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マルコ4・13−20
主イエスは、心から自然を愛し、草花を、野山を喜ばれたかたであるとわたしは思います。主イエスの言葉のなかには、自然の恵みについて語られたものが多くでてきます。思い煩うことの多いわたしたちに向けて、野の花を見なさいと言われたこともそうですし、主イエスの話のなかには、ぶどうやいちじく、麦といった植物のことが言われ、またすずめ、つばめ、鳩、羊、ろば、きつねといった動物たちが登場します。このように、動植物が話のなかに出てくるというのは、日頃からそれらに親しんでおられたからに違いありません。そしてまた、神の国がからし種のようだという譬にあるように、本当に小さな種であるからし種が、成長するとどんな野菜よりも大きくなると、この自然の不思議に神さまの恵みを見ておられました。
教会の玄関部分にたくさんのプランターを置いて、花を植えていますが、ほとんどは花屋さんから苗を買ってきて植えたものです。場所の制約もあって、種を蒔いて育てるということは、ほとんどしたことがありません。でも、不思議なもので、ある花を植えたプランターに、別の草花が芽を出したり、あるいは教会の駐車場に入るコンクリートのわずかな割れ目に、草花が咲いています。小さな種が風によって運ばれ、根付いて、育ったのだろうと思います。コンクリートのわずかな隙間に根付くというのもすごい生命力だと思いますが、でも残念ながら、そのような隙間に入り込むことができず、コンクリートの上でひからびたり、あるいは踏みつけられていった種もたくさんあることでしょう。
わたしたちは、種を蒔くと言うと、まず土を耕し、栄養のある柔らかい土を用意したうえで、そこへ均等な間隔で種を置いていくように思うのですけれど、昔はそうではありませんでした。今でも国によって、地域によって、もっと雑な方法が取られているようです。それは、たくさんの種を放り投げるようにして蒔き、その後で、土をかきまぜるのです。
聖書の時代の種まきの様子が粘土板に刻まれているのを絵で見たことがあります。それは一人の人がたくさんの種を放り投げ、その後ろを牛が歩いているのです。牛は何かの道具をひっぱっており、土を起こしているのでした。そういうやりかたはとても原始的なように思えます。でも、アメリカなどでは広い広い畑のうえを飛行機が飛んで、飛行機が種を蒔くということがあるようで、すごい規模と機械力ではありますが、大昔の種まきとやりかたとしては同じなのかも知れません。
でもそのようにして蒔くと、当然無駄も出てきます。種は一箇所だけに落ちるのではなく、風に流されて、思いがけなく遠くへ落ちることもあるでしょう。畑だけに落ちるのではなく、畑の外側の道路に落ちる種とか、石の上に落ちる種とか、あるいは雑草や茨の繁ったなかに落ちる種も出てきます。そしてそれらは、芽を出さずに枯れることになります。あるいはせっかく芽を出しても、途中で枯れてしまうことになります。
そしてそれは今日読んでいただいた聖書の箇所で、主イエスが語られているところです。今日お読みいただいたのは、マルコ4章13節以下です。この箇所では、譬話の説明が語られています。譬話自体は14章の3―8節で語られており、今日の箇所はその説明なのです。説明されたものをわたしがさらに説明する必要もないようなものですが、この箇所をとおして、わたしたちキリスト者の基本的なありようについて、聞いていきたいと思います。
種を蒔く人が種蒔きに出て行きます。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまいます。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出したのですけれど、日が昇ると焼けて枯れてしまいます。ほかの種は茨の中に落ち、茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ぶことができません。このように、鳥が来て食べてしまったり、石だらけの土地、茨のなかなど、成長をさまたげる土地に落ちてしまったのがありました。でも、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなったというのが、3―8節で語られている譬です。
でも主イエスのお弟子さんたちは、この話を聞いても何のことかわかりません。イエスさまは何が言いたいのだろう、石だらけの土地に落ちた種が枯れてしまうのは当たり前じゃないか、良い土地に落ちた種が何十倍に育つのは、誰だって知っていることだと、これが何を意味する譬なのかがわからないのです。そこで弟子のひとりがそれはどういう意味ですかと質問をします。そこで主イエスが説明をされた、それが今日読んでいただいた13―20節です。
主イエスはこの種まきの譬は、神さまの御言葉をまくことなのだと説明されます。神さまの御言葉がまかれます。人がその御言葉を聞きます。でも、それを聞いても、すぐにサタンが来て奪い去るということが起ります。サタンとは、誘惑する者という意味です。なにか特別に不思議な存在、悪霊といった存在と考える必要はないと思います。わたしたちは、それこそ聖書を読み、あるいは礼拝をとおして神さまのことを思い、神さまの御心に従っていこうと願いながら、それこそ御言葉を聞いたすぐあとに、そのことを忘れたような言葉と行いをしているのです。主イエスの弟子の一人ペトロが、「たとえどんなことがあっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と、心からの誓いをしたのに、それから僅か数時間後に、彼はイエスのことを知らないと3度も口にしたのでした。自分の身を守るために、イエスのことを知らないと言ってしまったのです。
少し話が広がりますが、ある知り合いの牧師が、以前アメリカ・カリフォルニア州の日系人教会の牧師を4年前までしていて、つい最近その教会を訪問したそうです。彼によれば、カリフォルニア州は反戦意識の強い土地柄で、日系人教会も、非暴力主義を掲げてきたそうです。9月11日の事件のあとでも、「復讐するのは神にまかせよ」という聖書の言葉を引用して、報復攻撃に反対をしたといいます。ところが、今回彼が訪問すると、その空気が一変していて、「戦場で傷つく兵士とその家族を思えば、戦争反対を口にできない」と言葉を濁す人が多かったというのです。わたしは何も、この人たちのことを批判しようというのではありません。そうではなく、わたしたち自身が、戦争を嫌だと思い、戦争反対と思っていても、いつどんなことで、自分が変ってしまうかわからない、そういう弱さというか、怖さを自分のうちに抱えているということを思わされるのです。
「敵を愛し、迫害するもののために祈れ」と言われた主イエスの絶対平和主義の御言葉の種をわたしたちは何度も聞いているのに、聞いた端から、鳥が飛んできて食べてしまっている、いや、わたしたち自身が、すすんで鳥にその種を与えてしまっているように思われます。カリフォルニアの教会の話も、けっして他人事ではありません。
あるいはまた、石地に落ちた種も同じようなものです。御言葉を聞いても、根をしっかり伸ばすということがなく、そのために「御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」と言います。かつて、わたしたちの国ではキリスト教信仰が禁じられていました。明治の初めにそのような禁令は解かれ、信教は自由となりました。でも、戦争中の日本で、キリスト教はまさに敵国宗教として監視され、スパイ容疑や不敬罪で多くの人が投獄されたり、獄死に至ったというのはご承知のとおりです。そしてこういったことも、遠い過去のこととは言いきれない現状があります。
イラク戦争のあと、日本の世論のなかに、キリスト教にしてもイスラム教にしても、一神教の宗教は排他的で、戦争主義であると、それに対して、日本のような多神教の国は平和主義であるという論調が出てきました。はっきりといって、とても幼稚な論理だと思いますけれど、なんとなくそのように思わせるような風潮のようなものがあります。いっぽうで、得体の知れない宗教団体やカルト団体が反社会的な行動をしたときに、ひとまとめにして、宗教は怖いという空気が出てきます。今社会をにぎわせている白装束の集団について、法務大臣が、「不気味だ」と発言したと新聞に載っていました。法務大臣の発言ですから、法律的にここが問題だと言って欲しいと思うのですが、そうではなく、不気味だと言われることに、わたしは問題を感じます。それこそ魔女狩りになってしまうような怖いものを感じるのです。
「艱難や迫害がおこると」、これは今申したような宗教への警戒心のような社会的な問題もあるでしょうし、もっと身近ななにか、信仰を続けることの困難なども含まれるでしょう。石地に落ちた御言葉の種のような状態というのも、決して他人事ではありません。
さらに、御言葉の種が茨のなかに落ちたとき、種はどうなるでしょうか。なんとか芽を出して育つとしても、周りにいろいろなものが覆いふさぎ、それ以上育つことはありません。そしてこのことについて主イエスは、「この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」と言われます。これは実に鋭い、そして厳しい言葉です。「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」、それはなにも特別なことではありません。普段わたしたちが考えていること、普段わたしたちがこうしたら、ああしたらと思っていることが、結果として御言葉の種をふさいでいることになる可能性があるからです。
「思い煩うな」と教えられているのに、思い煩いばかりのわたしたち。旧約聖書に、エジプトを脱出し荒れ野をさまよう人々に、天からの食べ物、マナが与えられたという話があります。あの話で、神さまは、「あなたたちはそれぞれ必要な分」だけを集めなさいと命じられます。そして、「だれもそれを、翌朝まで残しておいてはならない」と命じられます。ちょうど、主の祈りに祈られているように、「日用の糧を今日もあたえたまえ」ということです。ところが出エジプト記16章を読むと、何人かの人たちは、この教えに聞き従わず、集めたマナの一部を翌朝まで残しておいたということです。また、安息日の前日には2日分が与えられ、安息日にマナは与えられないと教えられていたのに、ここでも何人かの人たちは、安息日にも集めに出て行ったが、何も見つからなかったと書かれています。神さまの約束を聞いていながら、それに従わず、自分で自分の生活を保障しようとしたのでした。
あるいはまた、ルカによる福音書14章に書かれている主イエスの教えを思い出します。ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招きます。これは、神さまがわたしたちを招いてくださっているという譬話です。ところがある人は、「畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください」と言って断ります。ほかの人は、「牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください」と言います。また別の人は、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と言うのです。「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望」というのとは、ちょっと違うように思われるかも知れませんが、わたしは基本的に同じだと思います。
「まず神の国と神の義を求めなさい」と教えられています。それはそのとおりだ、だけどその前にしておくことがある、それがわたしたちの一般的な考え方になっていないでしょうか。「まず」と言われているのに、神の国と神の義を求めることを、2番目、3番目、いや、それよりももっと順位の低いところに置いてしまっているのではないでしょうか。
「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と教えられています。にもかかわらず、仕える者になろうとせず、仕えられることを喜んでいないでしょうか。「人を裁くな」と教えられています。にもかかわらず、他者の目のなかにある小さなゴミばかりが気になっていないでしょうか。それこそ自分の目のなかには丸太があるのに、他の人のオガクズが気になるのです。
「愛がなければいっさいは無益である」と教えられているのに、その無益なことばかりを重ねてはいないでしょうか。このように言い出せばきりがないほどに、聖書の御言葉は、わたしたちの日常の生活のありようを、それでいいのかと問うていると思います。キリスト者の生活は、ある意味でこの世の価値とは反対のところに生きようとするものです。この世の常識とは違うところで判断されるものです。それは、目に見えるものはいつかは滅びるが、目に見えないものは永遠に続くということを知っているからです。この世の常識とは違うと言っても、何も変ったことをしようと言うのではありません。反社会的なことをしようと言うのでもありません。でも、たとえば初代教会の時代に、キリスト者というのは奴隷を友だちのように扱う変った連中だと評価されていたと言います。主イエス・キリストが十字架にかけられたのは、徹底した愛に生きたからでした。身分の低い人と親しく交わったことが、それが当時の宗教指導者たちには、めざわりだったのです。
この世の知恵にかなっていると思えることが、結局茨の木となって、御言葉の成長を妨げているかも知れません。そのことを注意したいと思います。パウロもまた第一コリント1章で、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」と言っています。また「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」と言っています。
「世は自分の知恵で神を知ることができませんでした」、それはまさしく、この世の知恵や思い煩いそのほかの茨で、御言葉を覆いふさぐということではないでしょうか。そして主イエスは、それらのもので、覆いふさがないようにと、わたしたちに注意を与えておられます。
これら、道端に落ちて鳥に食べられたり、石地や茨といった土地に落ちたりということであれば、種は育たずに枯れてしまいます。しかし良い土地に落ちるならば、「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」と教えられています。30倍、60倍、100倍にするにはどうすればよいのか。わたしたちは普通、そのためにさまざまな方策を考えます。けれども、主イエスはそれらの方策はかえって御言葉を覆いふさぐだけだと言われます。ではどうすればよいのか、それは、4章30節に書かれているとおり、「御言葉を聞いて受け入れる」ということにほかなりません。
今日の箇所13―20節で、聞くということが何度も言われているのに気がつきます。道端に落ちた種は、「御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て」とありました。石地に落ちた種は、「御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので」とありました。茨のなかに落ちた種は、「御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑」がとありました。いずれも聞くということが繰り返されています。そして、「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たち」とあるのです。
そのことを念頭におきながら4章全体を見ると、まず3節で「よく聞きなさい」と言われ、9節で、「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われている。また12節では、「聞くには聞くが、理解できず」というわたしたちの現実が厳しく言われています。
そういったことを考えながら今日の箇所を味わうならば、それはちょうど、「まず神の国と神の義を求めなさい」と言われながら、「まず」ではなく、2番目、3番目、あるいはもっと後ろの順位にしてしまっているわたしたちのことが言われているのだということがよくわかります。そうではなく、なによりもまず、神さまの御心を聞くことを大切にし、それに従っていくならば、すべてのものはそえて与えられる、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことができるのです。
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