
ルカ2・1−20
イラクでの戦闘が続いています。双方に多数の犠牲者が出ています。このような状況のもとで、主イエスは今どこにおられるのでしょうか。その答ははっきりしています。この世にあって価値なきものであった飼い葉桶に寝かされた幼子は、圧倒的な軍事力のもとにではなく、苦しむ民衆の一人としていてくださることでしょう。
(2003年12月24日 キャンドルサーヴィス説教)
ヘブライ10・32―39
番町教会の創立は1886年11月13日です。初代牧師の小崎弘道は、明治期のキリスト教会にとって大きな存在でした。けれども、わたしが興味を覚えるのは、そのような立派さであるよりは、むしろ神さまの大きな御手によって、おそらく小崎自身が考えてもみなかった方向へ、翻弄されるように運ばれていった人物であったということです。
列王記上17・8―16
エリヤはアハブ王の悪政に対し、神の裁きとして干ばつを預言しました。干ばつのはじめは、烏がエリヤを養いました。烏は汚れた動物とされ、神さまから遠いと見なされていました。次に異邦人の町サレプタで社会的に最も弱者であった一人の女性のもとへ行きます。そして、けっして尽きることのないパンを与えたのでした。それは主イエスが、「わたしは命のパン」と言われたことを思わせます。
(2003年10月5日 礼拝説教)
ローマ13・8―10
わたしは8月18―22日、タイを訪問しました。タイ北部、チェンライという町にあるサハサースクサ・スクールに、子どもたち3人の奨学金を届けるためです。ここに奨学金を送るのは、これで4年目になります。帰国後、同じようにタイにボランティアに行った若者が次のように言うのを聞きました。それは、「相手にとって自分たちは異文化だ」という言葉でした。
(2003年9月7日 礼拝説教)
コリント二 13・4−10
わたしはこのごろ、つくづくと思うのです。それは、同じ一つの出来事を見ても、それを強い立場から見るのと、弱い立場から見るのとでは、それこそ天と地ほどの開きがあるということです。自らの弱さを知る。そこからすべては始まっています。強い人間には気づかないことがたくさんあります。強がっているうちはわからないことがたくさんあります。なによりも、神さまの前に弱さを認め、打ち砕かれていくこと、そのとき、そこにキリストが共にいてくださることを悟ることができます。
(2003年7月27日 礼拝説教)
コリント一 10・23―11・1
与えるということ、施すということは、ある人からすれば損をしているように見えるかも知れないけれど、実はそのことによって豊かにされる、このことは真理だと思います。キリストが自らを低くされ、己をささげられた。この恵みにわたしたちも生きよう、そして自らをささげるものとなろう、そのときわたしたちは真実豊かにされる。そのときわたしたちは真実平和になれる。これは、文化や民族だけではなく、宗教さえも越えてわたしたちをひとつにする真理であるとわたしは思います。
コリント一 10・23―11・1
パウロは、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と言いました。わたしはこの言葉がどうも好きになれずにいました。「わたしに倣う者となりなさい」とは、なんと傲慢な言葉だと、思えてならなかったからです。でも、ここでパウロは、わたしのような立派な者になれと言っているのではありません。
(2003年5月25日 礼拝説教)
マルコ4・13−20
蒔いた種を30倍、60倍、100倍にするにはどうすればよいのか。わたしたちは普通、そのためにさまざまな方策を考えます。けれども、主イエスはそれらの方策はかえって御言葉を覆いふさぐだけだと言われます。主イエスは、「御言葉を聞いて受け入れ」なさいと勧めておられます。なによりもまず、神さまの御心を聞くことを大切にし、それに従っていくならば、すべてのものはそえて与えられるのです。
(2003年5月11日 礼拝説教)
マルコ16・1―8
1984年、64歳で亡くなられた上野英信さんというかたがおられます。九州・筑豊にある福吉伝道所に、犬養光博というわたしの尊敬する先輩牧師がいますが、犬養牧師が上野さんについて「死ぬための仕事、生きるための仕事」という文章を書いておられます。「筑豊の記録作家、上野英信先生が、テレビ番組に出演されて、ご自身のなさってきた仕事について語られたことがあった。・・上野先生は『今までは生きるための仕事をしてきましたが、これからは死ぬための仕事をしたいです』と言われ、『死ぬための仕事とはどんな仕事ですか』というアナウンサーの問いに答えて、『蚕が繭を作るような仕事です』と言われた。」
(2003年4月20日 イースター礼拝説教)
マルコ12・13−17
イラクでの戦争による民間人の犠牲者が増えています。この戦争は宗教戦争だと言われ、ブッシュ大統領は演説の中で繰り返し神の名を用いています。どう考えれば良いのでしょうか。
このホームページ上で、いつもは月に一つの説教を紹介していますが、イラク戦の状況下で、番町教会の礼拝で何が語られたかを読んでいただきたいと思い、3月は計3つの説教を掲載します。
(2003年3月30日 礼拝説教)
マルコ10・32―34
イラクへの攻撃が始まりました。戦争の終結と平和を心から祈り求めます。日本バプテスト連盟伊都教会の木村公一牧師が「人間の盾」としてバグダッドにおられます。木村牧師はご自身の行動を「共に生きる」ミッション(宣教)として位置付けられています。また伊都教会は、臨時信徒会を開き、牧師を派遣しました。
(2003年3月23日 礼拝説教)
マルコ9・14―29
昨年秋に創刊された「ふぁー」という雑誌で、チェ・ソンエさんが次のように語っておられました。「教会では『神さまを信じている』前提が必要とされていました。わたしはそんなふうに信じきれているのか自分自身でも分かりませんでしたが、教会ではそうつぶやくことを許してくれません、いえ悩むことさえ許してくれなかった。・・純粋に信じている人たちに水をさすようなことを言ってはいけないのが教会でした。しかし、わたしが教会に求めたのは、信じることができないような人がそこで悩むことができる場所でした。」わたしはこの言葉に共感します。
(2003年3月16日 礼拝説教)
マルコ5・21―24、35―43
北海道浦河にあるベテルの家について紹介された言葉のなかに、次のように言われていました。「苦労は生きているひとみんなにある。『治る』というのは生きていくうえでの別の苦労に戻ることでしかない。」主イエスは、病を負う人々と出会われ、進んでその病を治されました。病気の治療をなさいました。でもそれは、単なる治療ではなく、単に治すというのではなく、その人を全体的に癒すということだったのです。
(2003年2月2日 礼拝説教)
| 「あなたの罪は赦される」 |
(1月) |
牧師 横野朝彦 |
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マルコ2・1―12
大きな苦しみや悲しみに出会ったとき、人は自分自身を責めることがあります。「そんなに自分を責めないで」という言い方もありますが、わたしはむしろ、自分に直接責任のないことを、自分のこととして受け止めることができるのは、人間だからこそできることであり、かえって大切なことのように思えます。罪とは関係の壊れのことです。そして、悲しみや苦しみを我がこととして、共に担い合っていこうとするところに、神様は赦しの御声を与えてくださっています。
(2003年1月19日 礼拝説教)
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