番町教会説教通信(全文)
2003年10月 「命のパンをいただき」          牧師 横野朝彦

列王記上17・8―16

今日は10月第一聖日、世界聖餐日です。主イエス・キリストが十字架にかけられる前、最後の晩餐の席で、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われましたこと、そして、杯も同じようにされたことから、教会では礼拝において主の食卓を共に囲み、パンと杯をともにいただきます。教会の礼拝堂の正面には二つのものが置かれているのが普通です。それは説教台と食卓の二つです。また、最近新しく会堂を建築される教会では、みんなが正面を向く教室形式ではなく、扇型に座席の並べられているところが増えてきました。半円形のところもあります。前に広島の教会を訪ねたとき、その教会は随分前に建て替えられたものでしたが、礼拝堂は横長で、説教台や聖餐卓をコの字型に囲んでいました。それは、食卓を囲むという考え方からきています。特にプロテスタントの教会は、何か聖なる祭壇があって、それを拝むのではなく、御言葉が語られ、主の食卓が囲まれることこそを大事にしてきたのです。

もっとも、礼拝で食べるパン、飲む杯は、いずれも小さなものですし、極めて儀式的なものとなっています。でも、これをただの儀式にしてしまってならないのは言うまでもありません。パウロは第一コリント11章で、コリントの教会の人々を叱責しています。それはコリントの教会のなかで色々と揉め事があり、好き勝手な行動をしている人がいる、貧しい人が恥をかくようなことがおこっている、そんなことで、どうして主の食卓を囲むことになるのか、それでは主の晩餐を食べることにならないではないか。パウロはかなり語調も厳しく述べています。仮に、食卓を囲むのではなく、皆が思い思いの方向を向いて、勝手に食べているというのでは、一緒の食事とは言えません。仮に一緒に食べていても、心が別々ならば、それもまた主の食卓とはいえないでしょう。

ということは、これはたんに食事の仕方だけの問題ではなく、もっと基本的なところで、人間の生き方の問題というか、人と人とがどのように共に生きているか、自分勝手に生きているのか、互いを尊重して生きているのか、神さまの御心にそった生き方をしているのか、それとも神さまの御心からは離れたところで生きているのかという問題だということがわかります。

わたしたちが生きるのはパンだけによるのではなく、神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きるのだとは、旧約聖書申命記の言葉であり、また主イエスが荒れ野において誘惑を退けられたときの言葉です。預言者エレミヤもまた、「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました」と言っています。このように、わたしたちはパンだけで生きるものではなく、神さまの与えてくださる御言葉によって生きることができます。ですから、礼拝において聖餐式でいただくパンと杯は、肉の糧としての食べ物ではなく、キリストによってあらわされた福音の御言葉をいただくことでもあります。わたしたちは、パンと杯をいただくだけではなく、むしろ十字架の福音というキリストの御言葉をいただくのです。そして、聖餐式は、福音の中心である主イエス・キリストの十字架による愛と赦しを記念し象徴するものですから、これをいただくわたしたちが、互いに愛することなく、互いに赦しあうことないならば、パウロが言うように、主の晩餐を食べることにはならないのだと思います。

今日は、旧約聖書から、有名な預言者エリヤの登場する場面を読んでいただきました。エリヤは、列王記上17―19章、21章、列王記下1、2章に登場します。ですが、エリヤという名前はわたしたちが考える以上に昔の人々の崇敬の的でした。なんといっても、新約聖書にその名前が何回も登場することで、その存在の大きさがわかります。新約聖書になんと29回も名前が出てくるのです。二つだけ引用しますと、最初にマタイ16章13―16節、〔イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。〕このような使われ方をしていることからも、その名前の偉大さがわかります。もう一つ引用するのはルカ4章26節です。「エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。」 これはおわかりいただけたと思いますが、今日読んでいただいた列王記上17章の話です。それともう一つ大事だと思うのは、列王記下1章に、エリヤの服装が描写されているのですが、それによれば、「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」となっています。これは、バプテスマのヨハネの姿を連想させます。言うまでもなく、エリヤがヨハネの真似をしたのではなく、ヨハネがエリヤの預言者としての系譜をひくものとして登場したのです。

エリヤという名前は、当時の人々にとって偉大とか尊敬されているだけでなく、もっと崇拝に近いと思います。もちろん聖書の神さまは唯一であり、エリヤを信仰の対象とすることはありませんが、でも、わたしはどちらかと言えばそれに近い、民間信仰的なものを感じます。日本で言えば、弘法大師、空海に近いものがあると思います。17章17節以下で、一人の男の子が病気にかかり、息を引き取るのですが、エリヤが祈ると子どもは生き返ったのでした。また、18章20節以下でエリヤが偶像の神バアルの預言者たちと直接対決をしている話などは、きわめておとぎ話的、魔術比べのようなところがあります。ですから、これらの話には、口から口へと言い伝えられていくうちに、いくぶん誇張されたところもあるでしょうし、崇拝の対象と変えられていった点もあるのだと思います。でも、わたしたちは、それらの不思議さにまどわされたり、つまずくのではなく、ここに込められたメッセージを読み取っていきたいと思います。

17章1節に「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤ」とあります。ギレアドもティシュベ人も耳に馴染みがありません。辞典をひくと、ヨルダン川東側の住民であったそうですが、この時代には、聖書の神、ヤハウェへの信仰がとても強い地域であったと説明されていました。エリヤは預言して言います。それは、「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」という預言でした。そして3年間が経ちます。この地域にはひどい飢饉が起こっています。神さまはエリヤに、「わたしはこの地の面に雨を降らせる」と言われます。でもその前に、神さまはエリヤに大きな使命を与えられました。それは、その当時の王様、アハブのところへ行けという命令でした。

エリヤは神さまが命じられるままに、アハブに会います。するとアハブは言うのです。18章17節、「お前か、イスラエルを煩わす者よ。」アハブ王にしてみれば、この男がひでりの予告をし、そのとおりになってしまった、この国を悩ますのは、預言者を名乗っているこの男のせいだと、こう考えたのです。しかし、エリヤは王に対して歯に衣着せず、ずばりと言います。18節、「わたしではなく、主の戒めを捨て、バアルに従っているあなたとあなたの父の家こそ、イスラエルを煩わしている。」その昔、旧約聖書の預言者たちは、王に対して直接、堂々と対決しています。政治の誤りがあり、神さまの御心から離れているならば、それを正しい方向にむかせる、神さまの方向を指し示す、それが預言者の役割だったからです。

アハブというのは、あまり良い王様ではありませんでした。21章には「ナボトのぶどう畑」という話がでてきます。宮殿の傍らにナボトという人が良いぶどう畑を持っています。アハブはその畑を見て、自分に譲ってくれと頼むのです。でもナボトはこの土地は先祖から受け継いでいる大事なものだから、渡すことはできないと断るのです。アハブはがっかりします。ところが、それを見たのがアハブの妻イゼベルです。イゼベルは王が意気消沈しているのをみて、なんということだ、あなたは王様なんでしょう、それなら無理やり奪い取ればいいのだと、そそのかすのです。そして、ならず者二人を雇い、彼らに偽証させてナボトを罪に陥れ、ナボトは無実の罪で石打ちの刑に処せられ、撃ち殺されるのです。

アガサ・クリスティの小説で、ある金持ちが、なんでも思うままにふるまっていたのですが、そこでクリスティの小説に登場する名探偵ポアロは言うのです。「王者の特権をふりかざすというわけか、ナボトのぶどう畑のように。」推理小説の一節ですけれど、これなど列王記の話を知らなければ、なんのことかわかりません。それはともかく、アハブ王は妻のイゼベルと共に、弱い者いじめをし、そればかりか、自分の富みを増やすためにならず者まで雇い、偽証させ、ナボトを殺害するのです。旧約聖書の十戒に、「殺してはならない」とあり、また「偽証してはならない」と書かれていることを思えば、アハブがいかに神さまの御言葉から離れ、悪政をおこなっていたかは明らかです。

話を戻し、このような悪の時代だからこそ、神さまはこの土地に3年間も雨を降らせず、飢饉をおこされたのでした。でも、雨が降らず、飢饉が来ると、困るのは王様だけではありません。一番困るのは貧しい民衆であるはずです。そしてまた、預言をしたエリヤ自身も、食べ物が無くなって困るはずです。それに対する一つの解答が、17章に書かれているのです。まず3―7節に、エリヤが烏に養われたという話が書かれています。ヨルダン川の東にあるケリトの川、おそらく小さな支流なのでしょう、そこへ行って川の水を飲みなさいと命じられます。そしてそこで数羽の烏が、パンと肉をエリヤのために運んできたのでした。烏によって養われる、とても不思議でな話です。烏は大きな体で、真っ黒で、しかも東京では異常に繁殖をして、時には人を襲うといいます。あまり好かれる鳥ではありません。そればかりか、当時の人々には、旧約聖書のレビ記11章には、烏は汚れた生き物として分類されています。ところが、エリヤは烏によって養われた。

ここで言われていることは、アハブやイゼベルのおこなっていた政治との対比があると思います。つまり、人の土地が欲しくなるとその人を殺してしまうような悪い王様、自分は偉い、自分はなんでもできる、欲しいものはなんでも手に入る、そんなふうに思っている人間が預言者を抹殺しようとしている。そして逆に、みんなから汚れていると思われている烏のような存在が、神さまの仕事をしているエリヤを助けたと、このような対比がされていると思えてなりません。

さて、このようにエリヤはケリト川のほとりにいたのですが、そのうちにこの川の水も涸れてしまいます。そこで神さまはエリヤに、シドンのサレプタという土地に行きなさいと命じられるのです。「そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」エリヤはそこでサレプタという町にやってきます。すると一人のやもめが薪を拾っていたのでした。やもめという言葉を最近はあまり使わないように思えますが、旧約聖書では社会的に最も弱い立場の一人とされています。そしてサレプタという町ですが、これは異邦人の町であったようです。つまり、この話のポイントは、偉大な預言者エリヤを養ったのは、神さまから最も遠いと思われていた異邦人の、それも社会的に最も弱者であった一人の女性であったということです。

干ばつのはじめは、烏がエリヤを養いました。烏は汚れた動物とされ、神さまから遠いと見なされていました。サレプタの町の女性は、この話の延長線上にあるのです。とはいえ、この女性がエリヤを養うだけの力があったのではありません。まずエリヤが彼女に声をかけます。〔「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。彼女が取りに行こうとすると、エリヤは声をかけ、「パンも一切れ、手に持って来てください」と言った。〕この言葉は、ヨハネによる福音書4章に書かれている、主イエスとサマリアの女性との出会い、「水を飲ませてください」と言われたあの話を思い出させます。彼女は答えます。わたしにはパンなどありません。壷のなかに一握りの小麦粉と、瓶のなかにわずかな油があるだけです。拾った薪二本を使って、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。それを食べたあとはもう何も残っておらず、あとは死ぬのを待つだけです。このように、彼女は極貧の状態にあったのでした。ところがそんな彼女に対し、エリヤは言います。「恐れてはならない。帰って、あなたの言ったとおりにしなさい。だが、まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持って来なさい。その後あなたとあなたの息子のために作りなさい。」エリヤは「神の人」とまで呼ばれた預言者ですが、極貧の何もないなかで、まず神の人に食べさせること、そうすると、壷の中の粉は尽きることなく、瓶の中の油はなくならないと、このように命じられたのでした。普通なら、このような言葉を聞いてもなかなか「はい」とは言えないでしょう。でも、彼女は言われたとおりにしました。そしてエリヤが言ったとおり、壷の粉は尽きることなく、瓶の油はなくなることなく、エリヤも、そして彼女の家族も、幾日も食べ物にことかかなかったのでした。

話としては不思議な奇跡物語です。どうしてこのように起こったのか説明はできません。でも、申しましたように、神さまから最も遠いと思われていた一人の弱い立場の女性が今まさに餓死しようというときに、エリヤによって救われ、エリヤも彼女によって養われたこと、また烏がエリヤを養ったことは、当時の時代と社会が神の人を受け入れず、神さまを受け入れず、またアハブ王がナボトのぶどう畑を奪いナボトを殺害したように、不正と悪が横行し、神さまの御心から遠く離れていたことへの痛烈な批判があるのは間違いありません。神さまの御心はかえってこのような弱い立場の人、汚れているとさえ思われていた存在にあらわれているのだという主張です。

18章19節に興味深い言葉遣いが出てきます。それは「イゼベルの食卓」と言う言葉です。アハブの妻イゼベルは、夫にナボトを殺害するようにそそのかした人物ですが、彼女の食卓には450人のバアルの預言者、400人のアシェラの預言者と、偶像神の預言者たちがとんでもない人数集まっていたのでした。それは神さまの御心から離れたものたちの食卓ということでしょうか。権力者イゼベルの食卓には、飢饉の状況にあっても、おそらく山海の珍味が盛られていたのだと思います。

それに対してエリヤの食卓は、烏がもってきたパンと肉、サレプタの女性の家で作られたパン、それは貧しいものでした。でも、そこには神さまの御旨がおこなわれ、神さまの御言葉によって養われる姿があったのです。

わたしたちは、主イエス・キリストが教えてくださったように、主の食卓を共に囲みます。それがイゼベルの食卓のようなものであってはならないのは言うまでもありません。神の御心から離れ、悪がおこなわれるところでご馳走が食べられるのではなく、神さまの御心に従い、愛と平和の道を歩むなかで、主の十字架のしるしであるパンと杯をいただくのです。

主イエスは、ヨハネによる福音書4章14節で、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました。また6章35節で、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われました。主が与えてくださる食べ物は、壷の中の粉が尽きず、瓶の中の油がなくならないように、わたしたちを真実養う命の水であり、命のパンなのです。神さまの御旨にしたがい、主の食卓を共に囲みたいと願います。

    (2003年10月5日 礼拝説教)