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マルコ16・1―8
イースターおめでとうございます。今日は、喜ばしい主の復活の日です。主イエスは甦られた。この知らせは、私たちの命が死によって終わるものではなく、新しい命の始まりであるとの福音にほかなりません。
キリスト教にはたくさんの大切な日、祭りの日があります。なんといっても有名なのはクリスマスです。でも、キリスト教にとってクリスマス以上に大切な日、それがイースターです。別に、日に優劣があるわけではなく、比べるのはおかしなことかも知れません。どちらの日が大切ということではなく、私たちの信仰にとってイースターのほうがより大きな意味を持っているということです。この死すべき存在である私たちに、永遠の命が与えられていることを喜ぶ日です。また使徒パウロが言うように、「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられ」、「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きる」ということです。パウロはローマ6章8節で、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」と言っています。イースターは、永遠の命の喜びであるとともに、今申し上げたような新生、新しく生きる体験なのです。
けれども、復活ということほど信じがたいことはない、と言ってもよいほどです。聖書を読んでいると、主イエスの弟子たちでさえ、主の復活をすぐに信じることができませんでした。ヨハネによる福音書20章によれば、トマスという弟子は、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言って、主イエスの復活を疑っています。しかし信じられなかったのはトマスだけではありません。またマルコによる福音書16章に次のように書かれています。「マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。」
聖書はこのように、人々が「信じなかった」ということを包み隠さず述べています。また、パウロがアテネの町で伝道をしていたとき、人々は熱心に話を聞いていたのですが、復活の話になった途端に、話を聞いていた人たちは、あざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言ったと、使徒言行録17章に書かれています。
このように、復活というのは難しいことです。そんなことが本当にあるのだろうかと誰もが考えます。キリスト者である私たちにとっても、それが簡単にわかることではありません。わからないというほうが、むしろ自然であり、すぐに信じられないというほうが正直なことだと思います。それはまさに、多くの人にとってつまずきでさえあります。けれどもキリスト教は、私たちの信仰にとって最も大切なこととして、このことを宣べ伝えてきたのです。
それでは聖書はこのことをどのように証言しているでしょうか。復活の証言は、福音書によって少しずつ違いますが、マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書に共通することは、マグダラのマリアたちが主イエスの墓へ行ったところ、主イエスの体はそこにはなかったという証言です。今日お読みいただいたマルコによる福音書16章によれば、「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」と、「ここにはおられない」、つまり、主イエスは、悲しみのしるしである墓にはおられないという知らせが告げられたのでした。
マタイによる福音書にもほぼ同じ証言が書かれています。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。」このように、主イエス・キリストの復活の証言のもっとも古いもの、それは、女性たちが墓に行ったところ、主イエスはそこにおられず、墓が空であったということです。
墓が空である。それはひとことで言って、死が空しくされた出来事です。マリアたちは墓に行って、死んだイエスの体に会おうとしました。しかし死は空しくされた。もはやここにはおられないと、天使は告げたのです。わたしたちがその目を、その心を向けるべきものは、墓のなかではなく、別のところにあるのです。
「わたしにはまだ死ぬという大切な仕事がある。」このように言ったのは、三浦綾子さんでした。亡くなられたのは1999年でした。夫、三浦光世さんの本、「死ぬという大切な仕事」によれば、亡くなられる4、5年前、声も低くなり、口述も困難になったころから、「わたしにはまだ死ぬという大切な仕事がある」と言われるようになったそうです。癌と、パーキンソンという、重い病をいくつも抱えていながら、実に静かに耐え、驚異に値する忍耐力であったと、夫の光世さんは書いておられます。それは、死を恐れるのではなく、また避けようとするのでもなく、あるいはまた、言うまでもないことですが、命を粗末にすることではなく、また諦観というようなあきらめでもなく、課せられた大切なことがらとして、誠実にそれを果たそうとされたのでした。
光世さんは次のように書いておられます。「綾子はそれほど大きな仕事をしたとは思わないが、幾度もの病苦を忍び抜いて、読んでくださる人の幸せをひたすら祈りつつ、著作を続けたことは事実である。その祈りが今後も聞かれて、多くの人の人生に役立ってほしいと、私もまた祈らずにいられない。」このような言葉を読むと、死ぬという大切な仕事をとおして、三浦さんはわたしたちに多くのものを与え、また何かを生み出してくださったのだと思います。
1984年、64歳で亡くなられた上野英信さんというかたがおられます。九州・筑豊にある福吉伝道所に、犬養光博というわたしの尊敬する先輩牧師がいますが、犬養牧師が上野さんについて「死ぬための仕事、生きるための仕事」という文章を書いておられます。「筑豊の記録作家、上野英信先生が、テレビ番組に出演されて、ご自身のなさってきた仕事について語られたことがあった。・・アナウンサーが、『これからはどんなお仕事をなさるのですか』と尋ねた。ちょっと間をおいて、上野先生は『今までは生きるための仕事をしてきましたが、これからは死ぬための仕事をしたいです』と言われ、『死ぬための仕事とはどんな仕事ですか』というアナウンサーの問いに答えて、『蚕が繭を作るような仕事です』と言われた。」
そして犬養牧師は、次のように書いておられます。「一作ごとに自分を殺し続けることによって、繭を生み出し、いつの日か自分も新しくされることを待ち望みつつ歩み切られた上野英信先生の歩みは、イエス・キリストの復活の光の中で一層輝いてぼくには見える。」
もう一度、話を三浦光世さんの本に戻します。光世さんは、本の終わりのほうで、主イエス・キリストについて書いておられます。「『死ぬという大切な仕事』を成し遂げたと言えば、イエス・キリストに較べうる者は人類史上一人もいないと思う」と述べ、その死と復活について語られるのです。
先週、わたしたちは受難週の日々を過しました。毎朝祈祷会が持たれ、共に聖書を読み、主の歩まれた道をたどりました。そこで感じたことは、主イエスが歩まれた道は、十字架に至る受難の道であり、主はその道を避けることなく、神の御旨を実現するための道として歩まれたということでした。そしてそれは、十字架の死によってすべてが終わってしまう道ではなく、そこから何かが始まる新しい命の道であったということです。主イエスは、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と教えられました。これはご自身の受難について語るなかで述べられた言葉です。一粒の麦の死が多くの実を結ぶこと。それは上野英信さんが言う、「蚕が繭を作るような仕事です」という言葉に引き継がれているのだと思います。
人はいつかこの地上での命の終わりを迎えなければなりません。でも、それがたんなる死ではなく、多くの実を結ぶもの、あるいは繭が育てられていくようなものであれば、なんと素晴らしいことでしょうか。つまり、わたしが今ここで、三浦綾子さんと、上野英信さんについてお話ししたことは、どちらも、死というものをすべての終わりと見るのではなく、新しい命への一つの過程に過ぎないということであり、そしてこの人たちは、死ぬ仕事、あるいは死ぬための仕事と言いつつ、実際には、もっとその先に心を向けておられたということが分かるのです。
旧約聖書の申命記の終わりのところで、出エジプトの指導者モーセが亡くなります。エジプトを脱出し、約束の地に到着する直前、約束の地を目の前に見ての死でした。わたしはこの話を読むたびに、モーセは残念だったろう、せっかく苦労してここまで来たのに、約束の地に入れないなんて、と思っていました。でもわたしは今はそうは思いません。信仰者の生き方が実にここに言い表されているのだと思えてなりません。つまり、キリスト者の生き方とは、次の世代の人たちが、約束の地に入り、恵みを豊かに受けるために、自らは進んで重荷を担うことであり、多くの実を結ぶために、自らは一粒の麦となることだからです。そしてそのとき、重荷や苦労にその心を向けるのではなく、むしろそのかなたの約束に心を向けることなのです。
私は、葬儀のときにしばしばヨハネによる黙示録21章をお読みします。そこには、「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」と書かれています。黙示録は、「もはや死はなく」と言うのです。葬儀のときに読むのですから、人の目には、死という厳しい別れが現実にそこにあります。にもかかわらず、わたしは聖書から、「もはや死はなく」と読ませていただくのです。それは、墓は空であり、死は空しくされ、もはや悲しむことも、嘆くこともない、死は取り去られたのだという福音を伝えたいからです。
ところで、宗教改革者のマルティン・ルターは、たくさんの説教を残していますけれど、そのなかから、受難節の説教と復活節の説教をまとめて編集されたものとして、「イースターブック」という本があります。そして、そのなかに納められている復活節の説教の最初の説教のタイトルは、「空虚な墓」という題です。つまり、空の墓というタイトルです。ルターは説教のなかで、女性たちが墓を訪れたこと、天の使いから「イエスはここにはおられない」と告げられたことを述べ、主は墓のなかにおられず、亜麻布だけが残っていたことを述べ、そして、「クリスチャンはキリストのいらっしゃる所にこそ、いるべきです」と述べます。
そして、ここからがルターの信仰と才知が良く表れていると思うのですけれど、ルターは、「墓の中に残されたもの、それはこの世の正義、知恵、敬虔、律法といったものです。あなたは地に属するそうしたもののうちに、主を求めるべきではありません」と言うのです。わたしたちは、この世のさまざまな価値のなかに、自分にとって大切なものを探そうとします。この世の知恵、この世の判断、掟、能力、効率、そういったもののなかに大事なものを見つけようとします。あるいは逆に、この世の知恵、この世の判断、この世の価値観からして、今はあれがない、これがないと、足りないものばかりを数えようとします。
しかし、ルターは、そこに主はおられないと言うのです。ルターのこの説教には、当時のカトリックに対する厳しい批判と、同時に農民戦争をおこなった農民たちへの批判があります。修道院の戒律や、断食や徹夜、祭服のうちにもキリストはいましたまわないとルターは言っています。わたしはその主張を全部そのまま受け入れることにためらいを覚えます。けれども、空虚な墓ということを通して、わたしたちが何を探そうとしているかということを問うているのは、鋭い視点だと思います。
キリストはここにはおられない、主は死さえも空しくされたのです。パウロは、第一コリント15章で、主の復活について証言をし、「死が滅ぼされます」と言っています。また、第二テモテ1章にも、「キリストは死を滅ぼし」と書かれています。墓は空である。それは主キリストが死に打ち勝たれたしるしです。わたしたちがこの世の価値や判断に依り頼まず、もっと先を見るべきなのです。キリスト者は、死のかなたに続くものを見るべきなのです。三浦綾子さんが「わたしにはまだ死ぬという大切な仕事がある」と言われたことも、彼女が自分の死を見ていたのではなく、もっと先に与えられる多くの実を結ぶ喜びを見ていたということであり、まさに復活を信じているものの言葉であったと思います。
このような道を辿ることができれば、どんなに素晴らしいことかと思います。悲しみのなかで、そこに終わりを見ない生き方。絶望のなかで、希望を失わない生き方。せんかたつくれども望みを失わない生き方。それは、キリストが死を滅ぼし、わたしたちに新しい命の喜びを与えてくださるという信頼から来ます。暗闇のなかに居つづけるのではなく、そのかなたにある光を見ること、争いのなかに居つづけるのではなく、そのかなたに与えられる和解の時を望み見ることです。墓の中に主をさがすのではなく、復活の主を仰ぎ見ることです。
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