ていませんが、人間の盾として出かけたイラクで、ムジャヒディンと呼ばれるカナダ国籍のイラク人 ― ムジャヒディンを木村牧師の本ではイスラム聖戦士、聖なる戦士と書いてありました ― このイスラム聖戦士や、また他の人たちと、信仰や神や、正義や平和について語り合ったときの会話が紹介されており、それは大変興味深いものでした。宗教や文化や民族を越えて人と人とが共に生きようとする木村牧師の姿勢があらわれていると思います。そして、木村牧師にしてみれば、それはキリストの恵みによる和解からきたものだと言うのです。

さて、今日読んでいただいた聖書の箇所は、コリントの信徒への第二の手紙から、パウロがエルサレム教会への献金について述べているところです。わたしが今述べた木村牧師の話となんの関係があるかと思われるかも知れませんが、そのことはひとまずおいて、エルサレム教会への献金の話に話題を移させていただきます。パウロは異邦人伝道、これまで聖書の神さまを知らなかった人々への伝道に力を尽くした人で、彼は現在のトルコ、ギリシャ方面に伝道旅行をしました。今日の世界からすれば、それは限られた地域でありますが、当時の地中海を中心とする世界からすれば、世界の要所をめぐる大旅行であったと思います。パウロは3回にわたって伝道旅行をおこない、教会を建設し、またすでにある教会を励まし、指導していったのですが、そこでパウロがおこなったことの一つに、エルサレム教会への献金運動があります。このことは、聖書をさっと読んだだけではあまり気がつかないほどなのですけれど、実はパウロのおこなった活動のなかでかなり大きくて重要な働きでした。

ここでちょっと面倒ですが、献金のことについて出てくる聖書の箇所を確認します。ガラテヤの信徒への手紙2章9―10節、「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです。ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です。」

この聖書の記事だけではよくわからない面がありますので説明しますと、初代教会において、これまで聖書に親しんでいるユダヤ人キリスト者と、これまで聖書を知らなかった異邦人キリスト者との関係がずいぶん問題になったのですけれど、ここで、パウロは異邦人伝道に、ケファ、つまりペトロたちはユダヤ人への伝道をと役割分担が決められたのでした。それぞれは別々の方向に行くということが決められたのです。それは第三者が客観的に見れば、分裂に近い状態だったのかも知れません。でも、そのような状態のなかで、先程読んだように、「ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところに行くことになったのです」ということで、両者は互いに握手を交わして、別々の道を行ったということです。しかし、この際にパウロが大事に考えていたことがあります。「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」と書かれていましたが、ここで言う「貧しい人たち」とは、実はエルサレム教会のことを指しているのです。「貧しい人たち」とは、実際に経済的に貧しかったということもありますが、同時に、正しく敬虔な人たちという意味もあるようで、このような呼び方は、当時のエルサレム教会の人たちをあらわす表現であったそうです。そしてこの、「貧しい人たちのことを忘れないように」というのが、具体的に献金のことをあらわしているのです。

コリントの信徒への第一の手紙11章では、募金という言葉が使われています。また、エルサレム教会のことが、聖なる者たちと呼ばれています。「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。そして、それを実行し、バルナバとサウロに託して長老たちに届けた。」こういったような記事が他にも何箇所か出てきます。パウロはこのような献金運動を熱心にすすめていたのです。

なぜこのように熱心に献金運動をしたのでしょうか。それも、自分たちのためではなく、自分たちとは別の道を歩んでいるエルサレム教会のために献金をしたのでしょうか。まず一般的なものの言い方をしますと、それは何より、ささげることの大切さです。使徒言行録20章に、主イエスの有名な言葉、「受けるよりは与える方が幸いである」という言葉が書かれています。20章35節、「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」わたしたちは誰でも、何か貰うと嬉しいものです。人にあげたり、失うのは損だという気持ちがあります。しかし主イエスは、「受けるよりは与える方が幸いである」と教えてくださったのです。ルカによる福音書6章35節では、「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」とも教えられています。このような生き方、考え方は、旧約聖書にもみられます。箴言11章24―25節、口語訳聖書で読みます。「施し散らして、なお富を増す人があり、与えるべきものを惜しんで、かえって貧しくなる者がある。物惜しみしない者は富み、人を潤す者は自分も潤される。」このように、施しを豊かにする人は、その人自身が豊かにされるのだ、与えることを惜しんで、かえって貧しくなる人がいるのだと、箴言は人生訓、格言のように語ります。

このような考えはとても大事なことだと思いますし、また人生の真理を言い表していると思います。エーリッヒ・フロムでしたか、「たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ」とも言っています。

先程ご一緒に歌った讃美歌499番は、アシジのフランシスコの歌でした。ここには与えるとか、施すという言葉はできてませんけれど、「なぐさめ求めず、なぐさめることを、理解されるより、理解することを、愛されるよりも、愛する心を」と、わたしたちがすすんで他者のために、なぐさめ、理解し、愛することの尊いことが歌われていました。

先週水曜日、婦人会の修養会があり、堀切教会の真鍋孝幸牧師がお話をしてくださいました。高齢化や介護の問題がテーマでした。そして介護について話すなかで、真鍋牧師は、出来る者が出来ないものになにかをしてあげることではない、上に立って何かをしてあげることではないということを強調されたと思います。施すというと、持っている者が持っていない者に、強い者が弱い者に、なにかをあげる行為のように思えますが、実はそうではなく、施す側が、なにかを受け、人間的に豊かにされることなのです。

哲学者、鷲田清一さんの「<弱さ>のちから」という本に、重度の障害を負う遠藤さんというかたのことを描いたドキュメンタリー・フィルムが紹介されていました。遠藤さんは、24時間介護が必要です。鷲田さんの本を読みます。「24時間要介護だから、ウィークデーの日中や泊まりに来れるひとを見つけるのはなかなかむずかしい。それでも、近くの女子高校生から大学生、フリーター、河原でテント生活をするロッカー、中国人留学生まで、『若い』という以外に共通点をもたない若者たちが、時給650円で、交替で介助にあたってきた。その彼らがフィルムのなかで、食事を細かく砕いて少しずつ遠藤さんの口に運び、部屋を掃除し、あいだに遠藤さんの枕元でじぶんの大事なトランペットを磨き、悩み事などをぽつりぽつり話している姿を見ていると、遠藤さんのコチコチのからだの横で、逆に彼らのほうが、そう、その <存在> をほぐされてゆくのがみえる。」

このように、与えるということ、施すということは、ある人からすれば損をしているように見えるかも知れないけれど、実はそのことによって豊かにされる、このことは真理だと思います。教会での献金にしても、ささげる人ほど恵み豊かに与えられると、信仰の先輩たちは語ります。それはけっして何かが返ってくるからと、見返りを当てにしているのではありません。そうではなく、すすんでささげるときに、思いもかけない恵みを味わうことができるのです。そしてそれは、今日の聖書の箇所に言われていたとおりに、施す豊かさであると思います。

さて、わたしはエルサレム教会に対する献金のことが、聖書をさっと読んだだけでは気がつかない程度に書かれていると申しました。ある程度聖書を読んでいる人であっても、エルサレム教会への献金という話を聞いて、聖書にそんなことが書いてあったかなと思うかたがおられます。それはどうしてかと言うと、パウロはこのことを手紙のなかに書いていながら、募金とか献金という言葉をほとんど使わないのです。せいぜい、第一コリント11章の、「「聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい」という、この程度の書き方でして、これでは事情を知らないものには、よくわからないのが当然です。

そしてパウロはそれ以外のところでは、募金という言葉を使わないのです。ではなんというかと言えば、今日読んでいただいた第二コリント8章4節や6節にあったように、「慈善の業」という言葉が使われています。9章では「奉仕の業」と言われています。さらにローマの信徒への手紙12章13節では、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」と書かれています。「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け」なさいと言われれば、誰に対してでも通用する教えのようですが、実はこれはエルサレム教会への献金という具体的なことをパウロは語っているのです。今日読んでいただいた7節でも、「この慈善の業においても豊かな者となりなさい」と勧められています。このように、慈善の業に豊かになれと言われているので、これを具体的な問題と気づかないことが多いのです。

ではどうしてパウロはこんなふうに、曖昧な言い方をしたのでしょうか。エルサレム教会に献げ物をしようと、言わなかったのでしょうか。ひとつには、そのように具体的な表現をしなくても、聖なるものたちを助け、慈善の業において豊かになろうと言うだけで、当時の教会間で充分に意味が通じたということがあると思います。しかしわたしは、それだけではなかったと思うのです。つまり、このことは、具体的に献金という事柄なのだけれど、パウロにしてみれば、それはお金を集めるということよりも、もっと信仰的に重要な、わたしたちの生き方の問題だったのです。

あからさまに言えば、例えば、わたしたちの教会が会堂建築に直面したとき、いくらのお金が必要です。ですから皆さん頑張って献げてくださいと、私たちなら言うことでしょう。しかしパウロはそういう言い方はしないのです。パウロがどのように言うかを考えれば、あなたがたはキリストの体であり、神の霊が宿る宮である。神の宮を建てるために努めなさいと、こういう言い方になるだろうと思います。仮にお金を集めるという具体的なことであっても、パウロはそれが信仰的にどういう意味を持っているか、そこを問題にしたのです。

そこで、改めて今日の聖書の箇所を読んでみると、1節で、「マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう」と、「神の恵み」という言葉から始まっているのに気づきます。マケドニアの教会が大変厳しい状況に置かれていた。しかし彼らはその厳しさのなかから熱心にささげてくれたというのが、今日の箇所の最初の部分です。そして4節、6節、7節で、「慈善の業」という言葉が使われます。9節では、「主イエス・キリストの恵み」と言われています。今日は9節までを読んでいただきましたが、16節に、「感謝します」とあります。

実は、今申した「恵み」も「慈善」も「感謝」も、新約聖書の原典であるギリシャ語では全部同じ単語なのです。そのことが、日本語の聖書ではどの聖書でもうまく訳すことができないでいます。日本語としてぎこちなくなってしまうからでしょう。でも、直訳すれば、4節も6節も7節も、「恵みの業」なのです。そればかりか、16節で「神に感謝します」とあるのも、「神に恵みます」ということなのです。

つまり、パウロはここで、わたしたちは神さまから恵みをいただいた。だからわたしたちも他の人に、特に貧しい人たちに恵みを送りましょう。それだけではなく、神さまにも恵みを返しましょうと、このように言っているのです。

9節、「わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」主キリストは十字架に至るまで己を低くし、そのことによって高くあげられました。それと同じように、わたしたちも主が貧しくなられたように、自らを低くし、ささげることによって、豊かにしていただきましょうと、パウロはここで、キリスト教信仰の基本を語っています。

わたしは最初に、木村公一牧師のことを話し、木村牧師がパックス・ロマーナに代わる新しい世界観として、キリストの平和を述べられたと申しました。それは、キリストの恵みに共に与るということでした。キリストが自らを低くされ、己をささげられた。この恵みにわたしたちも生きよう、そして自らをささげるものとなろう、そのときわたしたちは真実豊かにされる。そのときわたしたちは真実平和になれる。これは、文化や民族だけではなく、宗教さえも越えてわたしたちをひとつにする真理であるとわたしは思います。 
  
                               (7月20日 礼拝説教)