説教通信(要旨) 2017年〜2018年3月


「これはわたしの愛する子」 2017年1月
牧師 横野朝彦

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マタイ3・13‐17

信仰を持つということは、自分を絶対とする気持ちを捨てることです。それがなければ、いくら信仰深いように見えても、その信仰は無に等しいとさえ思えます。信仰は神さまのみを絶対と認めることであって、自己絶対化であってはならないのです。信仰を持つということは、神さまの前に皆が等しく価値を持っている、誰も価値のないものはいないと気づかされることです。


「イエスの譬」 2017年2月
牧師 横野朝彦

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マタイ13・10‐17

譬話が何に例えられているのかは、聞く側に任せられています。それが譬話の特徴です。自分には力がある、自分は正しい、自分はわかっている、そのように思っているひとにとっては、主イエスの譬は、つまずきにしかならないでしょう。しかし、主イエスの言葉を聞きに集まった人たち、弱さを自覚する者、世の無に等しい者にとって、主イエスの言葉は、救いの力、神の力でありました。


「どんなものでも赦されるが」 2017年3月
牧師 横野朝彦

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マタイ12・22‐32

主イエスは、罪人とさげすまれる人と共に生きられ、彼らに「あなたの罪は赦された」と告げてくださいました。そこには主イエスを裏切り、主イエスを十字架につけてしまった人たちも含まれています。しかし聖書には続けて「“霊”に対する冒涜は赦されない」と書かれています。わたしはこれを、救いの働きを拒否する生き方だと理解しています。いかなる罪も赦される。けれどもその赦しの働きを否定したら、どこにも逃れる道はありません。

「御心にかなう者」 2017年4月
牧師 横野朝彦

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マタイ17・1‐13

主イエスの山上の変貌は、宮沢賢治の代表作である「銀河鉄道の夜」を思い起こさせます。この物語は、カムパネルラが友だちを助けるために犠牲の死をとげるに至るまでの物語です。友だちを助けようと決心したとき、列車のなかが白く輝きます。ダイヤモンドのような河床の流れの上に、青白く後光のさした島があり、そこには白い十字架が立っており、金色の円の光をいだいていたのでした。

「喜び、忍耐、祈り」 2017年5月
牧師 横野朝彦

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ローマ12・12

番町教会は来年2月の移転に向けて考えなければならないことが多くあります。しかし大切なことは、計画や方策以前に、わたしたちがキリストにある新しい命を喜んでいくことだと思います。わたしたちの信仰は、わたしたちに新たな命が与えられるという信仰です。途方にくれても行き詰まらず、万事が益とされる信仰です。平和に生きる信仰です。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る者としていただきましょう。

「翻って生きよ」 2017年6月
牧師 横野朝彦

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エゼキエル18・25−32

ヨハネによる福音書3章16節で、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とあるように、神はわたしたちが滅びることを望んではおられず、滅びではなく、永遠の命を与えるために、御子をお遣わしになりました。わたしたちが滅びることではなく、神に立ちかえること、わたしたちが翻って生きることを、神は求めておられるのです。

「道と行いを正し」 2017年7月
牧師 横野朝彦

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エレミヤ7・1−7

ボンヘッファーは獄中書簡のなかで、「『主よ、主よ』と言う者が、皆天国に入るのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、入るのである」とマタイ7章の言葉を引用しています。そして手紙の終わりのほうで、厳しい自己批判の言葉を書いています。「それは、われわれ自身の罪責だ。これまでの長い年月の間、あたかもそれが自己目的であるかのように、ただ自己保存のためにだけ戦って来たわれわれの教会は、人々のため・世界のための和解と救いの担い手である力をなくしてしまった。」

「和解のつとめ」 2017年8月
牧師 横野朝彦

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第二コリント5・14‐6・2

2017年度のキリスト教一致祈祷週間のテーマは、「和解―キリストの愛がわたしたちを駆り立てています」です。このために用意された冊子には、礼拝の持ち方の例が詳しく出ています。礼拝には12個の石が用意されました。石には文字が書かれています。12個の石に書かれた文字は、「愛の欠如、憎しみと軽蔑、不当な告発、差別、迫害、失われた交わり、不寛容、宗教戦争、分裂、権力の乱用、孤立、高慢さ」でした。

希望によって救われている 2017年9月
牧師 横野朝彦

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ローマ8・18‐25
苦しみのなかにあって、希望を持つことができるかどうか、それが私たちの生き方の分かれ道になります。苦しみの中で希望を捨てたとき、それは終わりを意味します。しかし苦しみの中でもなお希望を持つならば、それは新しい命の始まりになるのです。教会は問題点や困難さを数えるところではなく、恵みを数えるところです。そして感謝の思いを持ち、希望をいだき、喜びをもって歩むべきところです。それは困難や問題の有無の問題ではなく、希望に生きているかどうかです。


何事にも時があり 2017年10月
牧師 横野朝彦

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コヘレト3・1−13

コヘレトの言葉は、すべてのことに時があると、わたしたちに教えてくれています。生まれるに時があり、植えるに時があります。建てる時があり、笑う時があり、愛する時があり、平和の時があると教えてくれています。主イエスは、十字架を前にし、「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われました。そしてパウロは言います。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」


創立131年によせて 2017年11月
牧師 横野朝彦

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 ローマ12・1‐8


「会衆主義について」というパンフレットがあります。この中に次のように書かれていました。「会衆主義の・・基礎に信徒一人ひとりの自覚的信仰があることは忘れてはならないことです。・・すなわち、信徒一人ひとりが『何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか』を求める務めに召されていることになります。こうして神の前に互いが『心を新たにして自分を変えていただ』く業が、まさに礼拝なのです。このような礼拝をわたしたちは受け継いできました。自分をささげ、神に喜ばれ、隣人に喜ばれる生き方を求めてきた人たちの群れです。

別の道を通って 2017年12月
牧師 横野朝彦

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マタイ2・1‐12

救い主誕生の知らせを受けた東の国の人たちは、最初にエルサレムにある王の宮殿に向かいます。けれども、そこに救い主はおられませんでした。ベツレヘムで幼子を拝した彼らは、その後別の道を通って帰っていきます。己を絶対化するヘロデの道とは正反対の道、それは主イエス・キリストが自分を捨ててまで他を愛された十字架への道であろうと思います。ヘブライ人への手紙10章にこう書かれています。「イエスは・・新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。」

居場所 2018年1月
牧師 横野朝彦

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ルカ2・41−52

わたしは自分自身の若い頃のことを思い起こします。学校での生活や友人関係に特に問題があったわけではありません。でも、いろいろな悩みや、コンプレックスや、行先の見えない不安など、若者が誰でも持つような悩みといえばそれまででありますが、自分に自信が持てない時期が長くありました。でも、そのような自分を助けてくれたのは、教会という居場所があり、教会の仲間があり、また礼拝と午後、あるいは土曜日などに教会で過ごす時間でした。

人は皆、草のようで 2018年2月
牧師 横野朝彦

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第一ペトロ1・22−25

長島曙教会という教会があります。ハンセン病元患者さんたちが住む長島愛生園のなかにある教会です。長島曙教会を訪ねたとき、曙教会の大嶋得雄牧師が言われた言葉を覚えています。「この教会の壁には祈りが染みこんでいる。」番町教会は新会堂の建築を終えました。今日は最初の礼拝です。でも、建物に人々の祈りが壁に染み込む、あるいは祈りが染みつく、あるいはまた社会的に開かれた奉仕のわざが、この会堂の壁に染みついていく。このようにして教会は建てられていきます。

主の慈しみは決して絶えない 2018年3月
牧師 横野朝彦

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哀歌3・1‐33

会堂建築にあたって、実に山あり谷あり、いや谷底を何度も歩いてきました。それでも、今このように献堂の時を迎えることが出来たことは、ただただ主なる神の導きによるほかありません。哀歌は「なにゆえ」という言葉で書き始められ、哀しみの言葉が書きつらねられています。しかし、「わたしの生きる力は絶えた」と今の現実を歌いつつ、「ただ主を待ち望もう」と、主なる神にのみ希望があることを歌い、次のように信仰の告白をするのです。「主の慈しみは決して絶えない」、「主の憐みは決して絶えない」と。