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マルコ9・14―29
世の中には、本当に立派な信仰者がおられます。語る言葉、なさる行い、どれを取っても素晴らしいなあと思わされます。マザー・テレサや、コルベ神父、マーティン・ルーサー・キング牧師といった人たちの伝記を読むと、ああ、こんなに素晴らしい信仰者がおられるのだと、感心をさせられます。
キリスト教関係の図書目録を見ると、たくさんの人たちの伝記が書かれています。また小説として描かれています。カトリックでは、すばらしい信仰に生きた人たちを聖人とし、信仰の模範としています。もちろん、こういった立派な信仰者のなかにも、人間的な弱さや欠けがあるのは間違いないことであり、伝記を読むと、人間的過ちをも合わせて紹介されていたりしますけれど、それでも、私などに比べれば、その弱さや欠けも小さなものだと思えます。あんなに素晴らしい信仰を持つことができればどんなに良いだろうと、ただただ感心させられるばかりです。
でもどうでしょうか。そんな立派な信仰者が世の中におられるのは認めますが、かといって、教会に集う人たち全員がマザー・テレサのような人たちばかりではありませんし、聖人たちばかりではありません。いやそれどころか、それらからあまりにもかけはなれた弱さや罪深さを持っているのがわたしたちの現実だと思います。ところが、弱さや罪深さを持っていながら、そのことを口にすることは恥ずかしいことで、教会では、なんというか、信仰深いように体裁をつくわなければならない、良い子でいなければならないといった面があるのではないでしょうか。
教会の祈祷会などで聖書の学びをしていると、難しい箇所を理解できないのが、とても恥ずかしいことであるように語られる場合があります。自分は勉強していないからと、申し訳なさそうに言われることがあります。でも、聖書は現に難しいのです。その歴史的社会的背景を知らなければ、わからないことが多いし、なんといっても2000年前の文書ですから、その表現方法は今日のわたしたちの方法とは随分違うのです。難しいと思うのが当たり前で、自分は分かっているともし思うとすれば、そちらのほうがよっぽど問題です。
教会の牧師をしていて、よく尋ねられる質問の一つに、「私のように信仰を持っていない人間が教会に来ていてもいいのでしょうか」という問があります。長い間、教会の礼拝に来ておられるのですが、洗礼を受けるにいたっていない、そんなことから、自分はここに来ていてもいいのだろうかと思われるようです。それと、まったく見知らぬ方から、「私は信者ではありませんが、礼拝に行ってもよいでしょうか」と聞かれることがあります。
教会という所は、誰にでも開かれており、初めてのかた大歓迎なのですが、どうも敷居が高いと思っておられるかたが少なくありません。それはそのかたのせいではなく、やはり教会のがわの問題です。洗礼を受けていない者には居心地の悪い場所になってしまったり、また教会を知らないかたには入りにくい特別の場所になってしまっているのかも知れません。
昨年秋に創刊された「ふぁー」という雑誌で、チェ・ソンエさんという女性が次のように語っておられました。「教会では『神さまを信じている』前提が必要とされていました。わたしはそんなふうに信じきれているのか自分自身でも分かりませんでしたが、教会ではそうつぶやくことを許してくれません、いえ悩むことさえ許してくれなかった。・・純粋に信じている人たちに水をさすようなことを言ってはいけないのが教会でした。しかし、わたしが教会に求めたのは、信じることができないような人がそこで悩むことができる場所でした。」わたしはこの言葉に共感します。特に最後で言われていた「わたしが教会に求めたのは、信じることができないような人がそこで悩むことができる場所でした」という言葉はとても大事なことだと思います。
世の中の圧倒的に多くのキリスト者たちは、自分の信仰のなさ、足りなさを感じておられるのではないでしょうか。ある方は、自分は聖書をまだ全部読んだことがないと言われます。またある方は、自分は洗礼を受けてから年月ばかりはたったけれど、未だに神様のことをよく分かっていないと言われます。また奉仕の少なさをおっしゃるかたもおられます。このように、自分の信仰に自信を持つことができないというのが、多くの人の現実だと思うのです。教会というところが、そういったことを、もっとお互いに正直に出し合って、そして互いにそれを受け入れ、励ましあっていけるような、そんな場であればと思わされます。
わたしは、キリスト教ラジオ放送FEBCで、「信仰のないわたしを」という番組を担当しています。前任地の教会にいるとき、依頼を受けて日曜日の礼拝が録音され、放送され、その後番組を持つように頼まれて、「ホットライン」という番組を担当しました。それは、聴取者のかたから届いた手紙をお名前を伏せて朗読し、お返事をするという内容でした。そのとき、実に多くの悩み、そして人と出会うことができました。自分にはとても答えられない、重い、苦しい問いが多くありました。そしてそのようななかで、実に多くの人が教会でつまずいているということを知らされました。また、立派な信仰を持つことができないで悩んでいる人がおられました。
東京に来てから番組を再度持つことになり、今回は前のときのように聴取者のかたの手紙を直接読むということはしなくなりましたけれど、でも、わたしは放送を再開するにあたって、今申したような、立派な信仰を持つことができないで悩んでいる人や、あるいは教会という場でつまずいている人たちに話を聴いてもらいたいと思いながらやってきました。自分の信仰に自信を持てないでいる人、制度としての教会に疑問を感じている人、教会のなかで見られる権威主義に失望を感じたり、教会のなかでの出来事や、人の言葉に躓きを覚えている人、教会から離れてしまっている人、そういった方たちのことを念頭においてきたのです。
もちろん、毎回、すべての人に配慮したような話などできるはずがありません。でも、少なくとも、自分は信仰があると思っている人よりは、自分は不信仰でと、自分の足りなさや弱さを感じている人に聴いてもらいたいと思ってきました。
そして、放送を始めるにあたり、番組のタイトルをどうしようかと考え、私の好きな聖書の言葉の一節を用いさせていただくことにしました。それが「信仰のないわたしを」という言葉です。私には、聖書の中に好きな言葉や、ああこれは大事だと思う言葉がいっぱいありますが、そのなかでもこれだというのを一つだけ上げるとすれば、この言葉だと思います。そしてほかならず、今日皆さんに読んでいただいたマルコによる福音書9章14節以下にこの言葉が出てきます。それは病気の子を持つ親が、主イエスと出会ったときに思わず叫んだ言葉です。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」私はこの言葉がとても好きなのです。
「信じます。信仰のないわたしを」。これは矛盾した言い方です。信じますと叫んでいるのは、信仰のなさを認めている私です。信仰のない私が、信じますと叫んでいる。ここに、私たちの信仰の本質的な姿が現れていると思えてなりません。この人は自分に信仰がないことを知っています。疑ったり、迷ったり、調子のいいときには神様のことなど考えず、ちょっと困ると神様なんていないなどと思ってしまう。私には信仰があるなんて言えない、でも、私は出来れば信じたいんです。出来れば、神様の助けをいただきたいんです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」とは、この揺れ動く心の中で、思わず叫ばれた言葉だと思います。
放送のことをもう少しお話しさせていただきますが、放送の最初にナレーションが入っています。「愛したいけど愛せない、赦したいけど赦せない、神さまはそんなわたしたちを知っておられます。さあご一緒に神さまに向かって申しましょう。信じます、信仰のないわたしをお助けくださいと。」これはFEBCのスタッフのかたが考えてくださった言葉ですけれど、わたしが番組をとおして言いたいことを、実に的確に表現してくださっています。
一人の父親が悪い霊につかれてひきつけを起こしている息子を主イエスのもとに連れてきます。最初この父親は、主イエスの弟子たちに、子どもの病気を治してほしいと頼んだのでした。「先生、息子をおそばに連れて参りました。・・・この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しました」と述べられています。でも、弟子たちはその子の病気を治すことが出来ませんでした。
主イエスはそれに対して、「なんと信仰のない時代なのか」と言っておられます。厳しい言葉です。でも、この言葉は信仰のなさを裁いて、それで終わりなのではなく、むしろ、この社会、わたしたちの現実をそのまま言い表し、わたしたちに憐れみを与えてくださっている言葉のようにも思えます。ここで「なんと信仰のない」と言われているのは父親のことであるよりは、主イエスの弟子たちのことです。主イエスに従っていた弟子たちでさえ、立派な信仰など持ち得なかったのです。
そういったやりとりがおこなわれ、最後には、主イエスによってその子は癒されたのですけれど、ここでわたしが興味を持つのは、子どもの父親の心境が変化していっているということです。心境の変化ということを、父親の言葉から推測することができます。この物語の最初で父親は、「先生、息子をおそばに連れて参りました。・・・この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しました」と言っています。病気の子の病を治して欲しいという父親の願いから始まっています。癒される必要があるのは息子のことであって、父親自身は自分に問題があるなど思っていません。でも、次に父親が言った言葉は、「わたしどもを憐れんでお助けください」です。息子とわたしの両方を憐れんでくださいと、言っているのです。そして最後に父親が言った言葉は、「信仰のないわたしをお助けください」です。この言葉を順に読むと、救われるべき者が、子どもから父親へと変化していることに気づかされます。その意味で、主イエスの癒しと救いは、病気の子どもに対してだけではなく、父親に対して与えられたのでした。
わたしはこれまでに、多くのかたからがさまざまな問題に悩んでおられるのを見聞きしてきました。そしてたとえば、子どもさんの問題で悩んでいる人の悩みを聞いているときに、どうもお子さんに問題があるのではなく、親のほうが心の行き詰まりを持っているのをしばしば気づかされてきました。子どもの将来のレールを親が全部敷こうとして、それがうまくいかないと悩んでいる人が多いのを見聞きしてきました。夫を受け入れられない自分とか、子どもの自立を受け入れられない自分というように、問題が他にあるのではなく、相談者自身にあると気づかされることが多くありました。
今日の話で、子どもは悪い霊につかれてひきつけを起こし、何か具体的な病にかかっているのですから、癒されるべきはお子さんの病気であることは確かです。でも、そのことを重荷として、心配や思い煩いにつぶされそうになっている父親もまた、癒され、解放されるべき一人だったのです。
父親は、主イエスとの出会いによって、そのことに気づかされました。最初は、「息子を治してください」と言っていたのに、次には、「わたしどもを憐れんでください」と言い、最後には、「わたしをお助けください」と言ったのでした。しかも、「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と言ったのでした。
鷲田清一さんの「弱さのちから」という本のなかに、遠藤さんという、24時間介護を必要とする人の話が書かれています。24時間要介護で、他のだれかに身をまかせないと生きていけません。ボランティアと遠藤さんとの関係は、何かをしてあげる、何かをしてもらうという一方通行のように思えます。ところがその本で書かれていたのは、「介助する側が個人的に抱え込んでいるこだわりや鎧をほどいてゆく光景がここに開けている」ということでした。人はだれでも、さまざまなものを自分のなかに抱え込み、また鎧を着ているのだと思います。でも、そういったものを解き放たれ、ほどかされていくこと、それが主イエスとの出会いだとわたしは思います。あるいはまた、自分は正しいと思っている人間が、自らを省み、自分の弱さを認め、救いを求め、そして解放されていく、それが主イエスとの出会いだと思うのです。
「信仰のないわたしを」という番組を持っているなかで、わたしが直接聞いたわけではありませんが、FEBCのほうに、「牧師である者が、信仰のないわたしなどと言うのはおかしいではないか」という意見があったそうです。確かにそのとおりです。
わたしは誰かに「お前は信仰を持っているか」と尋ねられれば、「キリスト教の信仰を持っています」と答えるでしょうし、あるいは毎週のこの礼拝で、使徒信条を朗読し、わたしは信じますと告白をしています。信仰があるのか無いのかと問われれば、あると答えるべきなのでしょう。でも、私は、信仰というのは、常に追い求めていくべきものだと思っています。あるとき、信仰を得て、それから後の人生は、波も風も無い信仰を保つというようなことはあり得ないことです。
それは、キリスト者たる者、誰でも同じです。信仰に波風があるのは当然なのです。熱くなったときもあれば、生ぬるいときもあって当然なのです。それをあたかも、波風がまったくないように装い、いつも立派な信仰を持ちつづけているようにしているとすれば、かえって何か問題があるのではないでしょうか。
新約聖書に登場するファイリサイ派の人たちや律法学者たちの言葉と行動を見ていると、彼らは、自分たちは信仰がある、自分たちは行いが正しいと、言うならば自己義認しています。そしてそんな彼らが、主イエスを陥れようとしたり、病める人や貧しい人を裁き、愛のない行いをしています。そしてこのことは、残念ながら、今日の教会でも似たようなことが見られます。信仰的言葉が語られながら、そこで人を裁いたり、排除したりという悲しい現実があるのです。
私はそもそも、信仰というのは、自らの足りなさを神様の前にさらけ出して、神様の愛と赦しのなかを歩ませていただくことだと思っています。その意味で、自分には信仰があると思ったならば、それはすでに神様の前には高ぶりでしかないと、私は思うのです。パウロはまた第一コリント8章でこう言っています。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。」この言葉は大切なことを言っていると思います。そして私はここで言われている「知っている」というのを「信仰」という言葉に置き換えても、これはなお真理だと思うのです。つまり、「自分は信仰があると思う人がいたら、その人は、信仰についてまだ知らないのです。」このように言い換えることができるのではないでしょうか。
主イエスはまた、自分たちこそ立派な信仰を持っていると自負していた人々に向かって、厳しく問い掛けられました。たとえばヨハネによる福音書9章で、主イエスは目の見えない人を癒されました。でもそのとき、聖書のおきてを守ることに熱心なファリサイ派の人たちは、イエスを批判したのです。安息日にこんなことをするなんて許せない、そもそも何の権威でこんなことをしたのだと、彼らは批判するのです。彼らは宗教熱心でした。それこそ信仰のある人たちでした。
このとき主イエスは自分を批判する人々に向かって、「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある」と言っておられます。これはすごい言葉だなと読むたびに思います。そしてこの言葉も次のように言い換えることができるのではないでしょうか。「今あなたがたが『信仰がある』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」
私たちに必要なことは、神様の救いなしには生きられない自分に気付くこと、自分の弱さ、罪深さに気付いていくこと、それこそ信仰の不十分な自分を神様のまえにさらけだしていくことではないでしょうか。その意味で、今日の物語で、「信じます、信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ一人の父親の姿は、私たちが常に覚えておくべき言葉であり、また姿勢だと思うのです。
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