説教通信(要旨) 2017年


「これはわたしの愛する子」 2017年1月
牧師 横野朝彦

全文はこちら

マタイ3・13‐17

信仰を持つということは、自分を絶対とする気持ちを捨てることです。それがなければ、いくら信仰深いように見えても、その信仰は無に等しいとさえ思えます。信仰は神さまのみを絶対と認めることであって、自己絶対化であってはならないのです。信仰を持つということは、神さまの前に皆が等しく価値を持っている、誰も価値のないものはいないと気づかされることです。


「イエスの譬」 2017年2月
牧師 横野朝彦

全文はこちら

マタイ13・10‐17

譬話が何に例えられているのかは、聞く側に任せられています。それが譬話の特徴です。自分には力がある、自分は正しい、自分はわかっている、そのように思っているひとにとっては、主イエスの譬は、つまずきにしかならないでしょう。しかし、主イエスの言葉を聞きに集まった人たち、弱さを自覚する者、世の無に等しい者にとって、主イエスの言葉は、救いの力、神の力でありました。


「どんなものでも赦されるが」 2017年3月
牧師 横野朝彦

全文はこちら

マタイ12・22‐32

主イエスは、罪人とさげすまれる人と共に生きられ、彼らに「あなたの罪は赦された」と告げてくださいました。そこには主イエスを裏切り、主イエスを十字架につけてしまった人たちも含まれています。しかし聖書には続けて「“霊”に対する冒涜は赦されない」と書かれています。わたしはこれを、救いの働きを拒否する生き方だと理解しています。いかなる罪も赦される。けれどもその赦しの働きを否定したら、どこにも逃れる道はありません。