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マルコ2・1―12
1955年、今から50年近くも前になりますが、赤ちゃんの飲む粉ミルクの中に、砒素が入っていたという事件がありました。全国で1万2000人の赤ちゃんが砒素中毒にかかり、そのうち130人が亡くなっています。その粉ミルクは四国の工場で作られていましたから、被害は比較的西日本に多かったのでしょうか。わたしの前にいた教会には、その被害者の青年とそのご両親がおられました。詳しくは申せませんが、青年は、生活の自立が難しいようでした。その後、私のほうが引越しをしたために、最近の消息を知りませんが、彼もすでに48歳になっていることになります。
弁護士の中坊公平さんの本を読んでいると、中坊さんがこの事件にかかわり、被害者の家を一軒一軒訪問されたときのことが書かれていました。被害者の家を訪ね、ときには一晩泊めていただいて話をきいたのですが、中坊さんは、被害者の両親が、自分たちはどんなにひどいめにあったか、その恨みを切々と話すのだろうと思っていた。ところが実際はそうではなかったのです。
あるお母さんは、「乳が出ないような女が母親になったのが間違いでした」と言い、あるお母さんは、赤ちゃんの口に哺乳瓶を含ませようとしたところ、赤ちゃんが手で払った、そのときなぜ気がつかなかったのか」と言います。手で払ったのは偶然のようなものなのに、そのことでお母さんは自分を責めます。また、なぜ別の製品ではなく、この粉ミルクにしたのかと、これを買い求めた自分を責める人もいます。お母さんたちは、誰一人、ミルク会社や国の悪口を言わず、自分が悪かったと言われたのでした。これと同じ話は、水俣病やその他の公害病で何度も耳にしました。本来、被害者であるはずの人が自分で自分を責めておられるのです。
あるかたが、夫を若くして病気で亡くされました。ある日の朝突然に苦しみ、そのまま天に召されました。その驚きや悲しみは言葉に言い表すことの出来ないもので、今もその悲しみをぬぐうことができないでおられます。そしてその方もまた、ご自分を責めておられました。次のように言われます。「時々、夫は、私と結婚していなかったら、死ななくてすんだのではないか・・・と思うことがあります。」この言葉に何か根拠があるわけではありません。考えすぎとか、思い過ごしとかということは簡単にできます。でもそれは、そのかたの正直な気持ちであり、誰も否定できないものです。そしてこのかたの場合も、ご自分を責められるその気持ちは、夫をどれほど愛していたかの表れだと思います。
このような自責の念は、我が子への愛、夫への愛、その人の持つ愛の表れだと思います。中坊さんの本では、自責の念は本来持つ必要がないもののように言われていました。また別のかたが、愛する家族を亡くしたときの自責の念について、「そんな時、結果論で考えるのではなく、その時できる最善のことをしたのだという事を思い出してみるとよいのです」と書かれていました。
でも、わたしはそうは思えません。「そんなに自分を責めないで」という言い方もありますが、わたしはむしろ、自責の念は、いかに愛していたかの証しだと思います。ですから、自分を責めるときには、責めて良いのだと思います。自分に本当は直接責任のないことを、自分のこととして受け止め、自分の責任を覚えることができる。それはむしろ、人間だからこそできることであり、かえって大切なことのように思えます。
ただ、いくら人間だからこそできるといっても、いつまでもそこに留まっているわけにはいきません。いつまでも自分を責めていても、それで何かがよくなるわけではありません。自分を責めつづけていると、人を寄せ付けず、ますます暗くなるばかりです。それではいったいどうすれば良いのでしょうか。わたしは思うのですが、そのような時に、必要なのは、「あなたに責任はない」とか、「自分を責める必要はない」という言葉ではなく、自分を責めるその心を引き受けて、もうそれで良いのですよという、赦しの御声こそ必要なのではないでしょうか。今日わたしが申し上げたいことは、ここにあります。
今日読んでいただいた聖書の箇所に書かれていたことは、まさにそのような赦しの御声でした。主イエスがカファルナウムの町の、誰の家でしょうか、家におられたとき、大勢の人が集まり、戸口の辺りまですきまもないほどになります。そこへ四人の男たちが中風の人を運んで来たのでした。当時の人々は、病を罪の結果と考えていました。ヨハネ9章に書かれている生まれつき目の見えない人について、弟子たちが主イエスに、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と質問をしたように、この病人もまた、罪ある存在と思われていたのです。
4節に書かれている、「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった」ということは、ただ単に、大勢の人が集まり、戸口の辺りまですきまもないというだけでなく、「こんなところに、病人がやってくるなんて」という非難が含まれていたと思います。そして、それと共に思うことは、病を罪の結果と考える因果応報の思想だけでなく、自ら背負った病という苦しみについて、自分を責めるということもあったはずです。それは例えば、自分が不摂生をしたからだという、具体的なこともあるでしょうけれど、もっと広く、自分を責め、自分にその責任を負わせていったということが考えられます。それは因果応報というのとはちょっと違った、別の意味での罪の意識です。
そしてそんな病人を、4人の人たちが戸板か何かに乗せて運んできます。主イエスのうわさを聞き、主に癒していただこうと考えたのでした。人がいっぱいあふれているところに、戸板に病人を乗せて運んできた人たち。当然、人々の非難は、病人に対してだけでなく、この4人に対しても向けられたはずです。こんなところに病人を運んでくるなんて、なんて非常識な、と思われたことでしょう。
わたしは4年前に、今日と同じ話をマタイ9章を読んで、「執り成しの祈り」と題する説教をいたしました。彼らの病人を思うその心や祈りを、神様が聞き入れてくださったこと、わたしたちも他の人のために祈りをささげることの大切さをお話しいたしました。わたしがこの話を読むたびに思うことは、この4人と、病人との絆の強さです。この人をお医者さんに連れて行ってあげようという程度ではない、もっと深い連帯、もっと強い絆を感じます。
それは、人がいっぱいで、家に近寄れないと知ったときに、彼らがとった過激な行動からもわかります。「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」ということは、当時の家屋の形や構造を考慮に入れても、どう考えても無茶なやりかたです。わたしはこのような行動をとった彼らが、どんなに気持ちの上で結ばれていたかを思います。つまりは、病人の病気ということだけに同情していたのではなく、もっと心の深いところで、心を一つにしていたのだと思うのです。
主イエスは屋根から吊り降ろされてきた病人をご覧になります。このとき4人はどこにいたのでしょうか。まだ屋根の上にいたのでしょうか。5節によれば、主イエスは、その人たちの信仰を見て、つまり、一緒に戸板を運んできたこの4人の信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたのでした。病人の苦しみを自ら引き受けて、いや引き受けることができるものなら引き受けたいというほどの気持ちで、運んできた彼ら。その彼らの心を、主イエスはご覧になり、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。それはまさに、彼らへの赦しの御声でした。
この言葉に対して、律法学者たちは、これは神への冒涜だと考えます。旧約聖書の掟によれば、罪を犯したものは神殿で犠牲をささげ、定められた儀式をおこなわなければなりませんでした。それをせずに、罪の赦しを宣言するということは、神様や神殿を中心とした宗教をないがしろにするものだと彼らは考えたのでした。けれども、主イエスはこのような彼らの非難に対し、「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」、このように言われて、そして最終的に、中風の人に、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と、癒しのわざをなさったのでした。
「『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」ここでは要するに、「あなたの罪は赦される」と言うことのほうが難しいということが言われているわけですけれど、なぜ、「あなたの罪は赦される」と言うことのほうが難しいのか、それは他ならず、このように言うということは、その罪や、あるいは自責の念など、その心の重荷を、それを言うものが引き受けていかなければならないからだと思います。そして主イエスは、まさしくそのような重荷を引き受けられたのでした。
聖書は、わたしたち人間が神様の前に罪ある存在であると語ります。そして罪の赦しを語ります。ヨハネによる福音書8章で記されているように、罪の女とされていた人が、公衆の前に引き出されたとき、主イエスは、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。そして主イエスご自身がこの女性に対して、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われ、赦しを宣言されたのでした。聖書はまた、主イエス・キリストが十字架にかけられたことを証言しています。それは、わたしたちの罪を担い、わたしたちに赦しを与えてくださるための死であったと、聖書は証言し、また信仰の告白をしています。罪と、罪の赦しは、わたしたちの信仰にとって、とても重要なことです。
けれども、罪というのは分かり難いものでもあります。真面目に熱心に生きてきた人ほど、自分は罪を犯したことなどないと、反発をされるかたもおられます。キリスト教は、人間が罪ある存在だと言うばかりではなく、原罪ということを教えてきました。原罪は、ただ罪というよりも、さらに分かりにくいものがあります。原罪は、アダムとエバが罪を犯したから、私たちも罪を背負っているのだと、単純に言えばそのように説明されてきました。
原罪とは、アダムの犯した罪が遺伝のように私たちにつながっていると説明されることがあります。でも私は、それはあくまで分かりやすく説明しただけのことであって、実際に遺伝をしているというようには思いません。そんな大昔のアダムとエバの罪がどうして自分に関わっているのだと疑問に思うのがむしろ当たり前ではないでしょうか。でも、人は自分で思っている以上に互いに深く関わり合い、そして傷つけあっているのです。罪は、誰か他人事ではなく、一人一人の問題であり、それが互いに関わりあっているということです。原罪というのは、罪を人間の関わりのなかで考え、それを他人事ではなく、自分の存在のあり方に深く関わっていることとして受け止めることだと思います。
三浦綾子さんの小説「氷点」は、人間の原罪について描いたものとして話題を呼びましたが、あの小説の中に私が印象深く覚えた言葉があります。それは、「人間の存在そのものが、お互いに思いがけないほど深く、かかわり合い、傷つけ合っていることに、今さらにように啓造はおそれをかんじた」という言葉でした。主人公の養い親である辻口啓造は、自分のことを、罪を犯すような人間だとは思わずに生きてきました。実際彼は彼の住む地域でも信頼される人物であり、社会的にも経済的にも胸をはって生きることの出来る存在でした。でも、そんな彼もあるときふと自分の中にある罪に気づくのです。「人間の存在そのものが、お互いに思いがけないほど深く、かかわり合い、傷つけ合っている。」このように、三浦綾子さんは私たちがだれも皆罪の中にある様子を描きました。
三浦綾子さんのこのような理解は、彼女自身の体験に基づいています。彼女の生涯での大きな転機は、学校の教師として生徒たちに教科書の墨塗りをさせたことでした。自分は教師として間違ったことを教えてきたのではないか、そのことに責任を感じた彼女は教師を辞めたのです。あのときは仕方なかったと考えるのではなく、自分の問題と受け止めたのでした。
人間は深いところで罪をおっているように思えてなりません。詩編51を読むと、この詩を歌ったダビデは「我が罪は常に我が前にあり」と告白をしています。これは具体的にはウリヤという兵士を戦場で死なせ、その妻バドシェバを奪ったことを悔いて、罪の告白をしているものです。でもダビデはそのような具体的な問題だけではなく、もっと深いところで罪を見ています。それはつまり、このときに犯した罪だけを問題にしたのではなく、もっと人間の本質的なこととして、もっと深く自分という存在のあり方から考えている、それがこの歌の大切なところです。
さて、そこでそもそも、罪とは何かということについて触れておきたいと思います。大きな問題ですが、簡単に申します。それは、キリスト教の語る罪が、法律上の罪とは必ずしも一致しないということです。もちろん、盗みをしたり、人を殺めたりというのは大きな罪です。でも、聖書が語る罪は、そのような個々の行動そのものよりも、そのことの持っている意味を問題とします。どういうことかと言えば、例えば人を殺めるということは、ある人が他者の命を支配するということです。さらに言えば、神様が創ってくださったこの命の支配者になろうとすることです。盗みも同様です。自己を絶対化し、他者の領分をおかしていくことであり、さらに言えば、すべては神様から賜ったものであるのに、それを独占しようとする行為と言えるでしょう。
アダムとエバが、神様から食べてはいけないと言われた木の実を食べたということの意味は、創世記3章に書かれているように、これを食べると神のようになれると考えた点にあります。自分を神のようにし、絶対化し、他者を支配し、また神様をおろそかにする、ここに罪の本質があるのです。
聖書で用いられている罪という単語は、旧約聖書のヘブライ語でも、新約聖書のギリシャ語でも、どちらも、もともとは、「的をはずす」という意味です。つまり、神様という的をはずした生き方なのです。詩編78に、人々の罪が問われ、「彼らはいと高き神を試み、これにそむいて、そのもろもろのあかしを守らず・・真実を失い、狂った弓のようにねじれた」と歌われています。弓が狂い、放たれた矢は神様という正しい的から離れていく。それが罪の本質だと聖書は語ります。
つまり、聖書が語る罪というのは、個々のおこないのことではなく、そのおこないのもっと基礎となるところで、人間が、他との関係を壊してしまっている。人との関係、神様との関係を壊してしまっている。そのことを問題としているのです。
人が他との関係なくして生きられず、深く関わりあって生きているにもかかわらず、その関係が壊れている。その壊れた状態を回復するにはどうすればよいのか。実のところ、わたしたち人間の側に、それを回復する力はないと思えます。わたしたちは、自分の力で自分を治すことはできず、自分の力で自分を赦すことはできないのです。
わたしたち人間にできることは、そのような自分という存在の弱さや罪を、恐れを持って受け止めていくことでしかありません。また、人間の犯してきた罪を、他人事とするのではなく、また、他を裁くのではなく、自分の問題として、自分自身のうちにある罪の問題として受け止めることです。そしてそんなわたしたちが、共に生きるために、共に重荷を担い合っていくことです。今日の話でいえば、病や、重荷や、あるいは罪意識や、いろんな弱さ、そういったものを、共に戸板を持って担おうとすること、そのとき主イエスはわたしたちに、「あなたの罪は赦された」と、赦しの御声を聞かせてくださるに違いありません。
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