説教通信(要旨) 2015年


「光のほうへ」 2015年1月
牧師 横野朝彦

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ルカ2・22―32

シメオンは幼子イエスに出会ったとき、「今や自分は安らかに去ることが出来る」と歌いました。シメオンが言ったことは、直接的にはこの世を去るということです。でも、古来この歌は、礼拝終わりの派遣の言葉として親しまれてきました。まことの光を受けた者が、そこに留まり続けるのではなく、日々の生活の持ち場で、一人ひとりが光の子として、世の光として、それぞれに信仰の生活をしていくことです。

「痛みがわかる人に」 2015年2月
牧師 横野朝彦

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ルカ6・27―36

主イエスが教えられた「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい」という言葉を、本田哲郎神父はその個人訳のなかで、「あなたたちの父が人の痛みを分かる方であるように、あなたたちも人の痛みが分かる人になりなさい」と訳しておられます。日本語で憐れみというと、上から下に憐れみをかけるといったニュアンスが強くなります。でも、聖書が言い表しているところは、痛みを共にする感覚です。

「お前の魂は」 2015年3月
牧師 横野朝彦

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ルカ12・13―21

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。」 厳しい警告の言葉です。そしてこの「命」という言葉は「魂」とも訳されます。口語訳聖書では、「あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう」と訳されています。そしてこの教えの前後には、神さまが空の鳥、野の花を養ってくださることが書かれています。すなわち、養ってくださる神さまのことを忘れ、目に見える物に頼ろうとするとき、わたしたちは魂を失っているということです。

「生きておられる」 2015年4月
牧師 横野朝彦

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ルカ24・1−12

ヴァイツゼッカー大統領は「荒れ野の40年」と題する有名な演説のなかで、「想い起こすとは・・・その出来事が自分の存在の内部の一部になってしまうほどにすることであります」、そしてまた、「思い起こすことなくして和解は起こりえない」と述べています。

キリスト教の礼拝はイエスの出来事を想起することにあります。イエスの出来事を神のみわざとして想い起し、それを今の自分の出来事として受け止めること。今のこの自分に神のみわざが与えられていると受け止めるために、わたしたちは礼拝に集っています。

「命を与える霊」 2015年5月
牧師 横野朝彦

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エゼキエル37・1―10

旧約聖書エゼキエル書は神の霊が吹き来たるところ、死せるものも生き返るとの幻をわたしたちに与えてくれています。そしてわたしたちに「立ち返って生きよ」、「翻って生きよ」と呼びかけています。エゼキエルは後半で、新しい神殿の幻を描いています。それはバビロン捕囚の時に破壊された神殿に代わる、新しい神殿建設の幻でした。聖霊を受け、翻って生きていくならば、「主がそこにおられる」と呼ばれるようになると約束が与えられています。

「喜びにあふれて」 2015年6月
牧師 横野朝彦

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使徒言行録8・26−40

エチオピア人の宦官はエルサレム巡礼に行きました。しかし彼は、神殿に入ることが許されませんでした。ひとつは異邦人であること、もうひとつは去勢した人だったからです。律法に「すべて去勢した男子は主の会衆に加わってはならない」とあるからです。宗教というシステムのなかで、人が排除されていたのです。宦官は礼拝に来たものの癒されることなく、すでに帰り道です。またこの人がいたところは、「寂しい道である」と説明されています。まるでこの人の心をあらわしているかのようです。

「賜物はすべての人に」 2015年7月
牧師 横野朝彦

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使徒言行録11・4−18

番町教会は、Open for Allを教会の姿勢にしたいと考えています。ドイツ・ライプツィヒのニコライ教会の精神はOffen f?r Alle、すなわち英語でOpen for Allです。ライプツィヒは旧東ドイツにあります。東西ドイツの壁が崩壊したのは、この教会の集い、「平和の祈り」が大きな役割を果たしました。それを思うと、Open for Allは、ただどなたでもどうぞということよりも、思想、信条、国境、さらに民族などなど、人と人とを隔てるもの、人と人とを隔てる事柄、そういったものを打ち破る力だとわかります。

「戦うことを学ばない」 2015年8月
牧師 横野朝彦

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イザヤ2・1―5

今、日本国は戦争や安全保障についての論議がされています。毎日の新聞の見出しを読むだけでも、戦争という言葉や文字を目にしない日がありません。近隣の国の名前が具体的にあげられて、その脅威とどう向き合うかが語られています。ナチスによって処刑された牧師ボンヘッファーは、ヒトラーが総統となった年に次のように講演しています。「平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、[相手に対する]不信感をもっているということである。そしてこの不信感が、ふたたび戦争を引き起こすのである。」

「優先すべきこと」 2015年9月
牧師 横野朝彦

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ルカ16・1―13

イエスは譬話を語り、不正を働いた管理人のやり方をほめ、そればかりか、「不正にまみれた富で友だちを作りなさい」とまで言っています。これをそのまま表面的に受け止めて、悪いことをしてでも友を作れと読んでしまうといけません。しかしここでは、わたしたちにとって教えられるべきこと、人生の優先順位が示されているのではないでしょうか。

「同舟」 2015年10月
牧師 横野朝彦

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創世記7・1―16

ノアの洪水のことを、罪の大水とも言います。人が被造物であることを忘れ、創造者なる神を忘れ、自己を絶対化したとき、神さまはこの世界を新しくしようとなさったのでした。そしてノアとその家族、そしてあらゆる動物たち、清いとされる動物も、清くないとされる動物も舟に乗せられていきました。呉越同舟という言葉がありますが、呉と越どころではないさまざまな対立や違いを乗り越えながら、同舟をしなさいと、神さまは命じられたのです。

「わたしはあなたを祝福し」 2015年11月
牧師 横野朝彦

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創世記 12・1―9

わたしたち番町教会は、今会堂建築に向けて準備をしています。たくさんのことをしなければならず、困難も大きいことです。けれども、わたしたちが頑張れば会堂が建つのでしょうか。129年前、神さまの豊かな祝福を受けて出発した教会は、人間的な目で見れば、浮き沈みもあり、また過ちもありました。しかし、ここに変わることなく存在しているものがある。それは「わたしはあなたを祝福し」という神さまの御声です。

「救い主がお生まれになった」 2015年12月
牧師 横野朝彦

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マタイ2・1−15

聖書学者の太田道子さんが「ことばは光」第二巻で、ベツレヘムでのある出来事を書いておられます。ベツレヘムはパレスチナ人の居住する西岸地区にあります。あるときイスラエルの軍隊によって禁足令が出され、人々は外出ができません。修道院では神父が来られないので、ミサをあげることもできません。イブの24日、ひとりのシスターがゴミを出すために、こわごわ扉をあけました。するとそこにボロ布に包まれ、捨てられた赤ちゃんがいたのです。彼女は叫びます。「来て御覧なさい。わたしたちの家に、イエスさまが生まれてくださいましたよ!」