説教通信(要旨) 2009年


「あなたを照らす光 牧師 横野朝彦

イザヤ60・1―6

仕事がないこと、住むところがないことは大変なことであり、この世を闇が覆っていると思わずにおれません。そしてそれとともに、一人ひとりの存在が尊ばれない社会こそ闇そのものです。価値が互いに認められない社会、人が人として受け容れられない社会、尊ばれない社会ほど暗い闇はありません。

(2009年1月4日 礼拝説教)


「弱い人のように 牧師 横野朝彦

第1コリント9・16−23

強い力のもと人々が集まったとしても、それは表面的に従っているだけかも知れません。主義や主張で集まっても、それは何かあればすぐに壊れる関係です。しかし、弱さが絆の中心にある、そんな人間の関係があります。考えてみれば、パウロが、「弱い人には弱い人のように」と言い、「すべての人に対してすべてのものになりました」とは言っているものの、「強い人には強い人のようになる」と言っていないことは、思いのほか重要なことではないでしょうか。


(2009年2月8日 礼拝説教)

「神の愛 牧師 横野朝彦

ヨハネ3・14―16

むねあかどりという名前の小鳥がいました。小鳥は自分の体が灰色なのが不満でなりません。ある日、小鳥は十字架上に処刑される人を目撃します。茨の冠が額にくいこみ、血が流れています。小鳥は額にささった茨を抜いてあげました。そしてその人の血が小鳥の胸を赤く染めたのです。小鳥の羽が灰色であったのは、わたしたちの心の色ではないでしょうか。そして主イエスの額ににじむ血の赤にふれたとき、灰色の心が変えられていったのです。


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(2009年3月22日 礼拝説教)

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「目を上げてみると 牧師 横野朝彦

マルコ16・1−7

番町教会のイースター礼拝では、聖歌隊が水野源三さん作詞、川口耕平さん作曲の「こんな美しい朝に」を歌ってくださいました。水野さんは目と耳以外の機能はすべて失われ、身体を動かすことはもちろん、話をすることもできなくなりました。そのため、まばたきによって意思を伝達しました。「まばたきの詩人」と呼ばれます。水野さんは、日々喜びをもって生きられました。なによりも美しいことは、主が私たちと共にいてくださるということ、復活の主がわたしたちと共におられるということを信じ得た喜び、信じ得た美しさではないでしょうか。
(2009年4月12日 イースター礼拝説教)

「命を受けるため 牧師 横野朝彦

ヨハネ10・7―18

「狼の論理」という言葉をききました。経済、お金がすべてに優先する価値観が蔓延しています。他者を餌食とする狼が横行しています。人間は、狼になることができる。あるいは狼以上に凶暴で残酷になることができる存在です。しかしそのような人間の生態であるにもかかわらず、他者を救うためにいのちを捨てる行動を意思的に決意することができるのも人間なのです。主イエス・キリストはまさにそのような人間の可能性を、ご自身の生と死をとおしてわたしたちに示してくださったのです。

(2009年5月3日 礼拝説教)


「霊の導きに従って 牧師 横野朝彦

ガラテヤ5・16−26

聖霊降臨によって、弟子たちは「神の偉大なわざ」を語りました。その内容は、イエス・キリストの御言葉であり、十字架と復活の出来事でありましたが、それが最初から理路整然とした神学であったはずがありません。むしろ人々を惹きつけたのは、奴隷や貧しい者や病人が、ほかの人たちと同じに扱われることの不思議さであり、それはまさに「愛の言葉」であったということです。力と行動を伴った「愛の言葉」に、人々は、特に弱さと苦しみのなかにある人々は、惹きつけられ、神さまに?んでいただいた体験をしたのです。



(2009年5月31日 聖霊降臨日礼拝説教)

「力は弱さの中で 牧師 横野朝彦

第二コリント12・7b−10

大阪の西成に金井愛明という牧師がおられました。2007年11月に76歳で亡くなられました。追悼する文集にカトリックの本田哲郎神父の追悼の言葉がありました。「すごく印象に残っている金井先生の言葉は、炊き出しの列に並んでいる労働者の一番最後の人が、お鍋にしゃもじを入れる時、音がからから鳴る、ああ、もう残り少ないというので、心配そうに後ろからそっちを見ているその人に、金井先生はキリストを見ているとおっしゃったんですね。」   

 

(2009年7月5日礼拝説教)

「平和に過ごしなさい」 牧師 横野朝彦

マタイ9・49−50

「人は皆、火で塩味を付けられる。」マルコは極めて具体的に、襲い来る迫害や艱難のなかで、あなたがたの信仰が精製されると述べています。わたしたちは、あの戦争の体験をとおして、平和の大切さをいやというほど知りました。しかし戦後64年という歳月がたって、今ではその塩気がなくなってきています。いったい、何によって塩に味をつけるのか、塩味を取り戻すことができるのかというのが、今の時代、今の社会の状況ではないでしょうか。

 (2009年8月2日礼拝説教)


「上から出た知恵 牧師 横野朝彦

ヤコブ3・13−4・3

知恵という言葉を、昔ほどには使わなくなったのではないでしょうか。いつごろからか、わたしたちの社会では、知恵よりも知識のほうが大事にされてきました。知恵というのは、検定試験をしたり、偏差値をつけるものではありません。「おばあさんの知恵」という言葉があります。それは知識も含まれるでしょうけれど、それよりも、生きる上でうまく工夫する力、あるいは適切に判断する力のようです。そして聖書は、「上から出た知恵」、すなわち神さまが与えてくださった知恵について語ります。


 (2009年9月20日礼拝説教)

「助けをいただくために 牧師 横野朝彦

イザヤ53・10―12

ヘブライ4・14―16

「福音と世界」5月号の特集は、「『生きるに値しない』とされた生命へのまなざし」というものでした。関西学院大学神学部の教師である土井健司さんが、「『生きるに値しない』とされた生命へのまなざし」とは、第三者的に、三人称として見るものではなく、二人称として、その存在をかけがえのないものと見る存在であり、「これこそはわれわれ被造物に対する神の眼差しではないだろうか」と述べておられます。


 (2009年10月18日礼拝説教)


「出でゆくとき 牧師 横野朝彦

ヨハネ20・19―23

日曜日の夕方、弟子たちは家のなかで鍵をかけて閉じこもっていました。イエスを十字架にかけた人たちのことを恐れ、内向きになっていたのです。この姿に、今日の教会の姿勢が重なります。教会が自分たちだけのことを考えいるならば、まさしくこの弟子たちと同じ姿であると思います。ところが、そのような弟子たちのところに復活のイエスは来てくださいました。自分の殻のなかに閉じこもっていた弟子たちに、「さあ出て行きなさい」と促しを与え、彼らをこの世に派遣されたのです。

(2009年11月8日教会創立記念日礼拝説教)


「飼い葉桶のおさなご 牧師 横野朝彦

ルカ2・1−7

水野源三さんの作品に「知っていますか」という題の短い詩があります。「知っていますか ほんとうですか 明るい蛍光灯も 暖かなストーブも やわらかなベビーベッドもない 馬小屋のかいばおけに 寝かされている方が 私達の救い主だと 知っていますか ほんとうですか」 「ほんとうですか」というのは、疑っているために「ほんとうですか」と尋ねているのではなく、こんな素晴らしいことがあるなんて、という喜びを込めた言葉です。

(2009年12月20日クリスマス礼拝説教)


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