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マルコ10・32―34
戦争を回避して欲しいと誰もが願っていましたのに、ついにイラクへの攻撃が始まりました。国連の決議があろうがなかろうが、どれだけの国が賛成しようが反対しようが、いずれにせよ戦争を始めることは決っていたことのようです。戦争がテレビで生中継されています。暗い町がシルエットになって浮かび、そこに光が飛び交っています。湾岸戦争のときにも感じたことですが、それはまるでテレビゲームの世界のようです。テレビのチャンネルを変えると、アメリカの大リーグで、誰がヒットを打ったというような話題を放送しています。バラエティー番組はいつものように、どんなことでも笑いの種にしてしまっています。実際には、暗い町には眠れずに夜を過す人たち、おびえて過す子どもたち、そして爆撃を受けたところでは人が死に、また傷ついているというのに、テレビの画面を見て、そういった想像力を働かせるのは難しいことです。わたしたちは、もっと想像力を働かせなければならないと思います。政治的な主義主張を持つことではなく、人が傷ついていることへの想像力こそが大切だと思います。そして主イエス・キリストに従う者として、戦争の終結と平和を心から祈り求めたいと願います。
イラクへの戦争の陰に隠れて、あまり大きなニュースにはなりませんでしたが、先週16日、パレスチナで一人のアメリカ人が亡くなりました。イスラエルの軍隊がパレスチナ人の家をブルドーザーで破壊するのを阻止しようと、ブルドーザーの前に「人間の盾」として立ちはだかった女性が轢き殺されたのでした。レイチェル・コリーという名前の23歳の女性でした。写真を見ましたが、普通の工事現場で使うようなのではなく、もっと巨大なブルドーザーでした。運転していた人の目には、彼女がそこにいるのははっきりわかっていました。戦争とは、かくまでも人間の心を残虐にします。傷つき、命を失う人々が被害者であるのは言うまでもありませんが、戦争にかりだされた兵士の心がここまで残虐になれるとすれば、この兵士たちも広い意味で戦争の犠牲者なのでしょう。戦争に勝者はいないと言われるのは、そのような意味だと思います。
福岡にある日本バプテスト連盟伊都教会の木村公一牧師が、現在イラクにおられます。「人間の盾」となるために今月12日に成田を発ち、モスクワ経由で13日にバグダッドに入りました。現在バグダッドの北15kmのところにある変電所におられるとのことです。木村牧師は、出発に先立って書かれた文章のなかで次のように述べておられます。
「『人間の盾』(human shield)、それは米英軍によるイラク民衆への攻撃に対する盾です。これはトマホークや劣化ウラン弾に対して最も弱い盾です。物理的に弱いだけでなく、政治的にも弱い盾です。そのような『人間の盾』で世界が変わるとでも思っているのか、と問われれば、わたしは何も答えることができません。けれども、まったく弱い盾であるが故に、わたしは、その弱い盾でもって、人類が考案した戦争という最も野蛮で罪深い犯罪を回避しようと願っているのです。祈りと願いを同じくする世界の人々と共にイラクで病院や子供たちの避難場となる学校や貯水池などの公共施設で『盾』の働きをすることになるでしょう。主の守りと導きを信じて前進したいと思います。」
この文章のなかで、木村牧師が繰り返し語っておられることは、自分の行動はミッション、つまり宣教の働きだということでした。ミッションの内容、宣教の内容は次のことです。1.イラクのキリスト者とこの困難の中で共に礼拝を持つ。2.イラクのイスラム教徒とこの困難を分かち合う。3.「人間の盾」の仲間たちと共に礼拝の時を持つ。4.イラクの子どもたちや弱い立場の人々とこの困難をも共に分かち合う。そして木村牧師はいくつかの祈りの要請をしておられます。「政治がキリスト者とイスラム教徒の宗教対話の関係に分断をもたらす状況下にあって、日本の教会はそのような分裂を許さない信仰とミッション論を持つように。」
以上のような使命感と宣教の方針を持って旅立たれたのでありますが、わたしが何より驚いたのは、木村牧師のこの働きを、日本バプテスト連盟伊都教会が教会の宣教の働きとして認め、臨時信徒会を開いたうえで、教会として送り出したということでした。また、日本バプテスト連盟の宣教部はこのことの支持を表明し、支援を訴えています。わたしは「人間の盾」に志願した人がいるということに、それを木村さんという一個人の決断として敬意を表しますが、しかしそれを教会として送り出し、支援するということが、どんなに大変なものかと思わされます。生きて帰ってこられるかどうか分からない土地へ送り出すことに賛成することがどんなに大きな責任を伴うかは言うまでもありません。テレビゲームを見ているような気分で画面を見ていることなど到底できません。送り出すことは、ある意味で、自分もその場所に身を置くことになるからです。
わたしは教会が木村牧師を送り出したということを知ったときに、最初に考え、思い出したのは、先々週3月9日の礼拝でお読みした聖書の箇所でした。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。」主イエスはここで、ご自分が十字架に死なれることを予告しておられます。そしてこれを聞いた弟子の一人ペトロは、先生、そんなことを言ってはいけません。殺されるだろうなどと、なんということを言うのですかと、主イエスをいさめるのです。それも、わきへお連れしていさめ始めたということで、その光景が目に浮かぶようです。そしてこのあと、主イエスは、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、ペトロを叱られたのでした。
わたしはこれまで、この箇所を一面的に読んでいたように思います。マルコによる福音書は、弟子たちが主イエスのことをしばしば誤解しています。弟子たちの無理解ということが、マルコによる福音書のモチーフの一つであると、注解書にも書かれています。この箇所でも、主イエスが受難の道を歩まれているのに、ペトロがそのことを理解せず、わきへお連れしていさめ始めたということです。先々週の礼拝で、わたしは、「ペトロにしてみれば、愛する先生が死んでしまうなどとんでもないことだと、主イエスのことを思って、このようにいさめたのだとは思います。しかしそれは結局人間的な思いだけであって、主イエスの本当の使命を理解せず、また主イエスの愛や教えを理解していなかったということになります」と、このように話しました。この言葉に間違いはありません。聖書の読み方として間違っていないと思います。
でも、先程申したように、わたしは教会が木村牧師を送り出したということを知ったとき、わたしがこの教会のメンバーであったならどうしただろう、賛成しただろうか、反対しただろうかと思わされました。そう簡単に、行ってらっしゃいとは言えない自分を思いました。親しい人を命の危険のさらされる場所に送り出すのに、それはごく当たり前の反応だと思います。それを思えば、ペトロが、主イエスの受難の道を引き止め、いさめたというのは、ごく自然な反応です。ペトロは、主イエスのことを本当に心配し、心からその身を案じたのです。先生が志している生き方、他の人のために命を捨てるほどの愛は本当に大事だ、でもそんなにまでしなくてはいいではないか、武器も持たず、力も持たず、何も持たないで、自分で進んで身を危険にさらしていくなんて、そんなことまでしなくてよいではないか、そう思って、わざわざ主をわきへお連れして、思いとどまらせようとしたのでした。
ところが、このとき主イエスはペトロを叱って言われました。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」これは厳しい言葉です。サタンとは、誘惑する者という意味ですから、ペトロに向かって「サタン」と言われたということは、「お前はわたしを誘惑するのか」といった意味で使われたのでしょう。マタイとルカが記録している荒れ野の誘惑において、サタンは、石をパンに変える誘惑、この世の権力をあげようという誘惑、神の守りを試してみろという誘惑をしました。主イエスを引き止めようとしたペトロは、結局このようなサタンの誘惑と同じことをしてしまっているというのです。
そしてこのようにペトロを叱られたあとで、主は人々に向かって教えられます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」このように、主の十字架を知る者は、自分のことだけを思うのではなく、また人間的なつながりだけを思うのではなく、自分を捨て、自分の十字架を背負うということをしなさいと、主は人々に、そしてわたしたちに教えておられるのです。
今申し上げたのは、マルコ8章から第1回目の受難予告でした。受難予告はこれだけではありません。福音書には、主イエスがこのようにご自分の受難を予告される場面が繰り返し出てきます。第2回目の受難予告は9章30節以下です。このときも、主イエスの受難予告を聞いた弟子たちは、それがどういうことなのか、いったい何が起るのかを知りたいと思うのですが、9章32節によれば、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」ということです。怖くて尋ねられなかった。そして第3回目の受難予告が今日皆さんに読んでいただいた10章32節以下です。そして今や主イエスは、言葉で受難について説明するよりも何よりもまず、先頭に立って進んでいかれるのです。「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。」もはや事態が大変切迫している様子がこのことからもうかがえます。主イエスと弟子たちの旅は、都エルサレムに近づきます。そこは受難の地、十字架にかけられる土地でした。そこへ向かって主イエスは先頭に立って歩いていかれる。弟子たちは驚き、従う者は恐れたのでした。
そして恐れ驚く弟子たちに、主イエスは3度目の受難予告をされます。その予告の内容は、第1回目、第2回目よりも詳細です。1回目はただ「排斥され殺され」と書かれているだけです。第2回目は「人々の手に引き渡され、殺される」と書かれているだけです。しかし第3回目にあたる今日の箇所では、非常に具体的です。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
まさに弟子たちが驚き恐れたことが具体的になろうとしている。このことを聞いた弟子たちに、いったい何ができるのでしょうか。「それは素晴らしいことです、先生さあエルサレムに行って十字架におかかりください」などと、どうして言えるでしょうか。ペトロをはじめとする弟子たちは、主イエスをなんとか引き止めたい、なんとかとどめたいと考えたのでした。でも、今や主イエスは先頭に立って十字架への道を進んでおられます。
以前に講談社から出され、現在日本キリスト教団出版局から出されている「福音書のイエス・キリスト」という全5冊の本があります。その第2巻はマルコによる福音書でありますが、本のタイトルは「十字架への道イエス」(川島貞雄著)というものです。聖書の福音書によってそれぞれこのことを読者に伝えたいという特徴がありますが、マルコによる福音書の特徴をひとことで言えば、「十字架への道」ということになります。マルコによる福音書は、「長い序論のついた受難物語」だと説明されます。そこに描かれる主イエスの生涯は、すべて受難を抜きに考えられないのです。そしてそれは他者に仕える道です。そしてまたこの他者に仕えるという十字架の道は、従う弟子たちが歩むべき道なのです。
とはいえ、繰り返し申しますが、この道に従うのは容易ではありません。弟子たちがあれだけ無理解な様子を示しているのは、弟子たちが悪いのではなく、他者に仕えるということの難しさを意味しているのでしょう。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」従うというのは難しいことです。「福音のために命を失う」というのは、だれもができることではありません。だれもができることでないばかりか、それを聞くものは「驚き、恐れ」ます。
この度の戦争は、世界中で反対の声が起っています。日本でもたくさんの人が集まっています。これまでデモなどというと、政治団体や労働組合が中心でしたが、今回はむしろ市民団体が中心になっているようです。そしてそこで言われていることは、戦争が憎しみの連鎖を生み出すだけだということです。あのような大規模な爆撃をおこない、死の恐怖にさらされ、また肉親の命を奪われた人は、いつまでもその憎しみを持ちつづけることでしょう。そして憎しみの連鎖が始まることでしょう。主イエスが十字架への道を歩まれたことの意味の一つは、敵をも愛する愛、自らの命をささげる愛によって、憎しみの連鎖の鎖を打ち砕かれることであったと思います。憎しみが続くこの世界で、自分の身を差し出されることによって、憎しみを終わらせようとなさったのです。それは、2000年前の世界の片隅で起ったことです。でも、そのことを聞くわたしたちは、そこに何かしら本当の生き方、真実があるということを知っています。従うわたしたちもまた、この道につながりたいと願うのです。
主イエスがもし、今この時代に生きておられるなら、戦火に苦しむ人々のそばにいって、ご自身が苦しみを受けられただろうと思います。主イエスを慕うわたしたちは、先生、そんなことをしてはいけませんと、引き止めることになるのでしょうけれど、主イエスは先頭に立って歩まれるに違いありません。シェンキヴィチの「クォヴァティス」のラストシーンで、ペトロは自分の身を守るために迫害の激しいローマから逃れようとします。そのとき復活の主イエスが現れ、「なんじ我が民を棄つる時、我ローマに往きて再び十字架に懸けられん」と言われました。今このとき、主イエスは再び十字架にかけられんとしておられるのではないでしょうか。
先週20日に始まった戦争の知らせに心傷め、今日は、そのことを多くお話ししてきました。わたしはここで、イラクという国の評価や、アメリカの政策の評価や、政治的判断を述べるつもりは毛頭ありません。政治的な主義主張を述べているつもりはありません。わたしが言いたいことは、人が傷ついていることを共に痛む感性です。人が傷ついていることへの想像力です。そしてそこで、驚き、恐れ、時に、引き止めるしかない心のなかで、なんとか苦しんでいる人たちと共に生きようとする志だと思います。主がわたしたちのために命を捨ててくださったということを、どれほど驚きと恐れ、そして感謝をもって受け止められるかという、信仰的問いかけがわたしたちに向かってなされています。このことは、遠い昔の出来事として聞くのではなく、「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」という出来事として出会っていくべきことなのです。そしてそれこそが、憎しみの連鎖を断ち切る、平和への道ではないでしょうか。
木村牧師は、そのミッションの内容として、イラクの子どもたちや弱い立場の人々とこの困難をも共に分かち合うと言っておられます。実際にできることはわずかであり、小さな一個人の象徴的行動という以上に何もできないと思います。でも、そのことがわたしたちに突きつけている問いはとても大きなものがあります。主イエスに従う者の道として決断されたことを、わたしたちも祈りつつ覚えていきたいと願います。
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