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マルコ5・21―24、35―43
先週の午後、この教会を会場にして、東京教区東支区社会委員会主催の学習会がありました。「心の病を理解するために」というテーマでした。そのときに、わたしは話を聞きながら、最近読んだ書物のなかに書かれていた一節を思い出して、自分のなかで反芻していました。それは、哲学者の鷲田清一さんが書かれた「弱さの力」という本のなかに、北海道浦河にあるベテルの家のことが紹介されているのですけれど、そのなかに書かれていた言葉です。
この言葉を言う前に、ベテルの家を皆さんはご存知でしょうか。これまで何度もテレビで紹介され、また本になっています。心の病を負う人たちが、共に集まって、北海道日高の昆布などを販売する作業所としてスタートしました。日本キリスト教団浦河伝道所の働きのなかから生まれた作業所です。わたしは今から10年以上前、札幌でおこなわれた学習会で、浦河伝道所の当時の福島隆助牧師、それから浦河日赤病院の医療ソーシャルワーカーである向谷地生さんからベテルの家の活動について話を聞いたことがあります。普通、障害を負う人たちの作業所といえば、言葉は悪いですけれど、健常者が障害者に働く機会を与えるというケースが多いと思います。しかし、ベテルの家を中心的に担っているのは、心の病を負う人たち自身です。話し合いをするときも、司会進行は彼ら自身がおこない、医師やカウンセラーは傍らで聞いているだけだと言います。心の病のなかには、幻聴とか妄想を伴う場合がありまして、それらは普通あってはならない症状、悪い症状と思うのですが、ベテルの家では、幻覚妄想大会といって、誰の妄想が一番すごいかなどと、それを否定的にではなく、むしろ妄想や幻聴、幻覚というものを、長く付き合っていく仲間のように考えているのです。そういえば、前に見たテレビ番組では、ベテルの人たちが、幻聴さんいらっしゃいと、歌をうたっていました。ベテルの家では、申しましたように、昆布などを販売していますが、今や年商は億を超えています。今では町一番の大きな産業だといいます。
話を戻し、鷲田清一さんはベテルの家について紹介する文のなかで、次のように言われます。これはソーシャルワーカーの向谷地さんの考え方のようです。「苦労は生きているひとみんなにある。『治る』というのは生きていくうえでの別の苦労に戻ることでしかない。」わたしはこの言葉にひどく納得しました。
心の病といっても、症状や原因はさまざまで、一概にくくることなど出来ません。でも、わたしはしばしば心の病を負っている人と出会い、話をするなかで、感じることがあります。それは、心の病を負う人が、本当に真面目で、この世の重荷やゆがみやひずみというものを、まともに受け止めておられるということです。多くの人間は、そしてわたしもまた、それらの問題を心のどこかで誤魔化してしまったり、あるいは何かで発散させたりしてしまっているのですけれど、病を負う人は、それを誤魔化すことも、発散させることにも不器用で、それだけ真面目で、その結果、自分で問題を背負うことができなくなっているのではないか。わたしは、そのように感じることが多くありました。心の病を持つ人は、それだけ真面目で、正しいのです。真面目に正しく生きているか、それとも誤魔化してしまっているか、それを考えると、どちらが健康なのか、どちらが不健康なのか、わたしにはなんとも言えません。
心の病を負う人が、治って、社会復帰をしたとしても、そこはまた心の病を起こさせるような環境であり、たくさんのゆがみやひずみのある所です。心の病でなくとも、たとえば生活習慣病にかかった人が、病気を治して、そして前と全く同じ生活習慣を続けていてはなんにもなりません。そうであるならば、治って元通りになるよりは、新しい生き方へと変えられることのほうが、わたしたちにとって大事なことだと思えます。
学校教育の現場で、教職員の心の病による病欠が急増していると聞きました。わたしの知人のいる学校では、数年前から「教職員ストレス相談利用券」というのが配布されているそうです。この券と保険証をもって、指定医療機関に行くと、カウンセリングを無料で受けられるということです。昔から産業カウンセリングと呼ばれる働きがあり、それはそれで大事だとは思います。でもわたしは、表現が悪いかも知れませんが、学校という戦場で傷ついた人を治して、再び戦場に送り出しているように思えました。本当に必要なのは、学校を、この世界を戦場にしないことであるはずなのですが。
先週、知人から届いたメールには、イスラエルで、兵役を終えた若者のなかに、精神的な障害を負う人が増えているとありました。これまで、彼らは酒や薬で誤魔化してきたけれど、今ではそれも効かなくなったというのです。ヴェトナム戦争のあとも、アメリカの元兵士たちのなかに、心を病む人が多くでたことを聞いています。自分たちのしてきた残酷なことに精神が耐えられなくなってしまったのです。
手塚治虫さんのマンガに「火の鳥」という有名な作品があります。永遠の命がテーマとなっているこの作品のなかで、わたしがずっと印象に残っている場面があります。それは戦国時代の武将が、たくさんの人を殺し、自分も命を落しそうになるのですが、彼は命に執着します。どうしても生きたい、そして生きて元気になれば、また人殺しをするのだというのです。これは永遠の命ということの本質をよく突いていると思います。永遠の命とは、いつまでも生きて、人を殺し、悪いことをすることなのか。そうではないはずです。永遠の命というものがわたしたちに与えられるならば、それは、これまでの生き方とは決別したものでなければならないと思います。そしてそれが聖書の癒しではないでしょうか。
聖書を読むとき、福音書に描かれているイエス・キリストがなさった病人の癒しというのは、今申してきたように、ただ治って元通りになるというのとは違うように思います。そこにはなんらかの価値観の変化や生き方の変化があるとわたしは思います。彼らの多くは、これまでは、肉体の病だけでなく、宗教的に汚れているとされていたのですが、主イエスの癒しによって、神を賛美し、いかに口止めされようと、主イエスのなさったことを証しせずにおれなかったのでした。これまで疎外され、捨てられていた人たちが、自分も生かされている、愛されていると実感していったのでした。
5年前、教会の修養会に、その当時、賛育会病院の院長であった川越厚先生に来ていただき、お話をうかがいましたが、川越先生は、教団出版局から出ている「人間イエスをめぐって」という本のなかで、「治癒者イエス」という文章を書かれ、次のように言っておられます。「治癒者イエスの癒しの業は、病気そのものを対象としたものではない。病を担い、それゆえ苦しんでいる、全体としての人間に癒しの業が向けられているのである。」「あらためて述べるまでもなく、聖書は医学書ではない。病気の記載も治療の経過も今の感覚から言うと不十分である。・・・それよりも、目が見えなかったり、足の不自由な病人を癒したという意味は、病気そのものを治したということよりも、そのようなハンディを持つがゆえに社会から疎外される人間を、「癒し」という業を通して人間として受け入れていく、疎外から解放する、という意味合いが強いのである。それは神の恵み、愛を信じることによって実現する。このことを治癒者イエスはわたしたちに示しているのである。」そしてまた、川越先生は、「現代医療は、病気を治すことはできても、病人を癒すというところまで踏み込むことは難しいのである」と言っておられます。
主イエスは、病を負う人々と出会われ、進んでその病を治されました。病気の治療をなさいました。でもそれは、単なる治療ではなく、単に治すというのではなく、その人を全体的に癒すということだったのです。
今日ご一緒にお読みした聖書の箇所は、主イエスがなさった奇跡物語の一つです。ここでは、12歳になる少女が死にかかっており、父親のヤイロが主イエスのもとに助けを求めてやってくるところから話が始まります。ところが、話が途中で中断をして、別の女性が癒される奇跡物語が書かれ、そしてこの女性が癒されたのちに、再びヤイロの娘の話になります。ヤイロの家から人々がやってきて、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言うのです。そしてその後、主イエスがヤイロの家へ行き、死んでいたこの娘を生き返らせるという、奇跡をなさったというのが、今日のあらすじです。
話そのものが、それこそ今日の医療ではありえないと思える、死者の甦りであり、不思議なことです。そういった不思議さがありますが、それとともに、なぜ話の途中で別の話になっているのか、それもまた不思議なことです。事実このとおりの順序でおこったのだと言えばそのとおりですが、それだけではなく、ここに何かメッセージがあると思えます。
一つには、福音書記者マルコが、ほかの箇所でもしばしば用いている編集上の方法として、サンドイッチ形式と呼ばれるものがあります。ある一つの出来事の間に別の話をはさみ、全体として内容を強調するという手法です。ではいったい何が強調されているのか。ここで、間にはさまれている25―34節の物語について簡単に申します。有名な話ですし、前に説教で取り上げたこともあります。出血の病で12年間も苦しんでいる女性が、主イエスに癒してもらうためにやってきます。でも、正面から堂々と出て行くことができません。旧約聖書レビ記15章に書かれているのですが、この病気の女性は宗教的に汚れた存在とされていました。川越先生が言っていたように、この女性は社会から疎外された存在だったのです。そのために、彼女は主イエスにひそかに後ろから近づき、その衣に触れたのでした。そして癒されます。主イエスは誰が触ったのかとあたりをご覧になります。癒された女性は、進み出てひれ伏し、ありのままを話したということです。主イエスは、誰がさわったかぐらいは、すぐにわかるかたであったと思います。にもかかわらず、誰がさわったのかとあたりを見回される。それは、この女性が自ら進んで出てくるのを待っておられたかのようです。これまで、汚れた存在とされ、それも12年間もひっそりした生活をしなければならなかった彼女が、今、自ら進んで人の前に出て、ありのままを話す、ここには、治るという以上の大きな変化があります。そして、この癒しはどのようにしておこったのか、それは、34節にあるように、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と、つまり、彼女の信仰、主イエスへの絶対的な信頼、それこそが彼女自身を救ったのだと、この箇所で教えられているのです。
ヤイロの娘の話に挟まている、イエスの服に触れる女の話というのは、以上のようなことでありますが、この話がサンドイッチになることによって、なにより強調されているのは、主イエスへの絶対的な信頼、信仰ということです。この女性が、「あなたの信仰があなたを救った」と言われたことが間に挟まれて、会堂長ヤイロに対しては、36節で、「恐れることはない、ただ信じなさい」と呼びかけられています。ヤイロは、22節を見ると、娘を助けてくださいと主イエスの足もとにひれ伏しています。出血の病の女性が、33節でひれ伏しているのと同じです。このように、同じような状況がサンドイッチになっているのです。
でも、ここで、娘が死にかかっている会堂長ヤイロの立場になって考えてみたいと思います。自分の娘が死にかかっている、それがいかに大変なことかは言うまでもありません。主イエスに対して、「先生、おいでになって手を置いてやってください」と、まさに我を忘れるほどに頼んだのだと思います。
ところが、ここに言うならば邪魔者があらわれるのです。まず群衆がおおぜいあらわれ、イエスを取り囲みます。ヤイロにしてみれば、それどころではない、もっと早くという気持ちだったでしょう。ところがさらに、一人の女性が主イエスの服に触れ、そのことで、ヤイロの家に向かう主イエスの歩みがストップしてしまったのです。主イエスがその女性を探されたとき、ヤイロにしてみれば、探している暇があれば娘のところに早く行ってくれという気持ちではなかったでしょうか。こうしているとき、刻一刻と、自分の娘の命が危ない、早くなんとかという心境であったと思います。ところが主イエスは、この女性との出会いを大事にされたのでした。
このあと、家の者たちが来て、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と言っているのは、イエスの歩みがストップしてしまったことに対する抗議の意味があるのではないでしょうか。けれども、こういう、もう遅いと思える状況にもかかわらず、主イエスは、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われたのでした。そして、ヤイロの家に行き、少女に「タリタ、クム」と言われ、少女は起き上がります。信じられないような、大きな奇跡が起ったのでした。
「タリタ、クム」というのは、別に呪文ではありません。アラム語で、「少女よ、起きなさい」という意味です。なお、細かいことを言いますと、口語訳聖書では、「タリタ、クミ」となっていました。これは同じ言葉です。アラム語の方言によって語尾が若干変化するらしく、新共同訳でクムとなったのは、原文に近い音を表記したためです。
このように、「少女よ、起きなさい」の呼びかけによって、この子は起き上がります。12歳になっていたということです。ここで、流血の病の女性が12年間ずっと病気に苦しんでいたこととの、12という数字の一致に気づかされます。会堂長ヤイロにしてみれば、娘の病気は大変なことで、治してもらうためには一刻を争う事態でした。でも、その途中主イエスが癒された女性は、ヤイロの娘が生きてきたのと同じ年月を、病で苦しみ、そればかりか、社会からはずされて生きてきたのでした。
ヤイロにしてみれば、自分の娘のことしか頭にはなかったことでしょう。けれども、ここに、娘と同じ年月を、社会から疎外されて生きてきた人が、主イエスへの信仰によって癒されます。そして主イエスはヤイロに対して、「恐れることはない、ただ信じなさい」と言われる。このことは、ヤイロにとって、大きな生き方の変化を促すものであったと思います。
会堂長というのは、英語ではRulerと訳され、直訳すれば支配者とか統治者です。ユダヤ教の会堂の責任者であるだけでなく、村や町の長としての役割をしていたと思われます。そんな彼は、これまで、それこそ流血の病をもつ女性は会堂に入ってはならないなどと言う立場にあったのです。ところがそんな彼が、今日のこの物語で体験したことは、自分もまた、救われるべき人間の一人であるという自覚であり、それが信じることによってのみ可能だということの気づきではなかったでしょうか。あるとき、災難がふりかかるかのように、娘が病気になってしまった。そんなときに彼は、主イエスと出会い、また12年間病気であった人と出会ったのです。そして、申しましたように、ここでは、サンドイッチという形式を取りながら、信じることがわたしたちにもたらしてくれる大きな喜び、信じることによって人が癒され、起き上がり、変えられていくということが、強調され、わたしたちに福音として伝えられているのです。
そしてこれらのことを通して、彼らはまさに癒されたのです。治るというのは、別の苦労に戻ることでしかないという言葉を紹介しましたが、彼らは、その意味で、ただ治ったのではありませんでした。治ったのではなく、癒されたのです。12年間病に苦しんだ女性は、これまでとはまったく違う人生を歩き始めたことでしょう。ヤイロの娘は、まさに一度死に、生き返りました。単に治ったのではなく、新生とでもいうべき出来事でした。そしてそれはまた、父親のヤイロにとっても、同じく、主イエスへの信仰は彼を新しく生きるものとしてくれたのでした。
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