説教通信(要旨)2001年

2001年2月〜2001年12月




「救い主がお生まれになった」 (12) 牧師 横野朝彦

マタイ2・1―15

人生の旅を私たちはどのような目標を持って歩んでいるでしょうか。過ぎ去るべきもの、朽ち果てるべきものを目標としてきたのではないでしょうか。主イエスがお生まれになったとき、東の国の博士たちがお祝いにやってきます。しかし彼らは行く先を間違えていました。偉大なかたがお生まれになったのだから、きっとそれは王様の宮殿におられるに違いない、博士たちはそのように思ったのです。博士たちの間違いは、私たち自身が向かっている方向の間違いを象徴するものだと思えます。

                       (2001年12月23日 礼拝説教)

「互いのために祈り」 (11) 牧師 横野朝彦

ヤコブ5・13―16

私が学生時代世話になった先生は、癌の手術を受ける直前、一人の看護学生が「祈ってもいいですか」と尋ね、素朴な祈りをささげてくれたことによって大きな平安が与えられたと述べておられます。私自身、なんど他の人から祈られてきたことでしょうか、そして今も祈っていただくことを必要としていることかと思います。聖書に、「主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」と教えられています。教会はこの御言葉のもとに連なる信仰者の群れであり、ここに教会の働きがあります。

                       (2001年11月18日 礼拝説教)

「悪に悪を返さず」 (10) 牧師 横野朝彦

ローマ12章9―21節

NGO「ペシャワール会」の中村哲が語っておられました。「アフガンはシルクロードの十字路であるため、古代から現在にいたるまで戦争が繰りかえされました。『やられたらやり返せ』をしないと生き残ることができない土地です。・・・そのたびに私は『復讐をしてはならん』と言います。すると彼らは目を丸くして『仕返しをしてはならんですって!ドクターは正気か』と驚きます。私は『復讐をすれば必ずあとで仕返しを受ける。今は我慢だ』となだめます。これを17年間やってきました。」

悪に悪を返そうとするならば、それは必ず報復の連鎖、憎悪の連鎖を生み出すことでしょう。このような憎悪の連鎖の只中に、主イエスが来られ、ご自身を十字架に差し出され、さあこれで憎悪はお終いだと示してくださった。この愛に生きることこそ、私たちのなすべき礼拝です

                       (2001年10月21日 礼拝説教)

「神の御言葉を食べる」 (9) 牧師 横野朝彦

エゼキエル書2章7節―3章3節

預言者エゼキエルは、哀歌とうめきと、嘆きの言葉で満ちた厳しい裁きの言葉を食べよと神様から命じられます。彼は口を開き、巻物を食べます。ところが、「それは蜜のように口に甘かった」ということです。どういうことでしょうか。第一に、聖書の御言葉はしばしば私たちに実行することの不可能なようなことを突きつけてきます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という主イエスの言葉などは、典型的と言ってもよいほど、難しい言葉です。そんな言葉は食べられない。だけど、無理をして少し食べてみると、ここに私たちを本当に生かす力があると気づかされていくのです。第二に、裁きの言葉でありながらそれが甘かったということは、これら裁きの言葉の深いところに、神の愛があるということです。神様はただ裁くために厳しい言葉を言われるのではなく、神様に立ち返るように求めておられるのです。

                         (2001年9月30日 礼拝説教)

「謙遜と献身」 (8) 牧師 横野朝彦

?ペトロ5・1―7

明治学院大学の副学長をしている山崎美貴子という先生は、日本では、家族とか友人とか、身近な周りの人に対する親切はいくらでもできるのだけれど、知らない第三者と共に生きるというのが、なかなかうまくいかないと指摘し、ボランティアをはばむ一つの要因として、家の中のことは家の中でするという日本の社会のありかたが関係していると述べておられます。

家の中で自己完結してしまうのと同じように、日本社会はこれまで、会社人間という言葉で表現されるように、会社の中で自己完結してしまうことがあったように思います。考えてみれば、教会も同じかもしれません。教会の親しい兄弟姉妹で信仰共同体を作り、居心地の良い教会が作られる、けれどもそこでは、教会がかかわるべき、また仕えるべき、この社会のさまざまな問題や人が抜け落ちているのではないでしょうか。

                        (2001年8月19日 礼拝説教)

「救われるように」 (7月) 牧師 横野朝彦

ペトロ2・1―10

「渇きを与えられた主は、満たしの水も与えられる」という言葉を聴きました。この言葉には信仰のとても深いものがあると思います。

ペトロは、わたしたちに霊の乳を求めなさいと言います。それは神の御言葉のことです。そして続けて「主のもとにきなさい」、つまり主イエス・キリストのもとに来なさいという薦めます。ここでわかることは、ペトロにとって、永遠に変わることのない神の御言葉は、キリスト・イエスにおいてあらわされ、成就しているということなのです。今や御言葉とはキリストのことにほかならない、ここにこそ永遠に変わることのない御言葉、ここにこそどんなことがあってもゆらぐことがない土台がある。

この土台にわたしたちを導くために、神はときに渇きを与え、そして満たしの水を与えてくださるのです。

                         (2001年7月8日 礼拝説教)

「どこへ遣わされようとも」 (6) 牧師 横野朝彦

エレミヤ1・4―10

召命ということは、お前に能力があるから選ぶというのとは違うと私は思います。パウロは、神様は世の無学なものを選び、無きに等しいものをあえて選ばれたと第1コリントで言っていますが、そのとおりだと思います。私たちがしている働き、仕事、それはどのようにして選ばれてきたのでしょうか。自分は自分の職業を自分で選んできたと言われるかも知れません。あるいは、自分は自分の職業を嫌に思っているという人もおられるでしょう。でもそうではないのです。仕事は神さまの呼びかけによって始められます。

神様の召命を受けたものとして、どこへ、誰のもとへ遣わされるかわからない、そして遣わされる先に困難があることは、目に見えている。ここでなら語れるとか、ここでなら何かが出来るというようなところではない。むしろこんなところで私には何も出来ないというところへ、神様は私たちを押し出そうとされるます。そしてそこで私たちは、言葉も業も力も足りない自分を用いられる、聖霊の働きを知ることになるのです。

                           (2001年6月3日礼拝説教)

「神の恵みと養い」 (5) 牧師 横野朝彦

出エジプト記16・1―8

荒れ野をさまよい、食べ物がなくなったとき、人々は、こんなことなら奴隷状態から逃げ出さなければよかったと考えました。そして、そんな彼らに神様は天からの食べ物マナを与えられたのでした。

「エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」と呟く彼らの言葉は、そのまま私たちの毎日の生活ではないでしょうか。たとえご馳走がいっぱいあっても、心の中は奴隷になっている、これはまったく私たちの現代社会の病そのものだと思います。そうではなく、そういうものから解放され、たとえ荒野のなかにあっても、神様はあなたを愛してくださっている、そのことを教えてくれたのがマナの出来事なのです。ナウエン著「アダム」には、富と名声を手に入れているにもかかわらず、愛されている実感の持てなかった女性が、何も出来ない一人の男性としばらくのときを過ごし、一緒に食事をしただけで、自分が受け入れられていると気づくことができたという話が紹介されています。

(2001年5月6日 礼拝説教)

甦りの主は共に歩まれる」 (4) 牧師 横野朝彦

ルカ24・13―27

夕暮れ時、二人の人が旅をしています。彼らは一本の道を深い嘆きと悲しみ、そして心の傷を負って歩いています。沈みゆく夕日に向かって歩いているさまを、ある人は「没落していく悲しみ」と表現されました。ところがそこへ一人の人が近づいてこられます。彼ら二人は暗い顔をして立ち止まったということです。そして彼らは再び歩き始めます。復活の主イエス・キリストと共に。彼ら二人の心は癒されていきます。そして心が燃えていきます。

関屋綾子さんは、息子さんを12歳で亡くされた体験を綴った文章のなかで、一本道の情景を描いておられます。それは息子さんが倒れた通学路でした。「ある日、あの一本道をひとりで歩いていたわたしの心の中に、すばらしい展開がおこった。太陽が、赤らんで、西の空に沈んでいくころであった。その時、わたしの心は、孤独な一連の詩として、キリストもかつて、この太陽を眺められたのだろうと、ふと思った。」「わたしは、ひとつの光を、自分のものにすることがゆるされたのである。その光に照らして、わたしは神の御言葉を、深く感ずることをゆるされるであろう。」

(2001年4月15日 礼拝説教)

「負い目を帳消しに」 (3) 牧師 横野朝彦

「不正な管理人の譬」という話があります。使い込みのばれた人が、主人に借りのある人を呼び寄せ、借金の証書を減額してしまうのです。悪に悪を重ねる大変なことです。ところが、主イエスはこの譬話で、主人はこの不正な管理人のやり方をほめたと言われるのです。そればかりではありません。9節によれば、「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友だちを作りなさい」と勧めているのです。この箇所は聖書を読む人を悩ませて来ました。今日私が話すのは、その一つの読み方です。

 私たちが今、神様の前に立たされ、あなたの会計の報告を出しなさいと言われれば、どのようにすればよいでしょうか。反省ばかりが頭に浮かびます。どう計算をしても、赤字ばかり、負債ばかり、負い目、罪ばかりが帳簿に並ぶことになってしまいます。私たちはどう考えるでしょうか。逃れる道があるとすれば、主の祈りで祈られているように、「わたしたちの罪を赦してください。わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから」と祈っていくほかないのです。

(2001年3月11日 礼拝説教)

「放蕩の限りを尽くし」 (2) 牧師 横野朝彦

聖書 ルカ15・11―24

彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。

「幸せの黄色いハンカチ」という映画がありました。北海道の炭坑の町で働いていた一人の男が刑務所を出て、自分の家に帰ります。悪いことをした自分を妻は待っていてくれているだろうか、それとももう帰ってこなくてもいいと言われるだろうか。そんな心を描いた映画でした。実はこれはアメリカで本当にあった話なのだそうです。「もしも迎えてくれるなら、村のはずれの樫の木にハンカチを結びつけておくれ、ハンカチがなければ、会わないでそのまま行ってしまうから。」このあと話がどうなったかは皆さんご存知のとおりです。村のはずれの大きな樫の木には、黄色いハンカチが、一枚ではなく、枝という枝に、まるで花を咲かせたように、結びつけられて、輝いていたのです。これが実話だというのですから、なかなか素敵です。

聖書に書かれている放蕩息子の譬話は、父親の財産をわけてもらい、放蕩の限りを尽くし、食べるものもなくなります。そして父のもとに立ち返ったのでした。この父親とは、神様のことをさしています。人間は誰でも過ちを犯します。絶対に正しい人間などいません。そんな私たちが神様のもとに立ち返るとき、神様は私たちの過去を問わず、私たちを喜んで迎え入れてくださるのです。父親は息子がどの程度改心をしたのか、これから真面目な生活を送ることができるか、そういったことを一切確かめようともせず、息子を受け入れています。そして自分のほうから駆け寄り、息子を抱きしめるのです。幸せの黄色いハンカチが満開になっているような、素晴らしい光景です。

 息子は、親を離れて自由に生きたいと考えました。けれども彼は、自立的であろうとしながら、父親の財産を受け取って家を出て行きました。近代の人間も、自立的で、神様など認めないで生きていながら、実は神様から多くのものを受け取っているのです。パウロの言葉を借りれば、「あがめることも感謝することもせず」に、自分たちは自分たちの力で生きていると錯覚をしている。そんな人間が行き詰まり、しかも飢饉が襲ってきて、生きるすべを失っている。それが私たちの姿ではないでしょうか。そんな私たちの帰ってくるのを神さまは待っていて下さるのです。旧約聖書のイザヤ書に、「主は恵みを与えようとして、あなたたちを待ち、それゆえ、主は憐れみを与えようとして、立ち上がられる。」とあります。主のもとに帰る人は幸いです。

(2001年2月25日 礼拝説教要)

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