説教通信(要旨) 2004年



「神は我々と共におられる 牧師 横野朝彦

マタイ1・18―25

バーンサバイのニュースレターに、デーンさんというかたがご自分のことを書いておられます。HIVの感染がわかった彼は、自分の余命がいくばくもないならば、残された人生に何をすべきなのかを考えて、自分と同じようにHIVに感染した人たちの家を訪ね、彼らをサポートする仕事を始めました。「彼らは、村の人たちから受け入れられず、自分の村を出なければなりませんでした。また、彼ら自身も自分を受け入れることができずにいました。」HIVやエイズという病気は感染した人を肉体的な病気に陥らせるだけではなく、もっと根本的に人と人とのつながりを断ち切るのです。

(2004年12月19日 礼拝説教)

「神の住まいとなる 牧師 横野朝彦

エフェソ2・14―22

番町教会は、創立118周年を迎えました。わたしたちは、多くの先輩たち、天上の友たちの祈りと労苦によって、今ここにあります。わたしたちは、この信仰を継承し、教会を建てていきます。それはわたしたち自身の信仰をたて、わたしたちのうちにキリストが宿ってくださり、神の住まいとすることです。そしてそのために、十字架についてくださったキリストを土台とし、和解を与えられ、一つの体として組み合わされていくことです。

(2004年11月14日 礼拝説教)

「御手をもってわたしを導き 牧師 横野朝彦

詩編139・1―10

ローマ11・33―36

 わたしが学んだ学校の建物の一つに、言葉が刻まれていました。「行け、行け、平和のうちに行け、強くあれ、神秘の御手があなたを導くであろう」と、英語で書かれていました。学校の創立者が第一回の卒業式のときに英語で語った言葉だと記憶しています。今卒業をして何十年も経って、考えてみれば、まさしくこの言葉のとおり、神秘の御手の導きが自分に与えられていたことを思わされます。

(2004年10月3日 礼拝説教)

「あなたがたのために苦しみを受け 牧師 横野朝彦

第一ペトロ2・21―25

 大江健三郎さんは、「私はただ、十字架の上で死なれた、そして『新しい人』になられたイエス・キリストがよみがえられたということを、つまり再び生きられて、弟子たちに教えをひろめるように励まされたということを、人間の歴史でなにより大切に思っています」と言っておられます。わたしたちはこのように、福音を、何より大切なものとして聴きとっているでしょうか。

(2004年9月19日 礼拝説教)

「立ち帰ることを求めて 牧師 横野朝彦

エレミヤ36・1―8

フランク・パブロフという人が書いた「茶色の朝」という本があります。主人公である俺と、友人であるシャルリーが、なんとなく時の流れに身をまかせながら、深く考えることもなくお喋りをしています。シャルリーは、最近自分の飼い犬を安楽死させました。今はなんでも茶色がよいという時代に、シャルリーの犬は茶色ではなかったからです。読んでいた新聞も廃刊になります。読むのは、「茶色新報」です。でも主人公は思うのです。「街の流れに逆らわないでいさえすれば、安心が得られて、面倒にまきこまれることもなく、生活も簡単になるかのようだった。茶色に守られた安心、それも悪くない。」

(2004年8月1日 礼拝説教)

「大いに慰められ 牧師 横野朝彦

使徒言行録20・7―12

わたしたちはよく耳にします。「礼拝は魂の平安を得るところだ」と。このような言い方は、間違いではありません。でも、礼拝がただそれだけの場所であるならば、それはまことに不十分だと言うべきです。自分自身は少しも変わることなく、また自分自身をささげることないならば、わたしたちは礼拝をまだ充分に体験していないのです。そして、ささげる、変えていただくということを、別の表現で言うならば、キリストの十字架とともに古い自分に死に、キリストの復活とともに新しい自分に生きるということです。

(2004年7月11日 聖霊降臨日礼拝説教)

「聖霊があなたがと共に 牧師 横野朝彦

ヨハネ14・14―27

わたしたちが生きる限り、わたしたちは多くの助けを必要としています。わたしたちは一人で生まれ出ることはできません。自分の力で生きるには幼年期だけでなく、青年期も含め、長い年月が必要です。また老いて死ぬことも、残念ながら一人でそれをすることはできません。助けを求めることは、人によってはなにか恥ずかしいことのように言う人がいますが、実はそうではなく、人間にとって助けは必要にして不可欠なものなのです。人には助けを受けなければならないときがあるし、否むしろ、人は助けを必要とする存在なのです。

(2004年5月30日 礼拝説教)

「キリストの愛から離れない 牧師 横野朝彦

ローマ8・28―39

パウロは、滅びるべきはずのわたしたちと、共に働いて、執り成しをしてくださる聖霊や、主の十字架と復活について述べます。パウロは自分という弱い、滅ぶべき器に、神さまの愛が注がれていることを実感していました。そこで、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」という問を投げかけるのです。この問は、言い換えれば、誰も引き離すことが出来ないという結論を、あらかじめ前提にした問であると言うことができます。

(2004年5月16日 礼拝説教)

「生きておられるかた 牧師 横野朝彦

ルカ23・56b―24・12

聖書が復活を証言しているのは、2000年前の過去に起こった出来事を記録したのではなく、わたしたちが新しい命に生きるための呼びかけであり、福音です。そしてそれは何よりも、死に瀕した命をも肯定することであり、どのような状況にあってもそこに働く主の命を見いだし、わたしたちもまた主と共に生きることなのです。

(2004年4月11日 復活日礼拝説教)

「招待された人々 牧師 横野朝彦

ルカ14・7―14

「客と招待する者への教訓」と題された今日の聖書の箇所を読んで、わたしは一休さんのお話を思い出しました。汚い服を着ていったら追い払われ、そこで金襴の袈裟だけを席に置いたという話です。でもこれを、人を外見で判断してはだめだという教訓としてしまうと、不十分な気がします。大切なことは、一休和尚がこじき坊主の姿をして飾らずに生きたということではないでしょうか。同様に、主イエスの譬は、教訓ではなく、自らが末席についてくださった主が、わたしたちに与えてくださった、キリストの道への招きだと思います。

(2004年3月14日 礼拝説教)

「その人は身を起こし 牧師 横野朝彦

ルカ6・6―11

2月号の「こころの友」の一面に、弁護士の坪井節子さんが紹介されていました。坪井さんは子どもの人権に関わりつづけておられます。坪井さんの書かれた本には、子どもたちのおかれた現状が具体的に述べられ、「あなたは悪くない、変わるべきは大人であるという怒りが湧き起こります」と述べられています。

(2004年1月25日 礼拝説教)

「居場所 牧師 横野朝彦

ルカ2・41―52

子はいつかは親を離れ、ときには反抗をして、自分という人間を作っていくものです。少年イエスが、「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」と言ったことは、イエスが自分の居場所が神さまのもとにあるということを確信していたということです。

(2004年1月4日 礼拝説教)


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