
ヨハネ1・1―14
ヨハネは、主イエスこそ暗闇の中で輝く光であると言います。ヨハネはわたしたちの時代と社会が闇に覆われていることを強く感じています。けれども、このような闇のなかに光が永遠の昔から存在し、輝いていることをヨハネは知っているのです。
創世記4・1―10
カインとアベルの物語は、神さまの選びがアベルに与えられた話として知られています。しかし、この話を続けて読んでいくと、主人公はカインのほうであることがわかります。アベルについては最初に出てきて、すぐに命を落として、そのあとは何も触れられていません。
(2005年10月30日 礼拝説教)
マタイ25・14―30
主人がタラントンをしもべに預けて旅に出る譬話があります。これを、お金を増やす生き方がほめらるのだというような読み方をしてしまってはなりません。また、タラントン=才能というふうに読むのも、主イエスの教えておられるところではありません。
(2005年10月9日 礼拝説教)
説教題「いのち奏でる」は、神奈川新聞に「かながわ人間劇場」として連載された読み物のタイトルをそのまま使わせていただきました。2004年1月3日に亡くなられた大瀬敏昭さんという小学校の校長先生の話です。大瀬さんは、余命を告知されたのちに、教会に通い、洗礼を受けました。そして学校では、子どもたちに「命の授業」をなさいました。それは命の尊さを語るだけの授業ではなく、「永遠の命」について子どもたちに考えさせようとするものでした。
(2005年9月11日 礼拝説教)
ルカ19・41―44
8月第1日曜日は日本基督教団の行事暦で平和聖日と定められています。広島、長崎を考えるときに、日本は被害者であって、過ちを犯したのは外国だというふうに考えられがちです。こういった問題は、それこそ他人事と考えたほうがよほど楽なことです。あれはアメリカが悪いとか、軍部が悪いとか、それこそ政治問題としてしまうか、あるいは「過ち」の主語は誰かと論争しているほうが楽だし、またそのほうが勇ましいのです。けれども、それでは問題は解決しません。そうではなく、あのときのことを自分の問題として受けとめていく感性こそが求められているのではないでしょうか。
(2005年8月7日 礼拝説教)
歴代誌下6・12―21
教会とはなんなのでしょうか。教会とはどのようなところなのでしょうか。使徒信条には、「聖なる公同の教会」と信仰告白されています。「聖なる」というと、人格高潔で、間違いなどなにひとつしないと思われるかも知れません。でも、その意味では、教会はそれ自体が聖なる存在ではありませんし、そこに集まっている人間も聖なるものではありません。
(2005年6月26日 礼拝説教)
エフェソ2章1節以下に、新共同訳では「死から命へ」という見出しがついています。「死から命へ」というだけでは、個人、ひとりの人間の生き方の問題と聞こえる可能性があります。でもエフェソの信徒への手紙は、もっと、わたしたち人間社会全体のありかた、そして救われたものとしての教会のありかたを、大きな救いの歴史のなかで語っているのだと思います。
(2005年5月22日 礼拝説教)
カトリックの司祭、晴佐久昌英さんが「病気になったら」という詩を書いておられます。「病気になったら どんどん泣こう」と書き始められています。一般に、わたしたちは弱さを見せまいとします。弱みを見せれば負けだと、なんとか強がろうとしている、それがわたしたちの社会ではないでしょうか。けれどもキリスト教というのはおかしな宗教でして、弱さを隠そうとはしないのです。
(2005年5月1日 礼拝説教)
ヨハネ20・1―10
ヨハネ20章には、「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」と書かれています。それは、朝早く、まだ暗い時間でした。それは、まだ闇が支配していた時間であると言うことができます。福音書記者ヨハネは、主イエス・キリストの復活を報告する記事を書きながら、まだここでは復活そのものではなく、人々の間にあった闇を描こうとしているように思えます。
「彼の受けた傷によって
わたしたちは癒された」 |
牧師 横野朝彦 |
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マタイ27・15―26
1891年に生まれたスウェーデンの作家ラーゲルクヴィストの作品「バラバ」によれば、バラバは、ローマの町に放火したキリスト教徒たちのひとりとして逮捕されます。そしてバラバも磔になります。小説の最後にこう書かれています。「――お前さんに委せるよ。俺の魂を。 そして彼は息絶えた。」これは、小説家の空想です。しかし、イエスの十字架によって助かった彼は、主イエスの十字架が、「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」というイザヤの預言を身をもって体験した人であったのは確かなことです。
マタイ15・21―28
キリエ・エレイソンとは、新約聖書の原語であるギリシャ語で、「主よ、憐れんでください」という意味です。わたしたちは誰も、「主よ、憐れんでください」と叫ばずにおれない存在です。そしてこの叫びを心の底から主に向かって叫ぶとき、主はそれを聞いてくださるのです。ルカ1章に書かれているマリアの賛歌には、「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」と歌われています。
(2005年1月30日 礼拝説教)
コリント一、1・1―9
パウロは手紙の冒頭で、「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と挨拶を送ります。この言葉は、新約聖書の殆ど全部の手紙の書き出しのところで使われています。手紙だけではなく、日常の挨拶においてこの言葉を交わしていたのでしょう。挨拶をするということは、挨拶をする者同士の間に、主が共にいてくださることを確かめ合い、主がいてくださることを喜び合うのです。
(2005年1月1日 東京教区東支区新年礼拝説教 於富士見町教会)
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