説教通信(要旨) 2016年


「イエスの墓で見たもの」 2016年4月
牧師 横野朝彦

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ヨハネ20・1−18

カトリックの教会では、十字架には磔にされたイエスの像がついています。プロテスタントの教会では、イエス像のついた十字架はまず見かけません。イエスはもはや十字架上にはおられないという復活のキリストを見ているのだという説明を聞いたことがあります。でもそれはいったいどれほど意識されていることでしょうか。最近、復活のイエス像をつけた十字架がカトリック教会に生まれています。十字架を見ながらそこに復活を見る。空の墓を見ながらそこに復活を見るのです。


「助け主が来られる」 2016年5月
牧師 横野朝彦

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ヨハネ14・15−27

聖霊降臨は、弟子たちに弁護者にして助け主である聖霊が与えられた出来事でした。それは、まさに神の力、神の命をいただくことでした。それは外面的な力ではなく、もっと人間の内側から湧き出る、内側から生かされる、深いところから与えられる力、いや命です。彼らは、自分たちの弱さをいやと言うほど知り、にもかかわらず、そこに働かれる神の息吹に触れたのです。


「良い知らせを伝える」 2016年6月
牧師 横野朝彦

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ローマ10・5−17

キリスト教の礼拝は、語られている内容が大事なのはもちろんですが、それ以上に、聞くという姿勢そのものが大切です。日ごろの自己主張を置いて、神さまのまえにいわば主導権を明け渡すということだからです。悔いる心を持って、しもべは聞きます。主よお話しくださいという、その姿勢こそが礼拝そのものなのです。

「嵐の中で」 2016年7月
牧師 横野朝彦

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使徒言行録27・33−44

今日読んでいただいた聖書の箇所は、囚人パウロを乗せた船が難破をしたと報告されている箇所です。この記事を読んでいて注目すべきことがあります。それは嵐にあった彼らが、とても食事すら取ることができないほどだったのに、漂流しながら、パウロの勧めによって食事を共にしたことです。嵐のなかにあって、共に主の食卓を囲む、そして主への信頼を失わなかったのです。

「公正と信義に信頼して」 2016年8月
牧師 横野朝彦

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詩編85・9−14 知恵の書9・1−3

詩編とともに、知恵の書を読みました。旧約聖書続編にあたり、通常プロテスタント教会では読まれない箇所です。「あなたが造られたものを人が治め、信仰深く、義に基づいて世界を支配し、公正な心で裁きを行うためです。」この聖句は次の言葉と重なります。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」これは日本国憲法前文です。


「名を呼ぶ」 2016年9月
牧師 横野朝彦

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ヨハネ10・1−6

銀行や郵便局、役所などで手続きをしていると、名前ではなく番号で呼ばれることがあります。受付番号ということですが、昨今は個人情報保護ということで、名前を呼ぶことを控える動きがあります。病院でも名前を呼ばなくなったとか、病室に名前を書かないところもあります。ある程度は仕方ないと思うのですが、どこでも番号だけというのは、なにか寂しい思いがします。


「無に等しい者を」 2016年10月
牧師 横野朝彦

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第一コリント1・26‐31

選民思想というのは、ある人々に自分のアイデンティティというか、自己認識を確かにさせ、また生きる力や目標を与え、さらにある集団に一体感を与えるものですから、それ自体が悪いとは思いません。 しかし、それはしばしば優越意識につながり、他者を一段低く見てしまうことにつながるのです。


「白く塗りたる墓」 2016年11月
牧師 横野朝彦

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マタイ23・25‐36

「白く塗りたる墓」と指摘されて、いや自分はそんな人間ではないと言い切れる人はいません。誰もがそのような面を持っています。それではわたしたちはどうすれば良いのでしょうか。外側をきれいに見せかけることよりも、内側を磨くことなのでしょうか。内側を磨くにはどうしたらよいのでしょうか。


「その名をインマヌエルと呼ぶ」 2016年12月
牧師 横野朝彦

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イザヤ7・10‐14

イザヤ書7章冒頭に「インマヌエル預言」という見出しがついています。インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」という意味です。イエス・キリストというかたはいったいどのような方なのか、そのことを聖書は「神は我々と共におられる」かただと言っています。しかもインマヌエルなるかたは、ただ一緒にいるというだけではなく、わたしたちの重荷を担い、わたしたちを背負ってくださっているのです。