|
ヘブライ10・32―39
番町教会の創立は1886年、明治19年11月13日です。今年で117年を数えます。今日は創立記念礼拝をともに持つことができまして嬉しく思います。神さまがこの教会をたててくださったこと、そして今日まで守り導いてくださったことを感謝して、これからの歩みをも力強くすすめていきたいと願っています。
先週わたしたちは聖徒の日にあたり、永眠者記念礼拝を持ったのでありますが、この礼拝で記念された多くの天上の友たち、先輩たち、先駆者たちの祈りと働きがありました。そのうちの一人、重要な一人として、初代牧師の小崎弘道のことを今日は少し詳しく話をしてみたいと思います。小崎弘道というと、海老名弾正、宮川経輝とともに、3元老と言われるほど、明治期のキリスト教会にとって大きな存在でした。教会を建てただけでなく、東京基督教青年会(YMCA)を創立しています。立派な信仰とあわせて素晴らしい指導力を持っていた人物だと思います。けれども、わたしが興味を覚えるのは、そのような立派さであるよりは、むしろ神さまの大きな御手によって、おそらく小崎自身が考えてもみなかった方向へ、翻弄されるように運ばれていった人物であったということです。
小崎について話す前に、日本のキリスト教、プロテスタントキリスト教には3つの大きな流れがあると言われています。一つは、北海道の札幌農学校において、アメリカの農学者であったクラークによって教えられた人たちで、内村鑑三や新渡戸稲造がいます。内村は無教会派の創始者となっています。新渡戸はクエーカーです。もう一つは、横浜において、オランダ改革派のブラウンやバラという宣教師に教えられた人たちで、植村正久や本田庸一がいます。植村は日本基督教会、本田は日本メソジスト教会の指導者です。そしてもう一つは、熊本洋学校で、ジェーンズによって教えられた人たちで、このなかに海老名や小崎がいたのです。彼らは後に熊本バンドと呼ばれるようになります。
熊本洋学校は、熊本藩が1871年、明治4年に開いた学校でした。教師はジェーンズひとりで、全教科を担当しました。授業に通訳はもちろんおらず、アルファベットから始まって物理や歴史も教えられ、ついていけない学生は次々と退学をしたそうです。明治維新によって生まれた新しい政府は薩摩と長州が中心でしたから、熊本藩は独自に外国の文化を取り入れて人材を育成しようとしたのです。
ジェーンズは熱心なキリスト者でした。最初はキリスト教のことも聖書のことも何も話さなかったのですが、開校して3年目に、毎週土曜日の夜にジェーンズの自宅で聖書の勉強会をするから、希望する者は参加するようにと誘ったのでした。そしてこれに参加した人たちのなかから35名が、翌年花岡山というところに集まり、奉教趣意書というものに連名で署名をし、信仰告白が言い表されたのでした。けれどもこれに驚いたのが熊本藩です。洋学を取り入れ人材育成をするつもりが、大挙してキリスト教徒が生まれたものですから、天地がひっくり返るほどの騒ぎになったそうです。激しい迫害がおこり、番町教会第2代目の牧師となった金森通倫などは家族の者たちから座敷牢に入れられています。そして結局、開校から満5年を経た1876年に学校をなくしてしまったのです。
そして廃校と機を同じくして、学生たちは京都の地に生まれたばかりの学校、同志社に入学をしたのです。それから3年後の1879年、同志社で第一回の卒業式がおこなわれますが、このときの卒業生は15名。全員が熊本バンドの人たちでした。
話を戻し、小崎弘道も熊本洋学校に学んだ一人でしたが、彼は聖書の勉強会にも出席をせず、自分がこれまで教えられてきた儒教に忠実であろうとしていたのです。けれども友人たちがあまりに熱心にすすめるので、あるときついに勉強会をのぞいてみることにしました。そしてこのとき、小崎は、ジェーンズの祈る姿に心打たれ、それをきっかけに聖書を学び始めます。もっとも、1876年1月に花岡山に集まったなかに小崎は含まれておらず、儒教的であろうとする自分の信念をかたくなに守っています。
しかしそれからしばらくして、小崎はジェーンズから諭されます。ジェーンズは第一コリント2章11節を語ったそうです。「人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。」分かり易く言ってしまえば、人のことさえわからないのに、どうして神のことがわかるか、神のことは神の霊だけしか知る者はない、ということでしょう。これを聞いたとき、小崎は自分が神のことを知ろうとした気持ちを捨てて、ただ神に祈ったのでした。
三井久という、今から20年以上前に亡くなった大阪・浪花教会の元牧師が「近代日本の青年群像」という本を書いています。「熊本洋学校の学生35名が『奉教の誓』をたててキリスト教の道を進むようになったが、これに遅れたものは、小崎弘道であった。」このように、小崎は、言うならばバスに乗り遅れそうになりながら、ようやく飛び乗った一人だったのです。で、その後小崎はほかの者たちと共に同志社に入学をするのですが、今度はいざ卒業というとき、他の卒業生は任地が決り、それぞれの活動を始めるのですが、小崎一人任地が決らないのです。それは、小崎が訥弁であったとか、いくつか事情があったようです。しばらく宮崎のほうへ新島襄と一緒に伝道にでかけますが、それもうまくいかない、そこで彼は行先がなくてしかたなく東京に出てきたのでした。東京に出てくるにあたっては安中の湯浅治郎の協力がありました。そして東京で小崎は多くの出会いが与えられ、教会を設立し、それは後の霊南坂教会となります。また東京基督教青年会の設立など各方面に大きな活躍を始めるのです。
そして霊南坂教会、当時の東京第一教会の牧師であったときに、何名かの人たちとともに聖書の勉強会を始めたのが番町講義所であり、それが番町教会となったのでした。教会創立よりも前に会堂が建てられ、それは湯浅治郎の尽力でした。それと、小崎が番町教会を設立したとき、彼はまだ霊南坂の牧師でもありましたが、それからすぐに霊南坂を辞任し、番町教会専任となります。
このように、小崎は番町教会の初代牧師となるのですが、それから僅か2年と少しで、同志社の新島襄が若くして亡くなります。そして小崎は番町教会を辞して、同志社の社長として京都に赴任したのでした。これまた小崎にとって考えてもみなかった転身でした。
小崎の自伝に書かれています。「当時私は番町教会牧師の外『基督教新聞』、『六合雑誌』等を担当し、盛に伝道を為し居る際とて、之を辞して京都へ赴任するのは容易のことではなかったが、主の召と信じ一身一家の利害を顧みず直に同志社へ入った。」創立まもない同志社は経営的にも、他のあらゆる面でも難しく、また小崎の受ける手当ても番町教会の牧師より、同志社の社長のほうが安かったのだそうです。そして困難のなか8年間社長を務めましたが、結局辞任に追いやられます。学生の徴兵免除のかわりに、キリスト教を教えれることを止めようという動きまであって、学内は大混乱をしたのです。そして社長辞任後、小崎は再び霊南坂に迎えられます。
わたしはこういった経歴を知るにつれて、その業績の偉大さにもかかわらず、ほとんど翻弄されるようにしている姿に興味を覚えました。それこそ、小崎という小舟が、波にもまれながらあっちの岸、こっちの岸と流されているかのようです。そして、わたしの目に留まったのは、京都を離れ東京に行くときの小崎の気持ちとして次のように書かれていたことです。「予はアブラハムがウルの地を出てカナンの地に向いたる如く、只神の御誘導を信じて。」そしてこの気持ちは、京都を離れて東京に行くときだけでなく、彼の全生涯、番町教会を辞して京都に行くときも、そして卒業後赴任先のないままに東京に出てきたときも、あるいは熊本から逃れるようにして京都へ出て行ったときも、さらには熊本洋学校のときに、同級生たちのほとんどがキリスト教信仰を告白したあと、一人遅れて参加したときも、その生涯すべてにわたる気持ちであったと思うのです。
「予はアブラハムがウルの地を出てカナンの地に向いたる如く、只神の御誘導を信じて。」これは言うまでもなく今日読んでいただいた聖書の箇所に書かれているところです。ヘブライ人への手紙11章8節に、「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」とありました。
アブラハムはもとの名前をアブラムと言いましたが、彼はもともとカルデアのウルという土地の出身です。現在のイラクの出身でした。しかしアブラムは神さまから、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」という命令を受けて出発をするのです。そして到着したのがパレスチナ地方、カナンの土地だったのです。このあたりは、旧約聖書創世記11―12章に書かれています。正確に言うと、アブラムは父であるテラとともにハランまで行きます。ハランはウルとカナンとのV字型になった行程のちょうど角にあたります。そしてハランで父テラが亡くなり、そこで神さまから、わたしが示す地に行きなさい」という命令を受けたのでした。
父テラは205歳で亡くなったそうです。そしてこのときアブラムは75歳でした。今では考えられない年齢で、そのまま信じてよいのかどうかわかりませんけれど、この数字から思うことは、彼らはカルデアのウルの土地に、すでにしっかりした生活を根付かせていたということです。ウルを出るとき、アブラムはすでにサライと結婚をしていました。何も好きこのんで知らない土地に行くことはなさそうです。聖書は、なぜ彼らが移住することになったのか、詳しいことは何も説明していません。根付いていた生活が崩れるような何かがあったのかも知れません。思いがけない出来事があったのかも知れません。まさに翻弄されるように動かざるをえなかったのでしょう。けれども聖書はそのことを何も言わず、ただ神さまがそうしなさいと言われたからとだけ説明をするのです。
そしてアブラム、つまりアブラハムはそれを受け入れ、服従し、行き先も知らずに出発したのでした。彼らは神さまの約束された土地へやってきます。でも、それは「他国に宿るよう」であったと言います。安住することもなかったようです。でも、このような不確かさ、これからどうなっていくのかわからないというなかで、なおアブラハムは従っていきます。ヘブライ人への手紙の著者は、、「アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです」と述べています。不確かな人生にあってなお、彼は神さまが都を用意してくださると信じ、その希望に生きたというのです。
次にアブラハムの妻サラについて、11、12節で書かれています。「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです。」この話もまた皆さんよくご存知だと思います。約束の地に到着したあと、妻サラ、当時の名前はサライは、男の子を産むというお告げを受けます。このときサラはすでに90歳でした。サラはこれを聞いたときに、そんなことはありえないと笑ったのです。ヘブライ人への手紙の読者もまた、彼女が信じずに笑ったことくらい、それこそ誰でもが知っていることでした。にもかかわらず、ここでは「信仰によって」と書かれ、また「約束をなさった方は真実な方であると、信じていたからです」と書かれています。これはどういうことでしょうか。
「信仰によって」と言うと、まったく疑うこともなく信じ込むことだとわたしたちは思いますけれど、ヘブライ人への手紙の著者が語っているのは、どうもそういうことではないようです。サラは笑いました。み使いによって「あなたは、そんなことはありえないと笑ったでしょう」と言われるくらいでした。にもかかわらず、この手紙では「信仰によって」と言われる。とすれば、ここで「信仰によって」と書かれている言葉は、むしろ、「神さまがサライに関わってくださったので」というような意味に取るのが正しいのではないでしょうか。この後、サラは男の子を産みます。そして「彼は笑う」という意味の名前イサクと命名します。このとき、サラは疑いによる笑いではなく、真実喜びの笑いを体験しました。
ですから、信じるということは、未来はこうなる、将来はこうなると、的確に予言をして信じ込むことなのではなく、むしろ、将来のことはわからない、けれども神さまはけっして悪いようになさらないと、神さまに身をゆだねることだと思います。サラの場合も、90の女性が子を産むということを信じたから誉められたのではなく、神さまが言われることに従っていこうとする神さまへの信頼によって誉められたということです。アブラハムの場合も、約束の地での繁栄や安全を信じたのではありません。むしろその点では不安だらけで、これから行った先でなにが起こるかという不安が彼を襲ったことでしょう。でも、将来はこうなるということを信じたのではなく、将来はわからない、けれども神さまを信頼していこうという、その信仰こそが称えられたのです。
番町教会の創立者であり、初代の牧師であった小崎弘道もまた、これからどうなるという確かな信念はないままに動いたように見えます。彼は自分に確信があったわけではなく、将来に対して確信があったわけではありません。不安はいっぱいだったことでしょう。けれども、自分は神さまによってとらえていただいた。ここから先は神さまにゆだねていこうという姿勢があったからこそ、彼もまた行先を知らないままに、神さまの御用にあたっていったのです。最初に申したように、小崎といえば、明治期のキリスト教会に名を残す人物です。写真を見るとその恰幅のよさにたいそうな人物だと思わされます。事実そうだったのでしょう。でも、この人もまた嵐にもまれて翻弄された一人であり、行先がどうなるかわからない一人だったのです。
振り返れば、熊本洋学校時代、同級生が皆信仰を告白しているのに、彼はなかなか信仰に飛び込めませんでした。彼は他のものよりも年長で、何かプライドというか意地のようなものもあったのではないでしょうか。けれども、ジェーンズによって教えられます。人は人のことさえ分からない、ましてやいくら研究をしても神さまのことがわかるわけではない、だから、神のことを知ろうとするのではなく、ただ神に祈ればよいのだと。これと同じように言えば、わたしたちは明日のことがわからない、将来のことなどまったくわからない、とすれば、将来はどうなると思い煩うのではなく、ただ神さまにゆだねて、旅を続ければよいのだと、このように言うことができると思います。そして、思い煩いを神さまにゆだねて歩むとき、わたしたちはわたしたちが持っている力以上のことを、神さまによってさせていただくことができるのです。
小崎は、そのような信仰のもと、東京第一教会を建て、その僅か7年後に番町教会を建てました。番町教会を建てるにあたり、湯浅治郎から500円を借り、この場所、現在の土地を確保しています。エッセイストとして知られている牧師の太田愛人さんは、小崎が大風呂敷をひろげ、湯浅がそれを支えたと言っておられます。小崎自身には将来は必ずこうなるという成算はなかったことでしょう。ただ、神さまが必ず良いようにしてくださる、その信仰だけでした。そして在る意味で無謀と思えるほどのことを次々と実現していったのです。またそれを支える信仰の仲間を彼は与えられていったのでした。
わたしたちは今、このような信仰の系譜、流れのなかに置いていただき、この教会に連なっています。今日の箇所、12節にある「それで、死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」という言葉は、わたしたちの教会のこれからへの約束の言葉でもあります。
|